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あすの空、きみに青い旋律を  作者: 陽野 幸人
第五章 桃色の果実

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桃色の果実 3

             *



 対価を受け取ってホテルを後にする。

一種の境界線を飛び越えた身体は、ある場所へ向かう。

そこには机に向かう男性がいる。私に気付くと目を丸くした。


「あれ……どうした? 足りなかった?」


「いえ……これ」


 ポケットから数枚のお札を取り出し、その内の一枚と返済書を警察官に渡した。

滴の付着した傘と共に。


「すぐに返さなくてもよかったのに。家に帰って持ってきたのかい?」


「――助けてくれて……ありがとう……ございました」


 頭を下げて交番から出る。夜道を歩き始めると背後から声がした。


「おーい、きみ……なにかあったか?

最初に来た時もそうだけど……なにか、つらいことでもあった?」


「なにも……ないです」


「本当か?」


「…………。ないです」


「そうか……もう遅いから、気をつけて帰って」


 一人で歩く夜道。涙は流星群だった。


 声を上げて泣くのは幼少以来だ。

泣くと両親の憤怒や悦楽に拍車をかけるから息を潜めているしかなかった。

どれほど痛くて、どれほど苦しくて、どれほど哀しくて……も。


 果てしない夜空に慟哭を届ける。


 誰も知らない。


 誰にも届かない闇夜に私は消えていく。


 街に来てから三年の月日が流れていた。

左右に様々な店が並んだ広場に、みんなで集まっている。

みんな、というのは、この街で出会った子たちだ。

談話、情報交換、お酒を飲むなどで交遊している。


 この場所には様々な子たちがいた。

虐待、いじめなどを受けた子も多くて、家庭や学校に居場所がない子もいる。

友達がほしい、ちょっとした有名人に会いたい、などの理由で顔を見せる子もいた。


 当初は仲間内で楽しく集まっていて、不義理なことや迷惑をかける人間は弾かれた。

でも、大人が介入してくるようになって、広場の雰囲気は一変する。

様々な悪意が深淵から出てきた。

違法薬物を男の子に捌かせたり、女の子には売春の強要や動画を撮影する者もいる。

それらをビジネスとする大人によって私たちの居場所は荒れていく。

違法薬物や市販薬の過剰摂取で命を落とす子もいたし、自ら今生の別れを選んだ子もいる。

  

 毎日歩道に佇む。 

肉体を渡す対価として男性から金銭を受け取ることで生活している。

施設を飛び出した時は一般社会で働ける年齢じゃなかった。

中学卒業の年を迎えても身分証明書のない私を雇うところは一般社会に存在しない。

身体を売って、生きていくしかなかった。最初の頃は、いつも泣いていたけど。

その感情は街の汚れと欲望に塗られて見えなくなった。


 ムロムロと出会った場所でもある。私のシャワー中に隠しカメラを設置した。

彼は浴室に入る時、スマートフォンと財布を肌見放さず袋に入れて持ち込む。

私はカメラに気付かないふりをして、行為後に動画の回収と彼の個人情報を奪い取った。


「なんかさ……シイ、変わったよね」


 私のことをシイと呼ぶ女の子は、この街に来て数日の内に出会った人物だ。


「なにがー?」


「前はもっと暗かったのに、すごく明るいじゃん?

常にハイになっちゃったの?」


 自身でも認識している。

大人と交渉をして生き抜くには否が応でも変わるしかなかった。

舐められたら終わりだ。支払いを渋られたり行為後に逃げられてしまうこともある。


 心を殺さないと……生きていけない。


「別にー、なーんにも変わってないよー!」


 アルコールで口内と喉の粘性を胃の中へ流し込む。


 ある日のこと。私は無数の枝木によって皮膚を傷つけられた。

男性と金額の折り合いをつけたはずが、交渉金額に満たない小銭を投げつけられる。

私自身も植栽帯へと投げ飛ばされた。

会社の部長という貫禄がある男性は、私を侮蔑した目で見下ろしている。


「お前なんか、これでいいんだよ! 社会のゴミクズ……! 人間のカスが……!」


 ポケットから取り出した無数の小銭が再び投げられ地面に反発する。

枝木の中は力を預ける場所もない。血によって腕が汚れていた。

地面に倒れ込みそうになっても男性の胸元に体当りする。

体格の良い男性は私からの攻撃で一切動くことがなかった。

彼はニヤリとした後、私の胸ぐらを掴み上げる。


「はーい、正当防衛でーす! みなさん、これは正当防衛でーす!

俺は、なーんにも悪くありませーん! 悪いのは、この社会のゴミでーす……!」


 歓喜にも似た声を上げた。


 最初に投げ飛ばしたのは男性のほうなのに。

片方の拳が振り上げられた瞬間、過去のことを思い出し身体が硬直した。


 怖い……。怖い。誰か……助けて。


 道行く人は好奇心とスマートフォンのレンズを私たちに向けているだけだ。

恐怖心によって目を強く閉じる。


 また……殴られる。怖い……怖いよ……。


 誰か……助けて。


 そう思った瞬間、胸元が伸びたTシャツと私の身体が脱力した。


 ゆっくりと目に明かりを入れる。

顎先まである茶色い髪が揺れて綺麗な横顔の男性がいた。

彼の視線を追うと体格の良い男性は地面と抱き合っている。

茶色い髪の男性が倒れた男性に近付いていく。


「あんた……人として最低だよ。男が女の子に……女と子どもに手を上げんな!」


 顔面と脇腹を強く蹴り上げていく。倒れている男性から鈍い音がする。 


「めんどくさくなる前に逃げよ」


 茶色い髪の男性は私の手を引いて傷害事件の現場から逃走した。


「大丈夫? ケガはない?」


 枝木に裂かれた腕を背後に隠す。


「――ケガしてるじゃん」


 そう言って上着のポケットから桃色で花柄のハンカチを取り出した。

私が隠した腕の傷口を拭いてくれる。


「――ファンから貰ったんだ。俺の趣味じゃないよ」

と、私の視線に気付いた彼は笑いながら答えた。


「なんで……あんなやつと揉めていたの?」


 彼はガードレールに臀部を預けた。


「――お金を払わなかったから」


 私もガードレールに腰を下ろした。


「金……?」


「私――」


 なぜだろう……彼には言いたくなかった。知られたくない。

そんな気持ちが脳裏をよぎったけど声帯は止まることを許さなかった。


「――身体を売って、お金を稼いでいるから」


 淀んだ地面だけを見つめる。


「そう……か」


「軽蔑した? 気持ち悪いって思った? 手を繋いだこと後悔した?」


 嘲笑されると思ったけど彼は変な人だった。


「――これ、食べる?」


 手には白い袋が握られていて中から桃を二個取り出した。

桃色で花柄のハンカチを使って、熟れた実が壊れないように優しく表面を拭いている。

私の血が付いているのに。


「洗うと香りが飛ぶんだよ。皮のまま食べたほうが良い香りがする」

と、桃を私に手渡す。


 彼が桃を口に含んだことを見届けた後で、私も瑞々しい果実を口内で踊らせる。


 甘くて……とても優しい味がした。



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