旋律の邂逅 6
「私……そろそろ行くね」
「あ……はい」
「じゃあ……ね。バイバイ」
背中を見送る。小さい……小さい背中だ。
「あの……!」
「なーに?」
振り返る彼女の微笑みは、雲によって隠された太陽の代わりになる。
「――また会えますか?」
詩織さんは瞬きを繰り返す。
ゆっくりと口角が上がり目元は優しく下がる。
「じゃあ、一週間後……ここで!」
と、手を上げ去っていく。
不思議な人だ。短い時間で笑ったり、喜んだり、哀しんだり、怒ったり。
七月二十四日。
空は成長していない薄い色を広げる。
白い絵の具で雑に伸ばした雲が未来を霞ませるようだ。
それでも隙間から見える青空が少しだけ羨ましかった。
詩織さんの遠ざかっていく背中を見届けた後で公園を後にした。
自宅に対する少しばかりの抵抗感と躊躇いが門扉を重くする。
城郭における大手門というわけではない。
心情から生まれた重みは玄関の取っ手を引く際も肩を軋ませる。
三和土で擦る靴の音が寂しく響いた。
洗面所に向かい手洗いをした後で、口に含んだ水がいくらか甘い気がした。
ギターのハードケース抱えて自室の二階へ向かう。
部屋の棚にはCDや本があって邦楽、洋楽問わず隙間なく陳列している。
映画や音楽などの娯楽はサブスクリプションが主流だ。
現代において珍しいと自嘲した。
しっかりと聴こうと思うのであればCDの方が都合が良い。
サブスクに無い楽曲だってあるし、アルバム単位で聴くことも楽しみの一つである。
コンセプトアルバムであればなおさらだ。作品を創りあげた人たちの想いが伝わる。
金銭的な面でサブスクの方が圧倒的に良いのだが、
聴き方やCDという物質的存在に一定の価値を見出しているのかもしれない。
ギターをハードケースから取り出しギタースタンドに立て掛ける。
その彫刻の美しさに改めて惚れ惚れとした。
ギターの主材は木であるから呼吸させるためにケースに入れっぱなしということはしない。
素人ではあるけれど室内の湿度にも気をつかっている。
温度、湿度の影響で収縮や膨張を繰り返すことはギターにとって悪影響を及ぼす。
本来の用途に使われることが少ない整然とした机の前に座る。
机の上に置かれた一枚の紙がこちらに向いていた。
四つ折りに畳まれ少し中身が見えている状態だ。
それは、一つの繋がれた想いを持っている。
表には『ラブレター』の文字。
椅子から立ちあがりカーテンを開いて陽の光を部屋に迎え入れる。
上から誰もいない家のアプローチをしばらく見つめた。
窓から見える夏の青空は先程よりも明るい気がする。
「約束……か」
と、誰に聞こえるでもない声で呟いた。
*
夏休みに入る前の終業式。
体育館で校長やら生徒指導の教員の言葉が低く響いていた。
夏休みにおける心構えであったり注意事項などが主な内容だった。
教室に戻っても担任教師から受験勉強などの言葉が繰り返される。
「やっと夏休みー!」
「夏休み、どこか行くの?」
「えー、勉強だよ。塾の予定がいっばいなのー」
「ねえ、今日どうする?」
「駅前のカフェで勉強しようよ!」
多くの生徒が勉強という言葉を空気に混ぜる。
窓際の後ろの席から頬杖をついて教室内を眺めた。
学校生活の何気ない場面だ。
勉強漬けの毎日になる生徒から遊びの声は上がらない。
「おーす」
低音の声がした。
隣のクラスの桑名要だ。
高い上背に筋骨隆々とした身体。首元まで伸ばした黒髪をカチューシャで纏めている。
目は一重瞼で眼光の鋭さが際立つ。
彼が手に持つ透明の袋には異様な緑色の何かが入っていた。
その袋を俺の頬に当てる。
「なんだよ、これ?」
「ゴーヤチップス。しかも、自家製で俺の手作りだ」
「苦瓜は苦手。憂慮する俺の遠慮」
ラップ好きな彼に下手くそな言葉を送る。
「韻を踏むんじゃねえよ。母親が家庭菜園でゴーヤ作ったから。
これが大量に採れてよ、毎日出てくるんだよ。
ゴーヤチャンプルーとかゴーヤのサラダとか。ゴーヤの天ぷらもか。
このままいくと肌がブツブツになるかもしれねえ」
要は、いわゆる不良。外見に反し母親想いの優しい人物だ。
幼い頃から一緒に過ごし中学時代は互いに虚勢を張っていた。
今でも街に出れば喧嘩をしているようだが、自ら喧嘩を売ったりする男ではない。
高校に通わせてくれる母親を悲しませたくない。
そのような理由でテスト前に軽く勉強し、学年二番という順位を毎回取る。
進学校において異常な男であることは明白だった。
「なあ……優詩。聞いたか?」
「なにを?」
「あいつ……出てきたぞ」
「そっか……」
「中で会った奴らと……つるんでいるらしい」
「そう……か」
「――ゴーヤ食うか? うすしお味」
「いらない」
要の話によって生まれた胸の途中で留まる塊が重い。
彼を昼食に誘ったが教員からの呼び出しがあるとゴーヤチップスを片手に出ていった。
廊下を一人で進んでいく。
周囲の生徒は普段よりも明るさを持っている気がした。
勉強、勉強と脳内にはあるのだろうけれど、
夏休みが始まるという事実も確かに受け止めているのだろう。
夏休み、か。




