恋心と悲哀 9
車内にある尋也の瞳はバンドメンバーに向けられている。
「お前……。お前……四宮だよな?」
「――久しぶりね……真木くん。覚えていてくれたのね」
と、新たに取り出したポケットティッシュで悠馬の鼻を押さえている美波が言った。
「懐かしい……顔の二人に会えるなんて、な」
眉を下げた尋也は過去を懐かしんでいるのだろうか。
「――お前ら……優詩と一緒にいたら裏切られるだけだ。必ず後悔するぞ」
「後悔したっていいじゃん」
首を斜めに曲げて嘲笑するかのように詩織さんが言った。
「なんだと……?」
「自分が選んだことじゃん。一緒にいたいから一緒にいる、それでいいんだよ。
それとね、なにもしなかったら後悔や達成も味わえないんだよー。
覚えとけよー! この変態入れ墨小僧!」
「クソ女が……」
ドアガラスが上方へ向かう際に尋也の口元が緩んだように見えた。
それは……見間違いだったかもしれない。
凝固した血が鼻の下に貼り付いている悠馬の前で俺は膝をついた。
「――悠馬、大丈夫か?」
「あ……全然、全然大丈夫っす……」
「悪いな……俺のせいで」
「俺……ゆ、優詩先輩みたいに……カッコよく……勝てなかったっす……。
カッコよく勝てなかったっす……でも……売らなかったっす」
「そうだな……ありがとう」
美波の手から借りたティッシュで血を拭う。悠馬は看護してくれる彼女へ問いかけた。
「美波先輩……俺に惚れたっすか?」
「ううん……惚れてないよ」
「えっ……マジっすか?」
「うん。特に変わらない」
毅然とした態度で表情を崩さない美波は答えた。その目には一切の迷いがない。
美波の優しさであることを理解しているが、悠馬は気付くことも考えることもない。
「ええ……マジっすか……。俺……三人相手に立ち向かったんすよ?」
「見てないから……」
肩を落とした悠馬を哀れんだが、切り替えの早い男だ。
すぐに顔を上げて別の思考を持ち出した。誰かに褒め称えられたい、と。
「島崎、お前……先輩を売らなくて、仲間を守った俺をカッコいいと思っただろ?
惚れただろ? 本当のこと言え。優詩先輩の前でも言って大丈夫だ」
「………………」
「その反応は……完全に惚れてるな。少し顔も紅いし」
「…………。な、殴られ……てただけ……。泣いてた……だけ。
助けてくれたのは……優詩先輩」
「お、お前……!」
凛花に近付くことを美波に咎められている。
笑顔になっている彼の姿はムードメーカーと呼んでよいだろう。
「ねえ……変態入れ墨小僧と……なにがあったの?」
普段より声の調子を落とす詩織さんが聞いてきた。
「昔……色々あったんです」
「そっか。まっ、生きていれば誰にだって人に言えないこともあるよ……!
いつか……言える時がきたら教えてね」
――それは……俺もあなたも一緒だ。
「すみませんでした」
「え……?」
「俺と尋也のことで……みんなを巻き込んで」
二歩前に飛び出す詩織さんが振り返った。
「誰も優詩くんのこと責めないと思うけどー。バンドメンバーでもあるし友達でしょ?
過去になにがあっても、今は優詩くんがバンドのリーダーだよ。
――真っ直ぐ歩いて、みんなに背中を見せてあげなよ」
「背中……ですか」
と、小さく声を漏らす。
「ねっ……! リーダー!」
そう言った詩織さんの笑顔は駐車場を照らしている街路灯よりも輝いて見えた。
彼女は三人の輪の中に飛び込んでいく。
透き通る声から生まれる言葉は、真実と誠実を含んでいて安心感を持たせてくれた。
街路灯の光に無数の虫が飛び込んでいる。
光に吸い込まれるものは、光に何を求めているのだろう。
闇に吸い込まれるものは、儚く消えていくこともあるのだろうか。
決して軽くはない足取りで自宅に到着した。
手洗いを済ませて自室に入り、スマートフォンの画面を明るくした。
連絡先の「く」を目指して指を滑らせる。
目当ての人物は何回目かの呼び出し音で繋がった。
「おー、なんだよ。珍しいな」
そう言った後、煙草を吸っているのか、長めの吐息が聞こえる。
「要……今、大丈夫?」
「ああ、大丈夫。なにか用か?」
「――今日、尋也に会った。この街にいるよ」
電話口の返答。待つ時間が長く感じる。
「――そうか。あいつの様子どうだった?」
「前とは変わっていた。仲間も悪そうなやつらだったよ」
「悪そう……ねえ。見た目だけのやつらだろ、どうせ」
「裏切り者……って言われたよ」
「そうか……で、大丈夫だったのか?」
今日の出来事を要に伝える。
彼は相槌を打つでもなく、ただ黙って話を聞いていた。
「あいつも……変わっちまったな。ヤクなんて捌きやがってよ」
「なあ……要。頼みたいことがあるんだ」
「なんだよ? あ、先に言っとくけどな、金貸せっていうのは無理だぜ。
この間、バイト先に変なやつ……クレーマーがきてよ。
そいつが女の先輩に食ってかかって泣かしたから、ぶん殴ったらクビになった。
警察には言わないように脅しといたけどな」
楽しげな声がスマートフォンのスピーカーを支配する。
「動きを制圧するぐらいにしとけよ。もう……子供じゃないんだから」
「立場と関係性を利用して理不尽に怒鳴るやつなんて見過ごせねえだろ。
あの人に顔向けできねえよ」
その一言が温かくもあり痛くもあった。
「大体よ、クレーマーなんてのは会社とかでは隅っこにいる小せえやつなんだよ。
かわいそうなクソ野郎なんだよな。あのチビスケも。
わりい、話がズレたな。それで……なんだよ、頼みたいことって」
「ああ……尋也たちのことで揉めたら……助けてくれないか?」
再び沈黙が流れた。一瞬のようでも長く感じる。
「そんなことか……当たり前だろ。わざわざ頼むんじゃねえよ。
ただ……珍しいな、優詩が頼み事するって」
「リーダー!」という詩織さんの言葉が脳内に流れた。
「一人じゃ……無理だと思った。自分のことは、どうにでもなるけど。
メンバーのことを守るのは一人じゃできそうもない」
「はは、優詩らしいな。任せとけ。なにかあったら俺が加勢してやる。
尋也には……俺も少なからず借りがあるからな」
夏休みの過ごし方や俺のバンド話などをしてから電話を切った。
何事もなく時が過ぎてほしい。
楽観的なことは望まないけれど前を向いて進んでいければ良い。
ギターをハードケースから取り出しスタンドに立て掛けた。
椅子に座ってから白い天井に顔を向ける。
顎の先にある机の上には『ラブレター』が寂しく置かれていた。




