桃色の果実 5
メジャーデビューしてから大金を稼いでも彼は生活スタイルを変えなかった。
収入のほとんどを子どもたちに関わる施設や災害が起きた地域に寄付している。
今も昔も変わらず、キッチン、浴室、トイレ、二部屋しかないアパートに住んでいた。
「詩織はバンドの顔だし、女の子だから」
そう言った彼は私には不釣り合いな高級マンションを契約してきた。
彼が大金を使ったところは一度しか見ていない。
「俺の代わりに声を出してくれる」
と、愛機のギターを購入した時だけだ。
反発力の少なくなってきたベッドに腰を下ろす。
力なく横に倒れる。ブラウン色のシーツからは彼の良い香りがした。
しばらく、虚空を彷徨う。
一緒にベッドに並んでも私の身体を求めることはしなかった。
いつも……優しく抱きしめてくれる。
バンドマンにしては稀有な存在だ、とメンバーに笑われた。
大事にされてるな、と冷やかされる。合っているようで合っていない。
植え付けられた悪意の芽を蘇らせてしまう、と気にしてくれていたんだと思う。
私は彼と繋がりたかったけど……それを望むのは、わがままなのかもしれない。
身体を起こして一人きりの部屋を見渡す。自身の発言をひどく後悔した。
なぜ抱きしめてあげなかったんだろう。
それだけで……よかったはずなのに。
ビニール傘を持ち出して彼を追いかけた。
雨は強くなる一方で視界も雨粒によって乱されていく。
小走りで歩道を進んでいくと夜道に人の姿があった。
目を凝らす。
一人が倒れていた。もう一人が地面に膝をつけている。
嫌な予感がした。
胸の中を蛇が動き回るような不安が襲う。近付くたびに鼓動が跳ね上がる。
心音のリズムは一定だけど音がうるさい。
濡れた地面に傘を放り投げる。
「どうしたの……!?」
濡れた地面に彼の姿があった。
ジャケットの下にある白いシャツが真っ赤に染まっている。
隣にいる女の子は小刻みに震えていた。
何があったか問いかけてみても声が硬直している。
冷たい雨に打たれスマートフォンを取り出す。
雨に濡れる画面は誤反応し震える声で救急車を呼ぶ。
「もう大丈夫だよ! 救急車呼んだから……!」
私の膝上に彼の肩から上を乗せる。
両手で腹部の出血部分を押さえても赤い液体は止まらない。
水溜まりに鮮血が流れる。彼の命も薄まっていくように感じた。
私はタンクトップを脱いで頼りない布を押し当てる。
「詩織……」
閉ざされていた目が薄っすらと開いた。
「もう大丈夫だよ……! 大丈夫だからね……!」
雨に薄まる私の涙は彼に見えていないだろう。
「なあ……詩織……」
血が止まらない。人には……こんなに血が流れているの?
「ごめん……な……。日本一……バンドの……ボーカリスト。約束……したのに」
「なんで、そんなこと言うの!? これからだよ!
ねえ! これからだよ……!」
「幸せに……するって……いう約束も……」
「――ドームやったら行くんでしょ……!?
マディソンもウェンブリーも……! 昔からの夢なんでしょ……!?」
「俺は……行けそう……もない……かな」
「待ってよ……! そんなこと言わないでよ!
子どもたちのことは……!? どうするの……!
いいの!? 助けるんじゃないの……!?」
「きっとさ……俺の……想い……繋いでくれる……子たちが……い……」
「もう……いいよ! もういいから! 今度、ゆっくり話そうよ……! ねっ!」
彼の口から真っ赤な液体が溢れた。声までも血で濡れていく。
「詩織……の歌声……世界で一番好き……だ」
別れの言葉? 聞きたくない……そんなの聞きたくなかった。
「もう……一つの……歌声さ……いつか……みんなに……」
緊急車両の音が遠くから聞こえてくる。
「大丈夫だよ……! ねっ! 救急車来たから! 大丈夫だからね……!」
「詩織……あり……がとう」
彼は笑った。出会った時と同じように。
いつでも私に向けてくれる笑顔だった。
「あ……――。……う……に……たの……あ……」
彼の目は再び閉じる。最後の言葉は聞き取れなかった。
彼の重たくなった身体を抱きしめ救急車よりも大きな音で名前を叫ぶ。
救急隊員に引き剥がされるまで夜の雨空を壊すように泣き叫んだ。
大好きな彼が死んだ。
後で警察から聞いた話だ。
あの場にいた女の子を車で連れ去ろうとする人たちがいた。
その場に通りかかった彼が止めたらしい。相手は四人組の外国人だった。
彼との殴り合いの中で一人の外国人が刃物を取り出し腹部を突き刺した。
犯人たちは後日逮捕されたが彼の命と比べると遥かに軽い刑だった。
司法は判例や犯罪者を大事にする。被害者や遺族の感情など置き去りにしてしまう。
外国人犯罪にだって甘い。日本は日本人のものであるはずなのに。
人気ロックバンドギタリストの訃報は、すぐに広がり世間を騒がせた。
初めて会った時から変わらない。
彼は最期まで私に笑顔をくれた。
深い闇に手を入れてくれた人。
深い思いやりをくれた人。
人の痛みに敏感な人だった。
自分のことより他人を優先する人だった。
もう二度と会えない。
もう抱きしめてくれない。
私が寄り添ってあげたかった人。
私の世界を変えてくれた人。
その人の心に私の歌声は寄り添えなかった。
私は……歌うことをやめた。
彼の葬儀は親族だけで執り行われた。
バンドメンバーは参列してよい、と事務所から言われたけど、
私は彼の顔を見ることができなかったし、彼の家族に合わせる顔がなかった。
私は逃げていた。
他のバンドメンバーは私のことを気遣い葬儀に参列しなかった。
私は弱い。弱いことを再確認した。
そういう時に必ず手を握ってくれる彼は……もういない。
震える夜に身体を抱きしめてくれる彼は……もういない。
色々なビジネスが渦巻く中でドーム公演を追悼ライブにしようという話があった。
ベストアルバムの発表、有名アーティストによるカバーアルバムの製作。
心無い意見が溢れていた。
様々なアーティストを呼んでフェス形式で追悼ライブをしようという話もあった。
私には戦う力なんて残っていなかった。
バンドのベーシストがレコード会社や事務所と議論を重ねてくれた。
ドラマーは利益主義の身勝手な言い分に激怒し大暴れする。
私たちの所属する事務所を半壊させた。
一切の要求を呑まず諸々の違約金が発生したけど彼らは大金を払ってくれた。
二人は彼とバンドの名誉を守るために自身のことなど顧みないで尽力していた。
彼らも大切な人を失ってしまったことに変わりはないのに。
私は一人で空蝉に戻っていくことしかできなかった。
あの日から、ちょうど一年が経つ。少しだけ落ち着いてきている。
いや……心が薄くなったんだ。いつも隣にいてくれた、彼の姿はない。
探しても、探しても見つからない。
私は彼の地元に来て墓前に立っていた。
ご遺族に配慮して、お墓の場所はファンのみならず関係者にも公表していない。
墓前には、花、お菓子、お酒、煙草などが並べられている。
すべて彼の好きな物だった。
私は白い袋の中から優しい香りの果物を取り出す。
彼の好きな食べ物で私に最初に分け与えてくれた物だ。
風に乗って微かに甘い香りが鼻腔に入る。




