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昨晩、ジェニア様から牧場見学に行きたいと告げられ、持参したトランクケースから汚れても問題ない質素な服が出てきたのには驚いた。現代日本人の前世があるとはいえ、牧場に魅力を感じる公爵令嬢がいるとは思わなかった。「ふれあい牧場みたいなところには行ったことがあったけど、ちゃんとした牧場は初めて」と嬉しそうにうちの領地について調べてきたことを話してくれた。
明朝に到着したお姉様とヴィルにそのことを伝えたところ、ふたりは二つ返事で頷いてくれた。
「何度もリンドステッドのお屋敷に伺ってはいるけれど、牧場見学は考えたことがなかったね。産業の視察は大人の仕事だと思っていたが、早いうちから興味を持つというのはとてもご立派です。私も見習わなければね」
そうお姉様に褒められたジェニア様はたじたじと謙遜していた。本人としても地方産業の視察なんて政治的な意味合いはなく、観光気分が強いと思われるので立派だと褒めそやされるのに後ろめたさを感じているのだろう。
ヴィルは「僕は遅かれ早かれ知っておかないといけないことだろうし、いい機会だと思う」と殊勝なことを私にだけ聞こえるように言っていた。
近くの牧場へ使いに出していた使用人が牧場主からの快い返答を持ち帰ったのはお昼に差し掛かる頃だった。
昼食を屋敷で済ませ、牧場へ伺うと恰幅のいい初老の牧場主夫婦が出迎えてくれた。ご主人は歓迎の言葉と大したもてなしができないことへの謝罪の言葉を述べ深々と頭を下げたが、突然の訪問を受け入れてくれただけで有り難いことだ。ご主人は仕事に戻らなければいけないとのことで、案内は夫人が担う旨を丁寧に述べ、ごゆっくりお過ごしくださいと残していった。
朗らかな夫人が最初に連れて行ってくれたのは放牧地だった。草を食みのんびりと過ごす牛たちを見回るように牧畜犬が数匹歩き回っている。改めて見てものどかな光景だ。
「犬は白黒なのに、牛は茶色ですのね」
ジェニア様の呟きに目を瞬いてしまったが、現代日本人の認識だと牛といえば白黒のホルスタイン種をイメージするのが一般的だ。少なくともうちの領土にいる牛はいわゆるジャージー種と呼ばれていたものに近いから思わず言葉が漏れてしまったのだろう。
「茶色以外の牛がいるのですか?」
「あ……っ! いえ、以前見た牛が白と黒のものだったので……!」
お姉様の問いかけをジェニア様は慌てて誤魔化した。側に控えていたリュナさんの「以前、登城した際に目にされた他国からの献上品の牛がそのような容貌だったかと」という発言に、ジェニア様も「ええ、ええ! 確かそうだったわ」と乗っかり、お姉様は納得したようだった。
次に案内されたのは牛たちの出払っている牛舎で、がらんとしているかと思えば、牛を戻すための準備を若い男の従業員が行っていた。一生懸命働いている人たちをのんびりと見学していることに若干の罪悪感を覚えるのはわずかながらにある前世の感覚からくるものだろうか。こもった臭いもあり、夫人が気を遣って早々に次の場所に案内してくれた。
搾乳所は牛舎に隣接したところにあった。牛一頭に対し二人の女性が両脇から乳を搾っており、それが数頭分並んで作業している。搾乳とそれをチーズなどに加工するのが女性の仕事で、その間男性は牛の世話や牛舎の掃除、少し離れたところにある屠殺場で老いた牛や雄牛を食肉に加工しているそうだ。
「夫人、搾乳の体験はできるかしら」
「搾乳体験でございますか? ええ、構いませんが……」
ジェニア様の質問に戸惑った様子で答えた奥様が私に目を配った。公爵令嬢であることは伏せているが領主の娘の友人という時点で高貴な相手であることは明確だ。そちらからの申し出だとしても、手を汚すようなことをさせていいのか判断しかねるといったところか。直接聞いたわけではないが、本人から申し出るくらいだからこれがやりたくて牧場見学なんて言い出したのだろう。私は小さく頷いて問題ないことを示した。
夫人は一番手前で作業をしていた女性に場所を譲るように伝えて、空いた小さな椅子にジェニア様が腰を下ろす。夫人の指導のもと目の前の乳頭を掴む。上の指から順番に力を入れていってください、もっと強く握って大丈夫です、もっと、下に引っ張るように。恐る恐るだった手つきが思い切って力を入れた瞬間、ピューッと乳が勢いよく出てきて、こちらを向いたジェニア様の目は輝いていた。
「折角だから私も体験してもいいだろうか、こんな機会なかなかないだろうからね」
ジェニア様の様子に触発されたのか、真後ろから覗き込んでいたお姉様がそう言うとジェニア様は勢いよく立ち上がって場所を明け渡した。一緒に説明を聞いていたからだろう、お姉様はあっさり力加減を掴んで「確かに、これは楽しいね」とお気に召したようだった。
結局、ジェニア様とお姉様以外搾乳体験をしなかったことに対して、お姉様はもったいないとこぼしていた。私はいつでもやる機会はあるし、ヴィルは知識さえあればというタイプだ。お姉様はリュナさんにも声をかけていたが、遠慮されていた。ジェニア様が許可を出してもお気遣いなくと頑なだった。アンにもやってみるかと訊ねてみたら、「わたしは孤児院にいたときにヤギの乳搾りをしておりましたので」と笑っていた。冗談半分だと伝わったのだろう。
搾乳所の奥には生乳の加工場があり、次はそこに案内をされた。飲用分以外はここでチーズやバターに加工されるそうだ。たくさんのチーズが棚狭しと積まれ、熟成されている保管庫も見せてもらった。
一通り回って放牧地に戻ってくる頃には日が傾き始めていた。
「突然の訪問に対応していただきありがとう」
「いいえ、お嬢様方にお楽しみいただけたのであれば光栄でございます」
「とても貴重な体験をさせていただいたわ、リンドステッド領は本当に素敵なところね」
「今後、乳製品を口にするときは今日のことを思い出すだろうな」
「では、そろそろ屋敷に戻りましょう」
牛舎に牛を戻すために吠える牧畜犬に追い立てられるように私たちも牧場をあとにした。




