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「相変わらず器用だね」
私の手元を見ながらお姉様が言う。顔を上げると目が合ったお姉様が柔らかく微笑む。私も笑みを返し
「お姉様は進んでいらっしゃらないようですね」
と机の上で刺繍枠の中、ぴんっと張られた真っ白なハンカチを見た。あははと気まずそうに笑って、お姉様はようやくそれを手に取る。
今は男女別科目の時間だ。女性は屋内で刺繍、男性は屋外で剣術の授業が行われている。この形式の授業は三学年まとめて同じ場所で行われる。監督する先生はいるが、上級生が下級生を指導するという名目で学年の垣根を越えて交流ができるよう取り計らわれているというわけだ。
事実、ほとんどのご令嬢が入学前から刺繍は嗜んでいて基礎的な部分を教わらずとも課題に取り組めている。ただ、その中でも得手不得手はあるもので苦手な部分のコツを教えてもらったりといった形でやり取りがなされているのが各所で見て取れた。
お姉様はこういった細々とした作業が苦手だ。アルムストレームの邸宅にいたときも彼女たちの長兄とともに剣術や馬術を嗜んでいたくらい体を動かす方が性に合っていたのだろう。剣術に至ってはヴィルよりも筋がいいと騎士の会話が聞こえてきたほどだった。この国で女性が騎士職につくことはできないから、あくまで手遊びだとお姉様は話していたが、本心でないことくらい私でも察しがついた。
お姉様は左手にハンカチの張られた刺繍枠を右手に針を持って難しい顔をしている。彼女とは反対にヴィルは運動が苦手で手先が器用だから、二人の性別が逆だったらと思わずにはいられない。
「お姉様、昨年も刺繍の授業はあったのでしょう、課題はどうされていたのですか?」
「え? ……ああ、まあ、手伝ってくれるご令嬢がいてね」
視線を泳がせ、歯切れ悪く話すお姉様が誤魔化しているのは明白で、疑いの目でじっと見つめると降参と言わんばかりに肩を落として
「あまりの不器用さを見かねて代わりにやってくれていた方がいたんだ、昨年卒業してしまったのだけど」
予想外の言葉に目を瞬く。でも、お姉様は人を褒めるのがうまい、最初は教えてもらうつもりで声をかけたのだろうが、相手のご令嬢は褒められるうちに嬉しくなり、お姉様の不器用さも相まって代行してしまったといったところだろうか。あまりに容易に想像がついてしまって思わず唸ってしまった。
「そうでしたか、でもそれはズルではありませんか」
「全くもってその通り、弁解の余地もない」
「反省しているなら今年は一緒に頑張りましょう、できるようになると案外楽しく思えるかもしれませんよ」
「そうだね、では、リネア嬢ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げたお姉様にクスクス笑いを零しながら「ビシビシいきますよ」と言うと、眉を下げて「お手柔らかに」と笑った。
◆
「私もヴィオレッタ様と刺繍がしたいです……」
お姉様とやり取りをしている間、ずっと視線を感じてはいたから恐らくいらっしゃるとは思っていたが、私たちの会話にも聞き耳を立てていたらしく、「苦手なことがあるのも素敵!」「でも、針を刺して美しい指に傷を作るのは良くないわ」と一人で盛り上がりながら最終的に行き着いたのが先程の言葉だ。
ジェニア様が毎回持参してくださるティーカップを傾け紅茶に舌鼓を打ちながら、適度に相槌を入れつつ彼女が落ち着くのを待っていると、テーブルに突っ伏していた顔を持ち上げ、同情を誘うような上目遣いでこちらを見た。なんだか精悍な顔立ちをした犬が情けない表情をしているようで、不敬にも愛らしく思える。
「そうよ! 私がヴィオレッタ様の代わりに課題をこなせば」
「本当にそれが最善とお思いですか?」
名案とばかりに勢いよく身を起こしたジェニア様の言葉に被せるように訊ねると、また項垂れてしまった。
「だって、私だって憧れの人の役に立ちたいんだもの」
「でしたら声をかけてくださればよろしいのではないですか」
「それができていたら苦労はしませんわ!」
先の授業でも本当はこちらに声をかけたかったらしい。しかし、お姉様を前にすると緊張はするし、そうでなくても他の上級生のご令嬢方から代わる代わる挨拶をされているうちに自身の課題を進めるだけで精一杯の時間になってしまったそうだ。改めて考えると「声をかけて」というのは突き放しすぎたかもしれない。
「それでね、こちらをご覧になってほしいの」
自分の思考に埋没していたのか彼女の言葉にハッとして、彼女が広げたものに目を向ける。細長い、いわゆるスポーツタオルだ。縁に紫の可愛らしい菫の花が刺繍されている。
「こちらは……?」
「ヴィオレッタ様は、朝早く鍛錬をしていらっしゃるでしょう、だから、差し入れにお渡ししたらどうかと思って……授業後、帰寮してからコツコツ刺繍していたものが完成したのだけど」
ジェニア様は赤くなった頬を両手で包む。彼女の一途な想いにぎゅっと胸が締め付けられるような感覚を抱いた。前世の記憶がなければわからなかっただろう、これが『尊い』という感情だなんて。
「きっと喜ぶと思いますわ」
「そうかしら! でもね、ひとりでお渡しするのは緊張するから……」
「喜んでおともいたします」
甘えと不安が混ざった眼差しを向けていたジェニア様の表情がぱっとほころぶ。弾むような感謝の言葉の後に、善は急げと明朝決行しようと計画を立てた。
といっても、ジェニア様がお姉様の朝のルーチンを把握していたから、お姉様が鍛錬を切り上げられるタイミングを見計らって女子寮裏手に突撃しようというだけだけど。それでも、なんだか悪戯をする前のようにわくわくしていた。
翌朝、アンに頼んでいつもより早い時間に起こしてもらい身支度を整えた。眠い目をこすりながらエントランスホールに降りると既にジェニア様がいらっしゃった。どうせあとで着替えるのだからと制服を着ている私とは違い、ジェニア様はほっそりとしたシルエットのシンプルなオフショルダーのミモレ丈ワンピースドレス姿で、私に気がつくとハッとしたようだった。
「そうよね! この後授業があるんだもの制服でよかったわ、どうしよう、着替えてきた方がいいかしら……」
「いえ、それほど気にされることでは。むしろ私がいちいち着替える手間を惜しんだと言いますか」
気まずい雰囲気を打ち消すように一度咳払いをして「早速参りましょう」と本来の目的に促すとジェニア様も「そうね!」と昨日見せてくれたタオルを胸の前でぎゅっと抱え緊張を滲ませた。
寮を出て建物の角から裏手を覗き込むと動きやすいパンツスタイルのお姉様が静かに木剣を構えていた。ピンと張った空気の中、葉の擦れる音だけがそこにある。ジャリと踏みしめる音と同時に振るわれる木剣が空気を切り裂く、軽やかな足さばきと鋭い剣筋、川のように流れる長い髪に目を奪われた。ぴたりと止まったお姉様が姿勢を正しこちらを向く。
「おはよう、私になにか?」
返事をしようとして無意識に呼吸を忘れていたことに気がついて肺にたまった空気を吐き出し、ジェニア様に先立ってお姉様の前に出る。
「おはようございます、自主鍛錬に励んでいらっしゃるのですね」
「そんな大層なものではないけれど習慣になっているからやらないと落ち着かなくてね、ところでそちらは?」
目を向けられたジェニア様の体がビクリと跳ねて建物の影に身を隠し、私とお姉様は一瞬目を見合わせ視線を戻すとすました顔でジェニア様が姿を現した。
「おはようございます。私的なお時間にお邪魔してしまい申し訳ありません」
「邪魔だなんてとんでもない、入寮の日にリネア嬢の部屋の前でお会いしましたね。あのときは本当にご無礼をいたしました。今もこのようなお見苦しい格好で申し訳ありませんが、アルムストレーム子爵家のヴィオレッタでございます」
「――!!」
お姉様が頭を下げている一瞬に「覚えていてくださった!」と喜びの心の声が聞こえてくるような目をこちらに向けて、お姉様の姿勢が戻るときにはもう涼やかな表情に戻っているのだからすごい。
「遅ればせながら、エウジェニア・ネグロ・スフォルトーナでございます。リネア嬢には親しくしていただいておりまして、あの……こちら、ご迷惑でなければ!」
差し出されたタオルを見てお姉様は「私に?」と首を傾げ、ジェニア様は大きく頷く。頷いたまま頭を下げているジェニア様に柔らかく目を細めたお姉様がタオルを受け取るとようやくジェニア様は顔を上げその表情に白い頬が赤く色づいた。
「ありがとうございます、折角のご好意ですので遠慮なく使わせていただきます。この刺繍はスフォルトーナ嬢がされたのでしょうか、自意識過剰でなければ私の髪の色からこの花の図案をお選びになられたのでしょうか」
お姉様の指が刺繍された部分を優しく撫でる。
「は、はいッ、ヴィオレッタ様のことは以前から存じておりまして、その、お名前と髪のお色からイメージして刺繍したもので、気に入っていただけたのでしたらとても嬉しいです」
「もちろん、私のことを想いながら刺してくださっていただいたものが嬉しくないはずがありません。リネアと仲良くしているのなら是非私とも気安く接してください」
「エッ、そんなッ、私のこともジェニアと、畏まらずに接してくださいませ」
「ふふっ、お許しをいただけるのであれば仰せのとおりに。そろそろ、朝食の時間になるね、私は一度部屋で身支度を整えてからになるけど、二人が良ければ朝食ご同伴しても?」
ジェニア様は既にキャパオーバーの様子で、私が代わりに喜んでと返事をしておいた。ジェニア様も私服を着替える時間が必要そうだし、このまま一人でお部屋に戻らせるのは心配で、お姉様に「ではまだ食堂で」と声をかけて、ふらふらのジェニア様を支えながら彼女の部屋に連れ帰った。出迎えてくれたリュナさんはわずかに驚いた表情をしたように見えたが、大体察しがついたのか私にお礼を言って主を引き取り、次に部屋を出てきたときは教室で見かけるジェニア様に戻っていてその手腕に目を見張ったのだった。