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あすの空、きみに青い旋律を  作者: 陽野 幸人
第五章 桃色の果実

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桃色の果実 1

             *



 私は……忘れていない。

記憶に深く刻まれている。あれは中学生になる前だった。

黒い悪意の塊が上に乗りかかって絶え間ない苦痛が襲う。

心と身体が純黒の悲鳴を上げる。

怖い、と小さい声を空間に泳がしたところで、黒い塊の反復運動は止まらない。

顔に垂れてくる水滴に呼応し身体は激動した。

最後には雄叫びを発して、黒い塊は私の身体の上で痙攣に溺れている。


 それは一般的に母と呼ばれる存在が家にいる時もいない時も同じだった。

一般的に父と呼ばれる存在……黒い塊が私にしてくる行為を考えた。

『愛情』と呼ばれるものなのかな、と思っていた時期がある。

それが間違っている、と、断定する知識も断罪する意識もなかったから。


 何度も身体を殴打されて意識が朦朧としている中で悪夢は始まる。

鉄の味がする赤く濡れた口内に黒褐色のものが入れられた。

あまりの苦しさによって食道を通過した吐瀉物が口元から下半身を伝っていく。

それでも喉奥を蹂躪する感触と勢力は変わらない。

哀哭と吐瀉物が混ざり合って私を壊す。

相手が一定の満足を得た後も変わらない。

胃液が纏わりついて硬直したものが私の体内に侵入してくる。

黒い塊は何度も……何度も唸り声を上げた。

まるで探しものを見つけるように……どこかへ向かう。


 早く終わって……。痛い……。怖い……。

涙が染み込んだ布団に左頬を押し付けて、いつも……それだけを考えていた。


 罰と禊。そう言われて冷水を浴びせられることも多かった。

罵声と怒声が狭い空間を味方にする。

冷水が張られた浴槽に顔を沈められて、鼻と口に水が押し入ってくる。

背後から乱雑に突き動く黒い塊は、私の髪の毛を掴んで束の間の酸素を供給させた。

臀部を激しく叩いて浴槽に沈める。その行為は黒い塊の喜びの一つだった。


 真冬の浴室で冷たいシャワーをかけられる。

身体に無数の氷柱が刺さったように感じ心の臓がポンプ役を諦めるほどだ。

何時間も立つことを命令されて心身は疲弊というより虚無へ変遷する。


 許されることはなかった。悪いことをした覚えはないのに。


 処方箋で購入する薬や市販薬とは違う錠剤を無理矢理飲まされることもあった。

私の意識は遥か彼方へ消えて、借り物の意識が大声を上げて泣き叫ぶ。

黒い塊は、その様子を眺め弄んで……悦んでいた。


 悪意の欲望。

それに抗うすべなんて当時の私は少しも持ち合わせていなかった。


 誰か助けて。


 言霊なんてない。日常的に繰り返される行為は私を壊した。


 中学生二年生になった時だ。それらの行為が明確に異常だと知った。

体育の授業で膝を擦りむいた時に、養護教諭の中野先生が教えてくれた。

思慮の中にあった葛藤は一般の常識へ変わる。


「せんせー! 小倉さんがケガしましたー!」


 保健室に入るなり保健委員である女子生徒が明るい声で言った。


「うん、どうぞ。大丈夫? あなたは――」


「――この子は小倉詩織さんです!」


 女子生徒が手を上げ元気よく私の名前を告げた。


「小倉詩織さん。はい、ちょっと見せてね」


 微笑みながら右膝を見ていた先生の表情が硬直する。


「――愛結ちゃんは体育に戻っていいよ。連れてきてくれて、ありがとう」


「はーい! あっ! 先生、ママが同窓会したいって言ってたよ。 

家でバーベキューしようって!」


 中野先生は彼女の言葉に頷く。彼女は保健室を出るまで何度も手を振っていた。


 傷口に塗られる消毒液が痛い。

痛い……けど。普段感じている苦痛に比べれば大したことはない。

そう……すべてのことは大したことじゃない。


「小倉さん、この足のアザは……どうしたのかな? 今……転んだケガじゃないよね?」


「え……はい……」


「先生に見せてくれるかな?

大丈夫……鍵をかけるし、誰にも見られないから」


 先生は微笑んでいるけど哀しみも持っている気がした。


 私はハーフパンツを下ろし紫色に変色した斑模様をみせた。

しばらくして、先生はハーフパンツを優しく元の位置へ戻してくれる。


「ごめんね、上着もいいかな?」

と、言われて体操着を頭部に通過させた。

上半身は、ひどく変色していて、元々白い肌だから余計に目立つ。

胸元に手を置いていると先生が体操着を着ることを助けてくれた。

衣類の着脱によって乱れた髪を手ぐしで直してくれて白衣が私に触れる。


 その意味が……わからなかった。


 今まで誰からもされたことがなかったから。


 抱きしめられている。


「つらかったね……。もう大丈夫。もう大丈夫だからね」


 大丈夫。何が大丈夫なんだろう。

私から離れる先生の目には涙が浮かんでいた。


 なぜ、泣いているのだろう。


 翌日、担任の先生から保健室へ行くように指示される。

扉を開けるとクリーム色をしたカーテンから陽射しが薄っすらと入り込んでいた。

保健室に入室したけど中野先生に連れられて別室へ向かう。

ベッドがカーテンで仕切られていたから誰かがいたんだと思う。


「ごめんね、授業があるのに」


 椅子を引いて私に座るように促した。


「最近……暑いね。体調はどうかな? ご飯は、しっかり食べられてる?」


「あ……はい」


 家で食事することは、ほとんどない。

休日は常に空腹で過ごす。公園で水を飲むだけだ。

お腹が満たされるのは給食がある平日の昼間だけだった。


「よかったら、これ食べて」


 中野先生は白衣のポケットから箱に入ったチョコレート菓子を取り出した。

内袋を手で開き私の目の前に置いてくれる。


「みんなには、内緒ね」

と、人差し指を唇に当てた。


「――小倉さん……先生に話してくれるかな?」


「え……」


「家で起きていること……些細なことでもいいから。先生、しっかりと聞くよ。

つらいと思うけど……話してほしいな」


 先生の真っ直ぐな瞳は、いわゆる道徳の時間に習う温かさを持っている気がした。

その目を私は知らないし、欲しいと思ったこともない。


 家で起こっている、すべてのことを話した。

中野先生の言葉を信じたというわけではない。

話してほしいと言われたから、ただ答えただけだ。

私は淡々と話す。

感情の起伏などないまま白衣の胸ポケットに刺さったボールペンを見つめて話す。

質問と応答が繰り返される。

顔を上げると先生の目から涙がボロボロと流れていて不思議に思った。


 先生には関係ない話なのに、と。


「これから児童相談所の職員さんが来てくれるから……そのことを話してくれる?

大丈夫……先生も同席するから。話したくないことは、話さなくてもいいよ。

私が一緒にいるから大丈夫」


 チョコレート菓子は甘かった。

お菓子なんて食べられる機会がないから……食感と甘さが新鮮だ。

口から離した手を机に置く。中野先生は手を重ねてきた。


 人の手って……温かいんだ。



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