旋律の邂逅 5
「流水で流すだけ……手で擦らないです」
彼女は納得のいかない様子で、桃のように丸っと頬を膨らませた。
お墓に供えたということは、墓石の前に置いたということだろう。
彼女の手元に届くまで、色々な人の手を介しているから、洗わずにはいられない。
蛇口の栓をひねる。
いくらか流した後の水は夏の暑さを和らげて、冷たさを手のひらへと伝える。
桃を暴力的に洗いたい衝動に駆られたが、詩織さんの視線が横から刺さっていた。
ベンチに戻って桃を手渡すと、タオルで優しく丁寧に拭いている。
「水分があると桃の糖度が薄まるの!」
手の動きとは対照的に怒気を含む。
「あの……本気で怒ってないですか?」
「怒ってないよ……!」
一つの桃を俺に渡して、もう一つの濡れた桃が俺の手元から奪われた。
本当は皮を剥いて食べたい。
今の状態で、それを口にすれば非難されることは避けられない。
桃を口に含むと、瑞々しさが口に広がって鼻腔に甘い香りが抜けていく。
「うん、おいしいー!」と、先程までの怒りを帳消しにした彼女は頬を緩ませる。
口に桃を当てて、滴る水分を吸い上げている。
忙しない感情をみせる人だ……。
桃を食べ終わった俺から種を取り上げると、背後にある花壇へ走っていく。
二メートル程の間隔をあけて、木の枝で掘り返した穴に種を埋めている。
「それは、まずいんじゃないですか?」
「えー、どうして?」
「人の土地……行政が管轄している場所に勝手に植えるのは……」
「真面目だねー」
「真面目とかの話じゃなくて……迷惑になるというか」
「ほら、あれ……なんていうんだっけ? 桃がでてくる、何年……ことわざの……」
「桃栗三年柿八年……ですか?」
「そう、それそれ。何年後かに、おいしい桃ができたら、みんな喜ぶよ。きっとね」
「そうですか?」
「そうですよー」
背中越しでも微笑んでいることが予想できる。
「私たちが世界からいなくなっても……植えた木が残るとしたら素敵じゃない?
その場所であったこと……桃の木が覚えていてくれるみたいで」
「――桃って育てるの難しいらしいですよ」
「難しいって?」
「害虫に食われたり……多分、手入れしないで放置していても、うまく育たないんじゃないですか」
「優詩くんさー、せっかく私がいい話をしているのに、水を指すようなことを言って……」
振り返った詩織さんは目を細めていた。
空に目を向ける、光が目から全身に入る。
彼女に視線を戻すと、騒がしいほどの空気とは違う、小さく華奢な背中がある。
今まで……どのようなことを経験してきたのだろう。
どのようなことを感じてきたのだろう。
埋めたところの土を入念に叩いている後ろ姿は、砂場で遊んでいた女の子を思い出す。
「ふう……桃ができたら食べていいからねー」
水道に向かう詩織さんを見送って、ベンチに腰を下ろした。
彼女はハンカチで手の水分を奪いながら、再びベンチへと戻ってくる。
そのような所作は、やはり女性なのだと感じた。
「私の代わりに手入れしてね。優詩くんが手入れしないとよくないって言ったんだから」
「なんで俺が……」
「やってね? やらないと桃食べられないよー?」
時折みせる詩織さんの脅迫を感じる表情、語気に頭を垂らすことしかできない。
種を乾燥させずに植えた場合、腐るのではないかという安堵の気持ちもある。
「風が気持ちいいねー」
「真夏でも日陰なら風が吹けば涼しいですね」
「あー、夏って感じがするなー。青空も暑い空気も蝉の鳴き声も」
「そうですね」
「――優詩くんはさ、彼女いるの?」
唐突な質問が隣から飛んできたけれど、意識は別のものへと向けていた。
向かいのフェンスに両手の指を差し込んで、こちらを見ている人物がいる。
同じ高校に通う島崎凛花。
こちらに向けられた目は、大きく見開いて驚倒を表している。
フェンス越しの姿は、洋画における一つの場面を思い起こさせた。
監獄に入る囚人が運動場で良からぬことを企んだり、賄賂を受け取る時の場面だ。
「――あの子、友達? それとも彼女?」
質問を返さない俺の視線を追ったのだろう。
「いや……同じ高校の子ですよ」
「ふーん、そうなんだ」
凛花に向けて手を左右に振り回している。
凛花はフェンスから指を滑り落とすと、真夏の中を急に走り出した。
背中が住宅街の曲がり角に吸い込まれていく。
「あれ……無視されちゃった」
「まあ、そうなりますよね」
「えー、どうして?」
「知らない人から手を振られて、反応に困ったんだと思いますよ」
「そうなの? うーん、そうなのかな。悪いことしちゃったかな……」
自身の行動を省察する姿は可笑しく映る。
その後で大きく両の手を青空に向けて、身体を伸ばしている姿は詩織さんらしいと感じた。
引きずることなく、気持ちを切り替えることができる人だ。
しかし、心の内には何を想って、何を秘めているのだろう。
二人の間に沈黙があって、蝉の鳴き声と俺たちの声にならない想いが支配している。
「あのさ……私……」
「――なんですか?」
「……うん。あの…………ううん、なんでもない。ごめんね」
言い淀んだ詩織さんの横顔、哀しげな空気が周辺を渦巻いている。
彼女が言いかけたこと……俺が推察したことは、きっと同じだ。
しかし、言葉に出せば壊れるガラス細工のような気がした。