恋心と悲哀 8
「だから……言ったじゃねえか。お前らじゃ……優詩の相手にならねえよ」
侮蔑を含んだ表情を浮かべる尋也はスキンヘッド男を見下ろす。
地面に倒れ込んだ男の脇腹を彼は強く蹴飛ばした。
「手を出すなって言ったよな……!」
短いうめき声が出る中で何度も背中を踏みつけている。
三対一とは分が悪いと思っていた。
女子の身の安全も保証し喧嘩などできるはずがない。
尋也がスキンヘッド男に制裁を加えたことで彼は戦闘不能になっている。
暴行を終えた彼は額に汗を滲ませ指先を入れ墨の上でゆっくりと滑らした。
「――さすがは優詩だよ。なあ……俺らの仲間になって昔みたいに暴れようぜ」
陰りを含んだ微笑みを俺に向けた。
「尋也……わかっているだろ。そんなことしたって、ゆ――」
「黙れ……その先は、お前が言うな」
と、俺の言葉は冷たい声に防がれた。
「こっちの世界にくれば金はいくらでも手に入る。
今の世の中は昔と違ってヤクザもんに媚びる必要もねえ。好きにできんだよ」
「俺は……音楽がやりたいんだよ」
「音楽……か。そうか……仲間にならねえ……か。
それなら、きっちりと……ケジメをつけてもらわねえとな」
顎を上に向けて俺を見下す尋也の白目に赤い線が走っている。
細かい蜘蛛の巣のようだ。気怠そうに首を回し重たい足取りで俺に近付いてくる。
ポケットから取り出した煙草を左手に挟む。左手の薬指には一つの指輪が光っている。
胸元に見えるネックレスにも同様の指輪が付いていた。
煙草にライターの火を移して、溜め息と同時に紫煙を吐き出す。
薄い煙は二人の関係性を表しているようだった。
煙草の匂いというよりは、ひどく甘いような香りが周辺の空気を侵していく。
煙を長いこと肺に満たした尋也は小さく嘲笑する。
「――あの日のこと……忘れてねえからな」
「そう……か」
「お前が……裏切ったこと、だ」
久方ぶりに見た彼の目から首元の入れ墨に視線を下ろした。
「全部だ……。全部、ぶっ壊してやるよ……。お前の周りの人間も全部……!」
「――他の人は……関係ないだろ」
「あ……? 本人に苦痛を与えても意味がねえよ。
そいつの大事なもんを壊すことに意味があんだよ……。
奪う、犯す、壊す。それが俺の流儀だ」
「尋也……」
俺、要、尋也。三人が楽しく笑っている姿が切り取られた映像のように浮かぶ。
俺たちを厳しくも優しく叱責する……もう一人の顔も。
「もう……戻れないか? 昔みたいに……さ」
鼻から短く早い息を出し尋也は笑う。
「今さら戻れるかよ……。戻るつもりもねえよ……」
その眼光は恨みと哀しみを伴っている。
「全部……全部、お前が悪いんだよ。この裏切り者が……!」
「そう……だな」
「忘れんなよ、よく覚えとけ。全部……壊してやるからよ。
俺が感じた傷みをお前らにも教えてやる。要にも伝えておけ」
「そうか……俺以外の人に手を出したら……俺は絶対に許さないからな」
「おおー! ドラマみたい……! カッコいいー!」
と、俺たちの間に頭一つ小さな詩織さんが割り込んできた。
「喧嘩はだめだよー! おもしろそうだったから止めなかったけど……ね!」
すべての暴力を否定するべきではない。一方的で身勝手な暴力がいけないだけだ。
人が蹂躪される。指を咥えて見ている。そのようなことできるわけがない。
誰かを守るための暴力は必要だ。愛する人を守るための暴力は必要だ。
人間は他者を傷つける生物であるから、それから逃げるわけにはいかない。
俺は……そう教えられたのだから。
「あと……きみ! それ! 煙草じゃなくて大麻でしょ……! 未成年がダメだよ!」
――いや……ダメだろう。成人でも大麻はダメだろう。
煙を放つ葉っぱを尋也の口から奪い取って、詩織さんはアスファルトに叩きつけた。
火の粉が散って甘い残り香が足元から立ち昇ってくる。
「なんだ……この女……」
「なんだ、って言われてもねー。きみたち……うちのドラマーを殴ったよね?」
「あ? だったら……なんだよ?」
「へん! お返し……!」
詩織さんの足が尋也の股関を蹴り上げる……ということにはならなかった。
彼は至近距離であっても、攻撃の際に生じる、わずかな挙動を見逃さない。
左膝を斜め前に小さく突き出してキックを無効化した。
攻撃を仕掛けた詩織さんのほうが「いっ……たい!」と、足を押さえている。
「――優詩……こいつ、お前の女か?」
「違うよ」
「そうか……なら、めちゃくちゃに犯してもいいんだな? 壊してもいいんだな?」
「尋也……お前……」
「どうした? このまま攫ってやろうか?
この女、輪姦してやろうか?」
「ねえ、ねえ、残念だけど……別に怖くなんてないよー。
壊す……かー、壊れたことがある人には効かないかもね」
この場に居合わせた場合、どれくらいの人が詩織さんのように笑顔でいられるのか。
悪意がない少女のような姿に違和感を覚える。「壊れたこと」とは何を指しているのか。
「はっ……おもしれえ、な」
詩織さんの顎を三本の指で持ち上げる尋也の腕を俺は強く掴んだ。
五本指で握りしめる。その腕を破壊するように。
「いてえな……離せよ」
「その人に触るな……」
「ああ……? やっぱり、優詩の女なのか?」
「違う……それでも、その人を傷つけるっていうなら――」
オールバックの男が脇腹を押さえ頼りない足取りで近付いてくる。
「このガ……ガキが……て、てめえ……ぶっ殺して……やる」
深い溜め息を吐き出した尋也の表情は冷徹で……何かに取り憑かれている。
オールバック男の攻撃に備えて身構える。
しかし、彼の攻撃もスキンヘッド男と同様に俺には届かなかった。
「――やめとけ。そろそろプッシャーにヤクを渡す時間だ。
遅れたら面倒だ。早く車に乗り込め、行くぞ……」
スキンヘッド男、オールバック男は血管を浮かび上がらせ俺を睨む。
しかし、頭である尋也に従わざるをえないのか舌打ちをして踵を返す。
夜の中でも妖しく黒光りするワンボックスカーが転回してくる。
ドアガラスが音を立て下がった。




