旋律の邂逅 4
「おい……」
「ああ……すみません。うるさくしちゃって」
「若いのに、ずいぶん昔の歌を知っているんだな」
「え? ええ、まあ……」
サラリーマンは、ポケットから黒い長財布を取り出す。
「がんばれよ」と、啓蒙思想家の一枚を俺に手渡して踵を返した。
ベンチに置いてあるビジネスカバンやらコンビニの袋などを集める。
そして、何事も無かったように去っていく。
外見的な特徴からは予想できない優しさがある、ということを逞しい背中から感じた。
渡されたお札を風に盗まれないように、ピックの要領で挟み込む。
「よかったね」
「これ……貰っていいんですか?」
「いいんだよ。女の子もおじさんも演奏に対して、対価をくれたんだよ。
女の子は笑顔と飴を。おじさんは、お金を。
一万円だから……けっこうな太客ですねえ」
「でも、いいんですか?」
「いいんだよ。二人にとって、その価値があったってこと」
「それは……あなたの歌にですよ」
「わかってないなー、優詩くんは」
人前で初めて演奏した。
ギターを始めたのは中学一年生の頃だったと思う。
趣味程度に弾いていただけで、天才的な技術力などない。
人前で演奏できるぐらい……人様に聴かせる音楽ができるようになっていた。
演奏技術が卓越していない、それが稚拙なものであってもステージに立ったり、人に聴かせることはできる。
ただ、臆病なだけだったのかもしれない。
彼女に歌ってほしかったことは事実だ。
一つ変えることができたのだと実感する。
「これは……あなたが受け取るべきですよ」
「いいよー、受け取らないよ。私は……あの子の笑顔と飴で満足しているから。
笑顔、拍手、飴、お金をいただいてどうですか? 今の心境は?」
「え……まあ、嬉しいですけど」
「それなら、もっと嬉しい顔しろよー! 喜びなよ!」
子供を撫でていた時とは違って、俺の頭部を乱すことに全力を注ぎ始めた。
「やめて。やめてください」
襲いくる手を払いのけた。
白く細い腕の間から狂気じみた笑顔、恍惚といった言葉と力で頭部を攻撃してくる。
髪を乱されることは、俺という人間に不快感を与えるのに造作もないことだ。
しかし、今は別の感情が金メダルを受け取っている。
没頭する笑顔に感じる怖さ。
狂気の世界にいるとは……きっとこういうものだ。
女の子から貰った飴玉より小さいものが……詩織さんの目尻を濡らしている。
「ふう……あんまり、取り乱させないでよ。
――あと触らないで! 感じやすいんだから!」
「はあ……それは……笑えないですよ」
髪型を手ぐしで元に戻していると、彼女は言葉を続けた。
「それにしても……おじさんが言うように、昔の曲を知っているんだね。
ギターソロも弾いていて、すごかったよー」
「色々、聴いたほうがいいって言われたんです。
勉強にもなるし、名曲揃いだって。温故知新っていうんですかね……。
今の音楽も聴きますけど、昔の邦楽や洋楽も多いです。ソロは適当です」
「――そうなんだ」
急に曇天の陰りを見せる詩織さんが心配になる。
出会った時の笑顔、子供に向けた笑顔、ふざけている時の狂気の笑顔と涙、今の顔。
情緒が安定していないというか、晴れの日に降る雨と似ていた。
あれは、確か……狐の嫁入りと呼ばれている。
彼女の存在は、もののけの類といえば、そうなのかもしれない。
「あなたも……同じです」
「え……なにが?」
「古い曲を知っていますね。
イギリスでは……全員が歌えるような楽曲かもしれないですけど」
「――私を助けてくれた人が……歌ってくれた大好きな曲だから」
「そうなんですか……」
抑揚がなく淡々と返したが、胸の辺りがキックされたバスドラムになる。
うるさいくらいの4ビートが身を強張らせた。
「この曲の歌詞……どう思いますか?」
「歌詞? ごめんね、歌詞はわからない。英語が全然わからないんだよね」
「一切詰まらないで流れるように……歌っていましたよね」
「耳で聞いて、そのまま歌っているだけだよ。
曲とか歌い手さんの雰囲気から感じ取って、勝手に内容を考えて歌っているの。
あとは……歌う時の心理状態によって、表現が変わるかな」
「――すごいです」
「歌ってそういうものだと思う。感情で表せるものだと思う」
「そういうものですか」
「うん! 優詩くんって、さっき飴とお金を貰って戸惑っていたけど、初ライブ?」
「初ライブというか……人前で演奏するのは初めてでした」
「そうなんだー。堂々と弾いていて格好良かったよ!」
「やめてください。大したことないですから」
「じゃあ……私も優詩くんに、ご褒美をあげよう」
「え? いらないですよ」
詩織さんの青い瞳から正面の誰もいなくなった公園に視線を変える。
「なんで目を逸らしたの? もしかして……」
「……なんですか?」
「身体で……払えとか?」
疑問と笑顔を交えた詩織さんの言葉に飲まれてしまう。
「違いますよ……俺が、そんなやつに見えているんですか?」
「――これ、あげるよ」
俺の言葉を完全に無視して、死角になっていた白い袋から丸い果物を取り出す。
丸々として甘い香りがする桃だった。
「お墓に供えたものだけどねー」
「ええ……いらないですよ。縁起が悪いというか……」
「そんなこと言ったら、化けて出てくるかもよ!」
仕方なく桃を受け取る。
詩織さんは、もう一つ桃を取り出して、鼻に近付けた。
「水道で洗ってきます」
「香りが飛ぶから洗わないで……!」
不衛生なものを口に運ぶことに、抵抗感や危機感を感じる。
俺にとって、洗わないということは屈辱に近い。
他人が口にすることも同様で、鼻から離した隙をみて彼女の手から桃を盗む。