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私は学校に入る前にやっておかなかくて後悔していることがある。ダンスだ。刺繍の授業のときに嫌な予感はしていた。お母様がステップの練習はしておくかと聞いてくれたのはこのためだったのかと今更になって気がづいた。
初めてのダンスの授業は基本ステップの確認で、出来なかったのはラヴァン嬢と私くらい、刺繍の授業と同様に程度の差こそあれみんな当たり前にステップを踏めていた。学校でやるならそのときでいいと断った過去の私の肩を掴んでやっておくべきと説得しに行きたいくらいには悔やんでいる。お母様はこうなることがわかっていたのだろう、あのときの含み笑いの意味が今ならわかる、ちょっとくらい困るのも経験よねとでも思っていたのだろう。その日、寮に戻ってから、してやられた! と机の上で頭を抱えた。
とはいえ、落ち込んでいても仕方ない、次のダンスの授業からは三年生のご令息と組んで練習が始まる。誰と組むことになるかはわからないが足を踏んだりすることは避けたい、そう思って部屋でコツコツと練習を重ねた。
ゆっくりとなら基本のステップを踏むことができるようになったころ憂鬱な二回目のダンスの授業がやってきた。デモンストレーションとしてホールの中央で王太子殿下と華麗に踊るジェニア様を見て、彼女に教えを請えばよかったと自身の機転の利かなさを痛感した。そんな私とは裏腹に周りからは感嘆の声が漏れ聞こえる。お二方とも将来、国を背負う者として他者の規範となるよう入学前から厳しい教育を受けてきたであろうことは想像に容易い、そんな相手に教えを請えばなどと思い至ったことがとんでもなくおこがましく思えた。
このあと、前回の授業で確認した技量によって割り当てられた相手と組むらしい、私の相手は相当うまい人になるのだろうが、できれば優しい人でありますようにと心の中で切に願った。
「リンドステット子爵令嬢は貴女か?」
低く冷たい声に呼ばれてゆっくり視線を上げると、伏し目がちの切れ長の目に見下されていた。ひゅっと息が漏れる。無理矢理出した肯定の言葉は震え上ずっていた。どうやら願いは叶えられなかったらしい、そう悲観しているのを感じ取ってか、お相手の令息は眉間に皺を寄せ視線を横に流し、くしゃりと緩やかにウェーブのかかった青藍の髪をかき上げた。
そこではたと気がつく、夜明け前のような青藍色の髪といえば以前ジェニア様が教えてくれた彼女の異母兄の特徴ではないか、背中に冷たい汗が吹き出した。
「スフォルトーナ公爵令息にご挨拶申し上げます……っ」
スカートをつまみ慌てて頭を下げる。ジェニア様がああだから忘れてしまいがちだが公爵家の子女は子爵家の人間からすれば雲の上のような存在だ。下手っぴな私にはもっと足を踏んでしまったとしても笑って許してくれそうな同等の爵位家の優しそうなご令息を当ててくれてもいいじゃないか、次期公爵様の足を踏もうものなら私はどうなってしまうのか……。
「……妹から話は、聞いていないようだな」
恐る恐る姿勢を直すと彼は体の前で腕を組み一点を見ていた。その視線の先にはジェニア様がいて、視線に気がついたのか彼女も顔だけをこちらに向けてパチンとウインクをした。その瞬間、近くでため息が聞こえ、顔を正面に向けたとき目にしたスフォルトーナ卿の表情が、ヴィルがお姉様にしょうがないなと言っているときと重なって見えた。私より頭一つほど高い身長と硬い表情で勝手に怖いと感じていたけれど、その表情一つで若干の親近感を持ってしまうのだから私という人間は単純にできている。彼と私が組むことになったのはジェニア様がなにかしら手を回したのだろうと察しがついた。
事実、スフォルトーナ卿は気さくではないがゆっくりと私のペースに合わせて指導を行ってくれている。恥ずかしながら入学前にステップを学んでこなかったこと、自室で練習をしたがあまりうまくなったとは言えず足を踏んでしまう可能性があることを話したとき、「足を踏ませてしまうのはこちらの技量の無さだ、気にする必要はない」とこちらを気遣う言葉をかけてくれた。
「顔を上げて」
本日、何度目かになる指摘の言葉に顔を上げる。わかっていてもついつい視線が下がってしまう。同じことを何度も言うのは足を踏まれるのと同じくらい煩わしいだろうにスフォルトーナ卿は嫌な顔ひとつしない。
思い切って彼と目が合うくらい顔を上げた。改めて見た水底のような深い蒼の瞳、
「ジェニア様と同じ色」
ポツリとついて出た言葉で急に止まったスフォルトーナ卿の胸に思いっきりぶつかってしまった。ついでに足も踏んだ。聞こえてきた悲鳴は次期公爵様狙いでこちらの様子を伺っていたご令嬢のものだろう。慌てて飛び退き「申し訳ございません!」と勢いよく頭を下げた。
「いや、こちらこそいきなり止まってすまない。妹と同じ色とは?」
「あ、瞳が同じ色をしておりましたので、思わず、ご気分を害されましたら申し訳ございません」
「……ああ、そうだな、これは彼女と同じものだ」
ふっと緩んだ表情がうっとりしているときのジェニア様とどことなく似ていて目の色だけではなくご兄妹なのだと思えた。
再開しようと差し出された手を取る。慣れてきたのか、緊張が解れてきたのか先程より足取りが軽い気がした。
「妹に聞いていないのかと言った話だが」
「は、はい」
「妹がキミのことを頼みに来た。ダンスが苦手なようだから教えてやってほしい、と」
やっぱりそうだったのかとため息を吐きそうになって飲み込む。ジェニア様は善意のつもりなのだろうが、次期公爵様にお相手していただくのは荷が勝ちすぎている、気にしないようにしているが周りからの視線も痛い。あとは兄を紹介するいいきっかけだとも思っていそうである。
「一番仲のいい友人だと話していた、多少強引なところもあるがこれからも仲良くしてやってほしい」
「も、もちろんでございます」
「キミに婚約者がいるのが実に惜しい」
そう言われて答えかねていると、妹が好んでいる相手を伴侶にしたら彼女が結婚して家を出ても帰ってきやすいだろう、と至極当然のように言うから別の意味で言葉を失った。本人に自覚があるかはわからないが、カーティス・アスル・スフォルトーナは相当なシスコンだと窺えた。
食堂で夕食を済ませ、ジェニア様が部屋に戻っているであろうタイミングを見計らって初めて彼女の部屋を訪ねた。同じ間取りであろうはずの部屋から豪奢な印象を受けるのは天蓋付きのベッドや美しい装飾のテーブルセットなど備え付けの品ではなく明らかに持ち込みだとわかる上質な調度品の数々が設えてあるせいだろう。
「リネア? どうかした?」
「いえ、すごいお部屋ですね」
「これでも公爵令嬢ですのよ。さあ、座って、リネアから訪ねてきてくれるのは嬉しいわ」
勧められた椅子に座るのも緊張して、言いたかったことがふっとんでしまった。歓迎してくれているのは嬉しいが、もう既に帰りたい。
「あっ、ダンスの時間、お兄様とどうでした? びっくりしたでしょう、ふふ、先に話しておこうかとも考えたのだけどサプライズの方が面白いかなと。お兄様ならダンスもお上手だし私のお友達に変なこともなさらないだろうから安心して任せられると思って」
ドッキリ大成功とジェニア様は上機嫌だ。私としては緊張やらで始終動悸と冷や汗でどっと疲れてしまった。授業が終わった後、顔を合わせたヴィルが医務室に行った方がいいのではと気を遣うくらいには目に見えて疲弊していたと思われる。
「とても丁寧に教えて下さいましたが、次期公爵様にお相手いただくのはとにかく精神的疲労が過ぎます」
「そんなにですか? 確かに、お兄様って身長も高くて表情もあまり表に出されませんから威圧感はあるかもしれませんね。でもそんな相手が心を許した相手には優しい笑みを見せてくれて……萌えますわ! ゲームでは本来、本日の授業でヒロインの選択肢によってダンス練習のお相手が殿下かお兄様か分かれるのですけど、ラヴァン嬢には強制的に殿下のお相手をしていただきました」
「ジェニア様は、王太子殿下が他の女性とパートナーになって構わなかったのですか?」
「ええ、もちろん。だって殿下と私では練習にならないじゃない」
そう言い切ったジェニア様は恐らく私が質問に込めた意味を理解していないだろう。今後、この世界が乙女ゲームのようになっていくのかはわからないが、万が一がある状況ではジェニア様くらい割り切っていた方がいいのかもしれないと思えた。