あすの空、きみに青い旋律を

第三章 恋心と悲哀

恋心と悲哀 5

「いっ……いってえー！」

　頭を抱えた悠馬は夢の世界から帰ってくる。

殴打した本人はベースのネックに左手を添え反対側の校舎を見ていた。

「え……な、んすか！　い、いてえ！　頭が……いてえ！」

「あ……ごめん、ごめん！　起きなかったから……叩いちゃった……！」

　詩織さんが嘘を吐く。悠馬の顔を胸の中に招き入れ頭部を優しく撫でる。

一瞬の間があいて「ね、姉さん……！」と、背中に腕を回す。

俺は彼の頭部に強烈な手刀を食らわせた。

凛花の叩いた付近を狙って正義の鉄槌をおみまいする。

「いってえ！　なにするんすか……！？」

「――離れろよ」

「俺からじゃなくないっすか？　姉さんからやってきたんすよー。

でも……姉さん、いい匂いがするっす……！　もっと嗅ぎたいっす！」

「いやー、それは……無理。さすがに気持ち悪いかもー」

と、悠馬の額を押し返している。

「じゃあ、悠馬も起きたから――」

　オリジナル曲の発表を提案する。

早々に始めたかったのだが流れを停止させたのは悠馬だった。

ドラムスティックを高々と掲げている。

「優詩先輩！　俺の演奏を聴いてほしいっす……！」

　俺は首を縦に振ったが凛花は窓から目を離さない。

「じゃあ、やるっす！」

　ハイハット、スネア、バスドラムのシンプルかつ軽快な8ビートが部室に反響した。

それほど早くないテンポで丁寧に打面を叩いている。

走ってしまうこともあるが、一週間前と同じ人物であるとはおもえなかった。

　そういうものかもしれない。努力は。

高い集中力から生み出されたものは時の流れなど関係ない。

練磨から生まれた自信は確信へ変わっていく。

そして……自ら努力したと口にする者は、努力していないと言っているのと同義だ。

　練習期間中、俺も学校に来ていた。

一昨日、教室から出て廊下を歩いていると、不揃いな低音が聴こえてきた。

微かな振動が壁伝いに響く。

部室へ近付いていくと音が大きくなり不安定さも増していく。

準備室には赤茶色のソファーで仰向けになった室岡がいた。

黒いアイマスクに白いヘッドフォン。彼は音を遮断し夢の中を旅している。

夢の国から真夏へ引き戻す。とは言っても室内は肌寒いくらいに冷えていた。

「ん……？　なん……だよ？」

　開けきらない目で俺を睨んだ。毛が目立つ指と目を何度か擦り合わせている。

半分夢の中に置き去りにされた思考は相手にしない。

現実にある半分の思考に問いかけた。

「悠馬……ですか？　ドラム叩いているの」

「ああ……そうだ。あの野郎……毎日来るんだ。

俺は……ここで生活しているようなもんだから、うるさくてしょうがねえ」

「――毎日ですか？」

「そうだ、あの野郎……早朝から夜までやりやがって。俺の身にもなれよな、クソが」

　口をひどく歪め頭皮をかいている。

剥がれた皮膚がパーマに絡んで、もずくに金粉をまぶしているようだった。

「まあ……女子なら大歓迎なんだけどな」

「どういう意味ですか？」

「あ……？　四宮、島崎、詩織が来るなら俺もやぶさかではないってことだ。

むしろ、大歓迎だ。ウェルカムだ」

　口を大きく開け酸素を充分に取り入れた彼の目に水分が溜まった。

「それ……教師として、どうなんですか？」

「あ？　なにが？」

「生徒を……そういう目で見るって」

「お前な……教師ってのはそんなもんだ。大人ってのはそんなもんだ。

清廉潔白なやつなんていねーよ、バカが」

「それは……もちろん、わかっています」

「はっ、わかってねーよ。知ってるか？

教師になるやつはドスケベしかいない。それが目的で教師になるんだからな。

九割九分はロリコンの変態だ。

――よし……お前に社会ってもんを教えてやる。

そうだな、例えば教師、警察、医者、自衛官。

立派な職業で信頼できるやつらだと思ってるだろ？」

「まあ……一般の人は、そう思ってるんじゃないですか。俺は思いませんけど」

「バカが……。勘違いするな。あいつらも一般人と大差ねえよ。むしろ悪い」

――思ってないと言っただろう。

「あいつらの中に正義のため、人のため、国のため。

そんなやつら、どれくらいの数いると思う？」

「多くは……ないでしょうね」

「そうだ。金、権力、名誉の三本立てで選んだ職業だ。

安定という言葉を加えてもいい。自衛官なんて頭の悪いやつの受け皿になっているしな。

そう……例えば、警察官だ。女の家に侵入して何件もレイプしたやつがいる。

警察としての知見を活かして証拠隠滅も図った。

警察で押収したレイプ動画や盗撮動画を家に持ち帰って楽しむやつもたくさんいる。

そもそも捜査する時の動画確認でも股間を膨らませてんだよ、知ってるか？

――警察官という身分を利用して幼い子供をやったやつもいるな。

警官同士で交番や警察署でヤリまくったバカもいる。

全部、実際に起こった事件で、今話したのは氷山の一角だ」

　珍しく詰まらないで言葉を吐いている。

「クソが……。権力を利用して、あいつらだけ……楽しみやがって。

クソどもが……死ね。明日にでも死ね」

　ラストに鳴らされたシンバルで回想を止める。

「――悠馬、すごいな。一週間で叩けるようになってるじゃん」

「おー、すごい……！　やればできるもんだね！」

　凛花と美波は先日の一件が心に引っかかるのか、特に言葉を出さなかった。

空気を変えようとギターのハードケースの留め具をパチっと鳴らす。

しかし、微かな音に空気が清浄されることなどない。

　悠馬はドラムスローンから立ち上がって凛花に近付いた。

「あのよ……この間……悪かった。俺……うまくねえけど、がんばるからよ」

「………………」

　凛花はベース弦をツーフィンガーで撫でるだけで悠馬に顔を向けることはなかった。

彼は美波に顔を向ける。

「あの……美波先輩。この間は、すんませんでした。俺が……間違ってたっす」

と、頭を下げる。

　美波の白い肌の中にある口元が優しく動く。

「ううん。私こそ……叩いちゃって、ごめんね。さっきの演奏はカッコよかったよ」

　急激に上体を起こした悠馬の眉毛は上下に動いている。

「え、マジっすか？　カッコよかったっすか？」

と、美波に近付いていくけれどキーボードが二人を隔て距離を縮めなかった。

「それって、あれっすか、好きってことっすか？」

　ずいぶんと飛躍する男だ。

女子から話しかけられただけで自身のことを好きだと錯覚する彼らしい。

話の内容というのも「〇〇先生が呼んでたよ」や「課題提出して」という連絡だ。

それで好意があると勘違いするのだから認知の歪みがあった。

俺は何度も注意したことがある。彼の心を守るために。

「いいえ、好きじゃない。

私……軽い男の人って、人としても異性としても好きじゃないから」

　研ぎ澄まされた刀で真っ向から袈裟斬り。

血が吹き出し倒れるかと思った。しかし、彼の心は鋼で作られている。

「マジっすか！　じゃあ、あれっすね。

好きになる可能性があるってことっすよね？」

「ううん、ない」

「え……だって、好きじゃないって……」

「ええ、軽い男の人は好きじゃない」

「軽い男じゃないっすよー。やるときは、やる男なんすよ！」

「そう……ね」

　いくらかのコントが続く。悠馬のドラムプレイは形になっている。

オリジナル曲の発表より先に課題曲を合わせることにした。