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私、リネア・リンドステットは転生者である。十歳の誕生日を迎えた朝、目を覚ましたときにその記憶が蘇った。とはいえ、前世について思い出したことといえば、日本という国に住んでいたこと、アニメや漫画、ゲームが好きだったこと、特に悪役令嬢モノを好んで読んでいたことくらい。前世の名前はおろか、どんな生活をしていたのか、どんな立場だったのか、個人を特定できるような記憶は一切なかった。寝起きの私は、そんなことある? と唖然としてしまった。突拍子もなさ過ぎて折角の誕生日だというのに気がつけばぼんやりと物思いにふけって、周りに気を遣わせてしまったことを覚えている。
悪役令嬢転生でないことは少し考えればすぐにわかった。なぜなら、私は田舎を治める子爵の一人娘、悪役令嬢といえば公爵を筆頭に上位貴族であることがお決まりの設定だ。取り巻きキャラへの転生ならありえるかもしれないけれど、両親は特に出世に興味がないようだし、私自身も力のある人に取り入る気はない。そして、いくら考えてみても『リネア・リンドステット』なんてキャラが出てきた作品を記憶の中から見つけることができなかった。そもそも、前世の世界にある物語への転生ではないのかもしれない。
そんなの、いくら前世の記憶があってもなんの対策もできないじゃないか――その時はそう結論付けて考えるのをやめた。
そして、約五年の時が流れた。
この国には十五歳を迎える年になると貴族の子どもは王都の学校に入学する義務がある。そう、私も今年の誕生日で十五歳、住み慣れた領土の邸宅を離れ王都に向かうときが来た。
リンドステット家の領地は王都から結構離れていて、汽車を使っても片道数日かかる。私はほとんど領地から出たことがなく、交流があるのも祖父の代から仲が良いアルムストレーム子爵家くらい。幸いにも、そちらの末弟で私の婚約者であるヴィルフレードが同い年、その姉ヴィオレッタも一年早く入学している。物心つく前から私の侍女をしているアンジェが世話役として同伴してくれるとはいえ、慣れない環境で三年の就学期間を過ごす中、既に交流のある相手がいるというのはそれだけで心強く思えた。
どうして、こんなに憂鬱を募らせているかといえば、私がこの制度を知ったとき真っ先に思い浮かべた可能性が起因している。もしここがなにかの物語の世界であるとしたらきっとこの場所がその舞台になるのだろう。なんの理由もなく前世の知識があるはずがない、これからの展開がわからないのだから抗いようもなく気がつけば世界の歯車のひとつに収まるのだろう。
ここまでの短い人生の中でなにかのフラグになるような出来事はなかったように思う。だから、このまま何事もなく平穏に過ごせますようにと汽車の外、見慣れぬ景色を眺めながら願った。
無事王都に到着して、そこから更に馬車に揺られ、一度タウンハウスに立ち寄り、それからたどり着いた女子寮で、ようやく落ち着けるねと慣れない汽車旅で疲れを滲ませているアンと話しながら教えられた寮室を目指す。恐らく、私も同じように疲れたような顔をしているのだろう。そして気がつく、間違えていなければ私の寮室の前に誰かいる。寮は一人部屋のはずだからルームメイトという可能性はない。思わず、アンと顔を見合わせ首を傾げる。彼女の立っている場所は確かに私の寮室の前だった。
「あなた、リンドステット子爵令嬢で間違いないかしら」
「ええ、そうですが……」
長い黒髪と切れ長の目が印象的な少女と呼ぶのを憚られるような大人びた美人、凛とした声音はどこか高圧的で、悪役令嬢がいるとしたら彼女のような感じなのだろうかと思えた。
カツカツとヒールを鳴らして近付いてきたかと思えばなんの断りもなく両手を取られ
「アルムストレーム子爵令息とご婚約されていますね!」
「は……はい」
私の答えに満足したのか頷きながら、掴んだままの手をさらに強く握られ、困惑している私をよそに彼女は
「私とお友達になりましょう!」
と興奮を隠しきれない様子で言った。
最初、冷たそうな印象を持った切れ長の目は獲物を定めた猛禽類のようにギラついて、その瞳に捉えられた私は蛇に睨まれた蛙のように竦み上がってしまった。
緊張感を破るように、窘める色を含んだ声が「お嬢様」と呼びかける。それで冷静さを取り戻したのか、彼女の瞳から獰猛な色が引き、ようやく拘束されていた手が解放された。
彼女は一歩後ろに下がり、コホンとひとつ咳払いをした。
「失礼、私はエウジェニア・ネグロ・スフォルトーナと申します」
先程の興奮した様子とは一変、見惚れてしまうような仕草で一礼するものだからまたは呆然としてしまう。目まぐるしい変化に反応できずにいると「リンドステット嬢?」とこちらを伺うように呼びかけられ、ハッとした。
「申し訳ございません! スフォルトーナ公爵令嬢にご挨拶申し上げます。ご存知のようですがリネア・リンドステットでございます」
彼女ほど優雅にはできないができるだけ丁寧に頭を下げる。
呆然としてしまったのは一瞬の変わり身もだが、その名前を聞いて彼女が公爵令嬢、しかも王太子の婚約者であることがわかったから。どうしてそんな高貴な身分の彼女がわざわざ田舎貴族の私の元を訪ねてきたのか、目的が見えない。いや、圧倒されて流してしまっていたが「お友達になりましょう」と言われた、それも私の婚約者を確認した上で。
ヴィルに興味がある? 彼は別に目立つ存在でもないし、アルムストレーム家も我が家系と同じく領地を穏やかに治めており、一目置かれるタイプではないはずだ。腹の中で訝しみながら顔に笑みを貼り付け、部屋に招き入れるべきかと思案していたところ、よく通る声が私を呼んだ。正面の彼女が目を見開き両手で口元を押さえる。振り返ると婚約者の姉であるヴィオレッタ・アルムストレームがこちらに向かって歩いてきていた。
「お姉様!」
思わず呼びかけると嬉しそうに目を細め、大股で早足に近づいてきたかと思えばそのまま抱きしめられた。
「久し振りだね、入学おめでとう、ヴィルとリネアが来るのを心待ちにしていたよ。ああ、アンもついてきたんだね、相変わらず赤毛のおさげがチャーミングだ」
「ありがとうございます、私もお姉様と同じ学び舎に通えること嬉しく思います。でも、今はお客様がいらっしゃっていまして」
ヴィオラお姉様と会えたことは嬉しいが、公爵令嬢を置いてきぼりにしてこのようなやり取りをしている事実に肝が冷えた。私の指摘でようやく公爵令嬢の存在に気付いたのだろう、ヴィオラお姉様は私から離れ彼女に紳士のような仕草で頭を下げた。
「先客がいらっしゃるとは気付かず大変失礼を致しました。美しいご令嬢にご挨拶申し上げます」
「~~~~っ! いっいえ、失礼だなんてとんでもない、もしお邪魔でしたら、私が出直しますわ」
「お気遣いありがとうございます、しかし彼女の顔を見に来ただけなので。リネア、困ったことがあれば遠慮なく頼ってくれて構わないから、もちろんアンも。それじゃあお邪魔したね」
ヴィオラお姉様は、ポンと私の頭をひと撫でして踵を返した。高い位置でひとつに結んだ菫色の髪を揺らしながら颯爽と立ち去る後ろ姿を見送って、変わらないなと思わず頬が緩む。
そして、大きなため息が聞こえ、改めて公爵令嬢に向き直るとヴィオラお姉様が立ち去った先をうっとりと見つめていた。
「美しいご令嬢ですって、どうしよう夢みたい、早速お話出来るなんて……絶対声上擦ってたし変だと思われなかったかしら」
「お嬢様、痛いです」
きゃあきゃあ言いながら傍に控える侍女の腕をバシバシと叩く公爵令嬢はもう自分の世界のようだ。その様子を見て、答えを得られたように思う。つまり、彼女はヴィオレッタ・アルムストレームに近付きたくて私のところに来たのだ、と。