花火と疑惑 3
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美波と凛花が浴衣の準備などをしたいからと、いつもより早めに帰宅する。
あの後、食の進まない美波と凛花の二人に、室岡はカツサンドを追加した。
「遠慮するなよ、たーっぷり……味わえ」と。
悠馬は最初こそ気にしていたが、カツサンドの美味しさにのまれ次々と胃袋に流した。
疑惑の霞など食ったところで腹は膨れないといった考えに変わったのだろう。
自宅の階段にギターケースと学生カバンを立て掛けて洗面所へ向かう。
手洗いをしてから顔にひんやりとした水分を押し当てる。
日々が流れていく中で心に降るもの。鏡に映る自身の顔に心の中で問いかけた。
どうする? 今のままでいいのか?
答えが見つからないまま溜め息を漏らす。
廊下を進んでいくとリビングから俺の名を呼ぶ声がした。
扉を開けると母が有名洋菓子店の箱を手に持っている。
薄い桃色と白色の花が細かく描かれたテーブルクロスに置いた。
真っ白なティーカップも並んでいる。
「四宮さんからケーキ頂いたの。食べる?」
並ばないと買えない有名店の箱を今日は二度も目にする。
「四宮って……」
「中学生の頃から一緒の四宮美波ちゃんのお母さん」
「そうなんだ……なんで?」
母が探りをいれているのか、俺が探りをいれているのか。
いや……母は心理戦などするつもりはないだろう。
親子間で駆け引きをしようとする自身の思考に少しばかり嫌気が差す。
「なんでって……いつも、お世話になっていますって」
箱を開封する母の指先に焦点を当てた。
箱の底が見える箇所もあるから、美波の母と食したのだろう。
箱の中には彩りがある。
白銀に赤色の果実が咲いたケーキ。
秋の色をみせる王冠が乗ったケーキ。
白い台座に緑色の宝石が置かれたケーキ。
その色合いが……あることを連想させた。想像力は豊かすぎるほどだ。
おそらく箱に入っていたのは、チョコレートケーキとミルフィーユケーキ。
食べてくれたんだ……と勝手に思い込む。
「どれがいい?」
と、母は優しく微笑んだ。
母は知っている。俺が甘い洋菓子や和菓子が得意でないことを。
「――いや、いらないよ。昼、食べたばっかりだから」
そう……と寂しく呟いた母は、ティーカップに琥珀色の紅茶を注いでいる。
透明なティーポットが傾けられて、その音と共に母は小さい声を漏らす。
「夏休み……ギターを持って、どこに行っているのかなって、思ってたけど……」
母の言葉は俺の胸に小さい針を刺す。
「――バンド……やっているんだってね」
ゆったりとした声で母は話を続けた。
「四宮さんに……お礼を言われたよ」
「お礼……?」
「うん。美波ちゃん、いつも勉強に根を詰めていたけど最近は楽しそうにしているって。
家でもバンドのこと話してくれるみたい。家族の会話が増えて嬉しい……笑ってたよ。
勉強だけじゃなくて学生生活の楽しみを友達と共有してほしかった、ってね」
「そう……」
勉強しろという親。勉強以外も頑張ってほしいという親。
千差万別であるし、細分化すれば様々な意見があるだろう。
目の前の母はどうだろうか。勉強しろ、と口うるさく言われたことは一度もない。
おそらく美波の母と同様の意見なのだろう。
「――バンドやってるなら家でも弾けばいいのに」
再び小さな針が俺の胸を刺激する。
目の前に置かれた紅茶の液面は夜の静寂に似ている。
そこに俺の心を映してほしい。
「気にすることないよ」
ティーカップが母の茶色い髪の毛へ近付く。
俺は特に返答することなく、椅子から立ち上がってリビングの扉を静かに開ける。
背後から柔らかい母の声が届いた。
「今日、お父さん早く帰るらしいから久しぶりに三人で食べられるよ。
なにか話したいことがあるなら考えといてね。
あ、でも、変か……そんなこと考えて家族で話すのも」
「進路のこと?」
「ううん、それだけじゃなくて。なにか悩みとかあれば」
途中まで開いた扉の動きを指で押さえつける。
「今日は……花火大会に行くから」
振り返らずに扉の曇ガラスに答える。
「花火大会? そういえば今日だったね。誰と行くの?
――あ、もしかして、彼女?」
母の明るい声と少しばかり意地の悪い言葉が混合し背中にぶつかった。
「バンドメンバーとだよ」
「彼女?」
「メンバーだってば」
いくらかの問答を繰り返した後で、母は「そう、気を付けてね」
と、ありふれた言葉を俺に送った。
自室に入ると冷気が俺を撫でる。
一定の温度を保っていたいからエアコンは点けっぱなしだ。
いつも通りギターをスタンドに立て掛ける。椅子に腰を下ろしてギターを眺めた。
一呼吸する。椅子から身体を離してギターを手に取る。
「家でも弾けばいいのに」と、母の言葉を反芻した。
左手指を三本並べて、ルート音、短三度、完全五度の和音が室内に寂しく響く。
相手を思いやる気持ちから生まれた相容れない双方の感情。
音の粒に乗り建物に馴染んでいった。
花火大会の待ち合わせ場所には陽気な声と群衆が行き交っている。
悠馬の姿を発見した。踵を返すか知らないふりをするか悩んだ。
それというのも手を振って近付いてくる彼の姿に大きな問題があった。
彼の身体に合わない大きな黒いTシャツには相手を罵るアルファベットが並ぶ。
北アメリカで生まれた罵倒の言葉だ。彼は意味を知らないだろう。
下半身は地面に摩擦を与える垂れ下がった太いパンツだ。
夜にもかかわらず真っ黒なサングラスが装着されている。
斜めに被ったメジャーリーグのキャップは頭部を赤く彩っていた。
「お待たせっす! 優詩先輩、どうっすか? 俺、いい感じっすよね?」
首元から下がった太い金のネックレスが目立つ。もちろん偽物であることは明白だった。
「ファッション……変えたんだな……」
「はいっす! ロックな感じで仕上げてみたっす!」
「…………。ヒップホップに影響を受けている感じがするよ」
体格のよい外国人たちが同様の格好をすることは様になっている。
しかし、目の前の男は違う。
小学生が中学一年生になる前、制服を仕立てる際に言われる言葉が似合う。
「成長期だから大きくしておくね」という根拠のない先見の明だ。
卒業まで体格の変遷がなかった、どこかにいる悲しい人の末路にも通ずる。




