恋心と悲哀 1
バンドとして初めての練習だ。
準備室に入ると室岡がパソコンの画面を睨んでマウスを力強くクリックしている。
横から挨拶したが反応はない。
一瞥した画面には仕事と関係ない卑猥なサムネイルが並んでいた。
部室には凛花と美波の姿があって二人は各々の楽器を用意している。
美波は部室にあったキーボードをセッティングしていた。
凛花は自前のベースを面積の少ない肩から下げている。
「外村くん、おはよう」
「おはよう」
「お……はよう……ございます」
小さい身体の凛花にベースは重そうだ。
「おはよう。いいベースだね。高かったでしょ？」
ベースを指差し問いかける。
「あ……はい……」
凛花の所有しているジャズベースは米国にある有名メーカーの品だ。
ボディは光沢のないピンク色、白いピックガードが取り付けられている。
女の子だから、やはり可愛らしいものを選ぶのだろう。
俺には似合わないな……と思いながら彼女に近付く。
ボディのクラックや打痕が目につく。
ブリッジやペグが酸化によって腐食した形跡も見られる。
「あれ……もしかして、ヴィンテージ物？」
「あ……いえ……カスタムショップ製の……再現したものです」
「そうなんだ」
彼女に値段を確認したところ七桁近い金額だった。
親の物かと尋ねたが自身で購入した物らしい。
美波は驚いていないけれど鍵盤に指を吸い付かせて金額を聞き返していた。
彼女はクラシック畑出身であるから億単位の楽器と比べたのかもしれない。
他愛のない会話をしている間に詩織さんが到着した。
黄色のショルダーバッグを肩から下げて、黒く大きいバッグを手に持っている。
「よっ！ おっはよー！ 初めての練習だね……！」
「おはようございます」
「あっ！ 新メンバーの美波ちゃん、よろしくねー！」
「はい、お願いします」
美波の真面目な表情と馬の不真面目な表情が対面している。おかしい光景だ。
「わっ！ ベースかわいいねー！ 見せて、見せて！」
馬の被り物を脱ぎ捨て凛花へ近付いていく。
「ひいい……！」
身体の半分を横に逃したところで詩織さんからの追撃を避けられるわけもない。
祈るようにロッカーへ目を向けた凛花。微笑みながらベースを触っている詩織さん。
彼女を引き剥がそうとしたところで、汗だくの悠馬が部室に入ってきた。
メンバーと挨拶を交わした後でドラムスローンに腰を下ろす。
首を左右に振り準備運動をしている。雰囲気は立派なドラマーだ。
「あっ、ちょっと待って」
と、詩織さんが悠馬に声をかける。
先日の争いは、どこへ消えたのか。
詩織さんは持参したチューニングキーを使用し、
スネアやタムのボルトを緩めては締めていく。
ドラムスティックで音色や打面位置による音の整合性を確認している。
肩を寄せ合う二人は、おとなしく遊んでいる姉弟のように見えた。
横に置いていた大きいバッグのファスナーを動かし詩織さんは中身を取り出す。
丸いメッシュ状のものだったりゴム素材らしきものを床に並べていく。
「ここでドラム叩くなら音量対策は必要でしょ」
ドラムのシンバルにゴムパッドを取り付ける。
タムやスネアにもメッシュ状のものを乗せていく。
バスドラムの音量対策としてビーター部分にスポンジ素材を取り付けた。
最後にドラムスティックの先端に丸いゴムをはめる。
「優詩くん、いきなり合わせるのー？」
「そうですね……一人一人の技量を見てからのほうがいいと思います」
「そうだねー」
「――じゃあ、美波から時計回りで」
キーボードのボリュームを上げ美波は手慣れた様子で鍵盤を押していく。
課題曲のメロディラインと和音をバラード調にして鳴らす。
間の取り方が絶妙であり原曲のパンク感を排除し綺麗なピアノ音に変えている。
――流石だな……。
幼い頃から音楽に親しんでいると音の取り方や聴こえ方が一般人とは違うのだろう。
課題曲をバンドアレンジしてきて予定にはなかったメロディラインを弾いている。
「おー、すごいね……！」
「最高っす！ きれいっす！ ヤバいっす！」
垂れた目元が普段よりも下方向に流れている悠馬は手を叩き合わせた。
「あなたの番よ。金村くん」
「はいっす！ 了解っす！ 美波先輩に……捧げるっす！」
名前を間違われている。気付いていないのか。
それとも四宮先輩から美波先輩という呼び方を変えることに意識が向いていたのか。
彼の演奏は唐突に始まった。
スネア、タム、バスドラムを高速連打している。キックだけは謎のテンポだ。
誰しもが首を傾げたはずで、その違和感は誰でも気付く。
しばらく叩いた後で美波が手を上げ悠馬の動作を止めた。
「ドラムのことはわからないけど……。
そういう奏法というか……両手で同時に叩き続けるパターンがあるの？」
「え？ どういうことっすか？」
「同じところを同じタイミングで、ずっと叩いていたらリズムにならないじゃない」
「そうなんすか？ でも、あれっすね。
動画を見て勉強したんで！ こんな感じだったっす！」
彼の見た動画というのは最初に影響を受けた人物である。
当然ではあるが悠馬のように叩いていない。
しかし、首を振り回し叩く姿は模倣できている。
「――練習曲じゃないから……好きにしたら」
と、大きな目を半分にし白黒の鍵盤へ視線を落とした美波は抑揚のない声で言う。
再び我が道を行くドラミングを悠馬は室内に響かせた。
詩織さんだけは握りこぶしを空中に叩きつける。
アイラインを下げたまま頭部を揺らしていた。
演奏を終えた悠馬は立ち上がり何かの傀儡になる。
身体を力なく揺らしドラムセットの前に立つ。彼が何をしようとしているのか理解した。
