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あすの空、きみに青い旋律を  作者: 陽野 幸人
第五章 桃色の果実

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桃色の果実 2

 夕暮れ時、同室で二人の大人と対面した。

隣には中野先生。前には児童相談所の職員が二人いる。

私は中野先生に話したように淡々と質問に答えた。

職員も感情を声に含めるわけでもなくて、事務的な声色で会話が進んでいく。

 

「えーと、小倉さん。きみのことを一時保護するので……今日から家に帰れません」


「はい」

と、机の木目を見つめ答えた。


 職員たちは校長先生と話をする、と言って退出する。


「大丈夫……もう大丈夫だからね。暴力を振るわれることもないから」


 肩に中野先生の手が置かれても、私は机の一点を見つめている。


 大丈夫。何が大丈夫なのだろう。


 小学生の時、家庭のことを担任の先生に少しだけ話したことがある。

誰にも言わない、そう約束したのに。約束……したのに。

担任の先生は両親に確認の連絡をして、黒い塊の暴力は以前よりも酷くなった。


「小倉さんは……なにも悪くないよ。悪くないんだからね。

一方的に傷つける人が悪いんだよ」


 その後に先生が話してくれたこと。

父の行為は一般的な世の中で異常なのだと知った。


 中野先生は泣いている。先生から流れている涙。

私が可哀想な人間だと言われている気がした。


 一時保護されてから児童養護施設というところへ行くことになった。

無表情な私に対し児童養護施設の職員さんは明るい笑顔で迎え入れてくれる。

施設には小学生から高校生までの男女がいた。私が見る限り、みんな仲が良い。


 出来立ての温かい食事。胸と目の奥から何かが集まる。

言葉にはできなかったけど、みんなと食べる時間が好きだった。


 中野先生は休日になると私のことを訪ねてきてくれた。

保健委員の女の子も私に会いたい、と共に同行してくれたこともある。

よくわからないけど……胸の辺りが温かくなる気がした。


 施設の余暇時間に椅子に座っていると、隣に女性職員さんがきてくれた。

世間話をしてくれる顔は、とても朗らかだ。

施設にいる子たちは上手く受け答えできない私にも頻繁に話しかけてくれる。

優しさ、思いやり。道徳の時間だけでしか聞かない言葉が浮かぶ。

私のことを気にかけてくれる。私も……この輪の中で生きていけるのかな。

安息と不安を抱え柔らかいベッドで眠りにつく。

紫色の痣が消えていくのと同時に、心の出血が瘡蓋になっていくことを感じていた。


 でも……それは間違っていた。

あまりに細くて淡い糸は……簡単に切れてしまう。

この世には悪意の塊がどこにも存在し、牙を常に研いでいるのだと知る。


 夜間にトイレへ向かうと夜勤の男性職員が背後から抱きついてきた。

押し倒され私の上に乗りかかる。


 怖くて、怖くて、一つの叫び声さえ出てこない。


 もう……いい。もう……いいや。もう……。


 中野先生は大丈夫だよ、と言ったのに。

施設の職員さんも子どもたちも……とても優しくしてくれるのに。

ここで生きていける……そう思ったのに。

結局は変わらない現実だけが横たわっている。


 もう一人の私が私自身を天井から見つめていた。


 逃げ場はない……悪意は私を追いかけてくる。


 どこにも私の居場所なんてない。


 男性職員から誰にも言うな、と脅された後で、雨が降りしきる外へ飛び出した。


 雨に濡れた身体で煌々と照らされた建物に入る。

職員の行為を伝えたかったわけじゃない。被害を訴えようとしたわけでもない。

そんなこと……同じ過ちを繰り返すだけだ。何の意味も持たない。


「あの……」


 若い警察官は困惑した顔を浮かべる。何か事件か、と逡巡しているように感じた。


「あの……お財布……落として家まで……帰れないから――」


 お金を貸してください、と警察官に告げる。


「ああ、そうなの。それは大変だったね。大丈夫?」


 警察官は嫌な顔をしなかった。

快活な表情で他に帰りの手立てがないか、私に確認する。

そして、借受願書という紙と遺失届の紙を机に置く。


「ごめんね、きみ、若いけど……未成年?」


「いえ……違います」


 私の顔をまじまじと見た後で「そうか……」と、鼻から空気を抜いた。


「身分証明証も財布の中だもんね。あー、俺だったら落ち込むな……。

見つかるといいね、財布」


 二枚の紙に氏名、住所、年齢などを記入する。もちろん偽名だ。


「もう時間も遅いから気をつけて帰って。あ、あと、これ。傘持っていって。

俺の傘だから返さなくていいよ」

と、笑顔で千円札、返済書、傘を渡してくれる。


 公衆接遇弁償費という制度があるのだと、父が母に話しているのを聞いたことがあった。

帰宅などの目的で、一時的に警察署や交番から、お金を借りられる。

私のいる都道府県では適用されている制度だ。

警察官の問いかけに嘘をついたのは、未成年だと保護者に電話確認されるからだ。

それも会話を盗み聞きした際に把握している。 


 目的地などなかった。電車に揺られて適当な駅で降りた。

有名な駅名だったからかもしれない。

人混みの中で私は何者なのかな、と考える。


 誰でもないし、誰にもなれない。


 歩道には車道側に設けられた植栽帯がある。

緑を背景にして幾人もの女の子たちが立っていた。

綺麗な服装をしたスマートな子たちが端末を操作し等間隔に立っている。

彼女たちの脇を歩いていると一人の男性に声をかけられた。


「ねえ、ねえ……きみ、かわいいね。プチ……いや、ゴムありでイチゴでどう?

生中ならニで、どうかな?」


 垂れた目の奥にあるドロドロと溶け出した瞳。

言葉の意味は、わからなかった。わからなかったけど……。

私に対して自身の欲望を吐き出したいという想いが雰囲気や表情から伝わる。

白髪頭でふっくらとした体型の男性は、父よりもずっと年上に見えた。


「――ねえ、どう? どう? 生中二で、どう?」


 男性は頭部を軽快に振っている。

私の存在理由は欲望のはけ口でしかない。そう言われている気がした。


 佇む人形と契約を望む悪魔たちの中で一つの決意をする。

生きていくには……お金が必要だ。

一人きりで生きていくには自身でお金を稼がなきゃいけない。

住む場所も身分証明書もなければ、年齢の枷でアルバイトすることもできない。


 街を照らす偽物の光とは対照的に頭上に広がる夜空は僅かな光を持っている。

その小さくて脆い光すら私は持っていない。


 男性と共に歩き出した道で正体の知れない人々とすれ違う。

誰も私のことを知らないし、私も相手のことを知らない。

ホテル街の明かりに霞んでいく二人を見ても誰にも気付かれない。


 世の中の批判や軽蔑なんて怖くない。

一般の生活を繰り返せる人たちには理解できないことだから。

間違っている行為、と言われたとしても。


 私はわかっている。わかっていた。

生きていくには綺麗でいられないこともあるから。


 言い聞かせた。何度も何度も言い聞かせた。


 これでいい……これでいいんだ……。


 こうするしかない。こうするしかないんだ。



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