桃色の果実 8
「そんな人じゃない……って、確かめたいんじゃないの?
だから、電話したんでしょ?」
「…………」
床の埃を見つめる横顔は『悪人』と声高らかに呼べるものではない。
「――心の痛みは……なくならないよね」
「痛み……」
「そう、痛み。一度、負ってしまった深い心の傷は二度と元に戻らないから。
だから……誰かに新たな心を分け与えてもらうしかないんだよ」
私もそうだ。今でも心の痛みが蘇る。
過擦り傷は消えても深い傷が消えることなんて決してない。
傷跡になって必ず残る。そこから血が滲むことだってある。それでも……。
私には新たな心を分け与えてくれる人がいた。
「俺は……痛みなんか関係ねえ。その痛みを他の奴らにも味あわせてやる。
その痛みってやつを……。呆けてるやつらのせいで壊れていくことだってあるんだ。
なにもしねえから、なにも起こらないんじゃねえ。
なにもしねえから、起こることだってあるんだ。
だから……世の中のやつらに教えてやる」
入れ墨男の手は震えていた。
薬物依存からくるものか、アルコール依存によるものか。きっと……どちらでもない。
「一人は……寂しいよね」
「…………。人なんて所詮は一人だ。信じれば裏切られる。
この世の中で生きていくには先手を取るしかねえんだよ。
やられる前にやるしかねえ……俺も世の中のやつらも身勝手な生き物だ」
「そういう人もいるよ……ね。でも……きみは本当に今まで一人だった?
隣にいてくれる人はいなかったって……真っ直ぐに言えるの?」
入れ墨男は静かに紫煙を見ていた。
「一人だけ……いた。もう……もう二度と……会えねえ……戻ってこねえ」
それ以上、彼は言葉を紡がなかった。
「ねえ……きっと受け止めてくれるよ」
「ああ……?」
「優詩くんは受け止めてくれると思うよ」
「なにがだよ……ただ、ずいぶんと信頼してんだな」
「うちのバンドのリーダーだもん!」
彼は返答せず腰を上げてハンカチ落としの輪に戻っていった。
どれくらいの時が経っただろう。
スマートフォンはヒジキに奪われていたから時間の経過がわからない。
工場内の音に変化があった。宴の喧騒から静寂へ戻っていく。
入り口に三人の男の子が立っていた。
優詩くん、要くん、もう一人は……花火大会で優詩くんと話していた後輩の子だ。
酒盛りの場から気怠そうに立ち上がった男たちは戦闘態勢に入る。
その手にはパイプやら角材を手にしていた。先頭には入れ墨男が立つ。
「来たか……裏切り者。それに要も……お前は尚人か?」
「お久しぶりですね。尋也先輩」
後輩くんはサラサラとした髪を首と共に揺らしている。
笑顔で挨拶をする、物腰の柔らかい青年だ。
「――詩織さんは? 詩織さんは、どこだ」
冷たいコンクリートから離れて優詩くんの問いかけに応える。
「優詩くーん! 私は大丈夫だよー!」
手を振り上げると彼は安堵の表情を浮かべた。
「お前……こっちは十人以上いるって言ったろ?
兵隊が足りてねえようだが……こっちは道具も使う、大丈夫なのか?」
入れ墨男と要くんの嘲笑がぶつかる。
「お前な……兵隊っても足軽の雑魚ばっかじゃねえかよ。
モブキャラなんてワンパンで終わりだろ」
足軽と呼ばれた男たちの怒号。床から跳ね返る金属音が甲高く響いた。
「相変わらずだな……要。人数差は関係ねえ……か」
「ああ。問題はお前だけだ」
「――尋也先輩、すみませんでした」
後輩くんが入れ墨男に深く頭を下げた。それは相手への嘲弄を含んでいる。
「以前、お二人と立っていたのは、尋也先輩でしたもんね」
「はっ……。お前……俺らが卒業した後に、近隣の全中学を傘下にしたらしいじゃねえか」
「ええ、そうですよ。先輩たちと肩を並べたくて。
今も声がけすれば最低で数十人は集まる。それをしなかった理由がわかりますか?」
「お前が信頼されてねえ、頭だからだろ」
「違いますよ。優詩先輩に止められたからです」
「止められた?」
と、入れ墨男は優詩くんの方へ首を動かした。
「ええ、殺し合いをしにいくわけじゃない、って」
「そうか……笑えるな。どうせサツにタレ込んでるんじゃねえのか?
まあ……優詩にはサツに連絡したら、この女の命はない、って伝えたけどな」
後輩くんは変わらず微笑んでいた。
殺気だった場に相応しくないほど無邪気に感じる。
「尋也先輩……ムショボケって本当にあるんですね。勘ぐることも下手になっている」
「てめえ、舐めてんのか!?」
「殺すぞ! このガキが!」
反応したのは取り巻きたちだ。
タコは墨を吐き出すような怒号で、ヒジキは身を刈り取られる断末魔だった。
「逆、ですよ」
「逆だと……?」
「そうです。抗争……裏で糸を引いている人物。時にはいるものでしょう?
あなたを利用したい人に来られると困るから阻止したんですよ。
俺も警察沙汰は、ごめんですから。俺は先輩と違ってカタギなので」
「どういう意味だ? サツが来られないようにしたのか……?」
「はい。あなた方を英雄視している俺の仲間がいまして。
今回の事情を聞いていた彼らが、警察は俺たちで止めてやるって。それで――」
今は警察署に乗り込んで暴れていますよ。
軽く言っているけど信じられないことをする子たちだ。
「以前は防げなかった巨悪に立ち向かってくれる頼もしい仲間です」
と、後輩くんは続けた。
「巨悪……か。まあ……いい。それで……優詩。俺とやりあう覚悟はできてんのか?」
「――詩織さんを返せよ。それだけだ」
「それなら……力ずくで取り返してみろよ……!」
手を空中に投げつけると男たちが一斉に走り出した。
三人は鉄パイプを躱して相手に鋭い一撃を加えていく。
殴るだけではなく、突き飛ばしたり、囲まれないように常に動いたりと徹底している。
優詩くんは床に落ちた鉄パイプを奪い取って相手の攻撃を滑らす。
その力を攻撃に転じ相手の身体へ強い衝撃を与える。
鉄パイプが振り下ろされる前に腕を突き出す。
最小限の痛みで受け止めた要くんは右フックで相手の顔面を崩す。
怒号が入り乱れる乱戦は壮絶だった。
私のために来てくれなくてよかったのに。
みんなが傷つくことなんてない……のに。
嘘と本音が粉塵と一緒に舞い上がる。
本当は……みんなが来てくれて嬉しかった。
要くんと後輩くんは優詩くんのために来てくれた。
そして……おそらく三人に共通していることがある。
入れ墨男のためでもあるんだ。
「おらあ……! このクソガキがあ!」
「こりねえな! このハゲ野郎……!」
要くんはタコの鉄パイプに怯まず前方へ飛び出して躱す。
その勢いのまま右膝をタコの鳩尾に深くめり込ませた。
「寝てろ……! ハゲ……!」
左フックの追撃にタコは軟体動物として崩れ落ちた。




