桃色の果実 4
彼は食べ終わった二つの種を近くにある花壇に植えていた。
その後ろ姿に問いかける。
「ねえ……なんで私のこと助けたの?」
「え、なんで? 別に他の子でも助けたよ。
『義を見てせざるは勇なきなり』だよ」
「なにそれ……」
さらに疑問を投げかける。
「助けたら、ヤラしてくれると思ったの?
それとも、これから無理矢理連れ込まれるとか?」
腕を組んで精一杯の虚勢を張る。
なにか裏があるんだ。きっと……そうだ。
振り返った彼は顔を下に向け笑っている。
距離をゆっくりと詰めてきた。私の頬を指で押す。
手で振り払っても「つん、つん」という声と共に何度も優しく頬を沈ませる。
「やめて……」
「つんつん、つーん」
「やめてってば……」
「つん、つーん、つーん」
「やめてよ……! 私に触らないで!」
私の怒声が道に広がって行き交う人々の注目を集める。
彼の目が見開いたことは私の予想とは違っていた。
「――きみ……すごく、いい声してる」
声帯に力を込めると、まったく別の声が出せるんだな、と彼は続けた。
「なあ……さっきみたいに危ないことも多いの?」
「え……時々……あるかな。
他の子は拐われて輪姦されたり売られたりしちゃう子もいるみたい。
いなくなっても捜されないしね。それに比べたら、さっきみたいなことくらい……」
なぜ普通に会話しているんだろう。
「いなくなった子がいるの?」
「うん、いるよ。誰にも捜されない子たちの方が多いし。
そういう人たちからしたら都合がいいじゃん。私たちみたいな存在って」
「みんな……それぞれに苦しんでいる。自分の居場所は、どこなんだろうって。
なんで力を持っている大人が助けてやらないんだろうな」
煙草に火をつけた彼は、どこか遠くを見つめている。
「ピュアだねー。そういうやつらも買いにくるから」
「そう……か」
「バレないように他の人が買いにきてね。
それでさ、そういう立場の人が待っているところに連れて行かれることもあるよ」
「その子たちは無事? それとも帰ってこない子もいるのか?」
「さっきも言ったじゃん、いるって。
薬打たれて抜けられなくなる子もいるし、打たれすぎて死ぬ子もいるよ。
でも……捜す人も死体も見つからなければ事件にはならないでしょ。
大人からしたら……ちょうどいいんだよ。私たちの存在なんて」
「大人が……世の中全体が苦しんでいる子たちを見てあげないといけないんだよ。
なんで……対岸の火事だと思っているんだろう。
幸福も不幸も全部繋がっている。
なにかの形で自身に不幸が降りかかるんだよ。
関係ないと思ってるから、事が起こった時に嘆くんだ。
その時に気付いても手遅れだ」
「なんで怒ってんの? みんな……自分のことで精一杯なんじゃない」
「子どもたちが笑えない世の中に国の未来は絶対にないよ」
「私に言われても……ね」
「俺さ……世の中の人たちに音楽を届けたいんだ。
全員に届くとは思っていないけど……さ。
全員が幸福を得られないことも……わかってる」
彼の目は真っ直ぐに私の目を捉えていた。
「だから、俺のバンドで歌ってくれ」
「は? は……? な、なんで私が? いきなり……なに?」
唐突な彼の発言、眉間は皺に抱かれた。
「きみの声は苦悩する人に寄り添ってあげられると思う」
「寄り添う? ふっ……そんなの私にできるわけない。
そんなの神様か天使にでもやってもらえば?」
「――堕天使でいいよ。
地獄から這い上がった天使は地上にいればいい」
私に向けられた笑顔。強気な言葉で応戦するしかできなかった。
「なに、それ。バカにしてるの? 大体……堕天使? ルシファー? サタン?」
「はは、意外に知ってるんだな」
微笑んだ彼は続けた。
「そうだな……その声で天使と悪魔になってくれよ」
*
彼と出会った当時、彼の前身バンドは解散していてメンバーを募っていた。
新たな編成で迎えたバンドは順風満帆に音楽業界の階段を駆け上がっていく。
メジャーデビュー後に武道館公演、アリーナ公演。
一つの到達点でもあるドーム公演を目前に控えていた。
その日は雨が降っていて、部屋の中にまで雨粒の叩く音が絶え間なく聞こえていた。
私たちが出会ってから五年の月日が流れている。
「ねえ、そんなに苦しむ必要ないよ。なんで一人で背負い込むの?」
親しんだウイスキーボトルを口に付ける彼の心は、すっかり疲弊している。
バンド活動を続けていく中で理想と現実の乖離に苦悩していた。
あの街や他の場所にも頻繁に足を運んで、子どもたちの話を聞いている。
心を通わせていた子たち。
その子たちが帰らぬ人となってしまったことは彼に大雨を降らした。
「なあ……俺の書く曲って伝わらないのかな……」
「そんなことないよ……! 会いに行けば、みんな喜んでくれるじゃん……!
ファンのみんなだって同じだよ!」
琥珀色の雫が彼の口から垂れている。
「俺はさ……バンド、音楽をやってきて……最初は自己主張だけだった。
でも、詩織に会ってから――」
誰かに寄り添う音楽を作りたいと思った。
それは彼の好きなシンガーソングライターからも影響されている。
その人は若くして亡くなった天才。人の痛みに寄り添う音楽と歌声だった。
「一つの音楽で……一つのバンドで……一人の人間が……やれることは限られているよ」
壁にもたれている彼の肺を紫煙が満たしていく。
「ねえ、なんでそんなに弱気なの? らしくないよ!」
「弱気……か。まあ……そうかもな。
それは……希望を見いだしたからかもしれない」
「希望……?」
「この間さ……地元に帰った時、俺の想いを少しだけ託してきた」
「託したって……なに?」
「ん……? いつか……わかるよ。きっと」
「なにそれ……」
「俺にはできなくても……次の人が繋いでいってほしい。
いつか……大きな花を咲かせてくれる……そんな気がする。
人が死んでも想いは生き続ける、そう思う」
「なんで……そんなこと言うの?
私たちのバンドの夢は? まだまだ……これからじゃん!」
彼の手からウイスキーボトルを奪い取る。
琥珀色の液体にのまれてしまう、弱気な姿なんて見たくない。
いつも私を守ってくれる。メンバーのことやスタッフのことを気遣ってくれる。
子どもたちを守りたいという、格好良い彼でいてほしい。
「そうだな……ごめん。ちょっと……出てくるよ」
酩酊した状態の身体は頼りなく揺れる。
私はドアから出ていく彼の寂しい背中だけを見ていた。




