あすの空、きみに青い旋律を

第二章 波浪と動向

波浪と動向 9

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　まったく、忌々しい記憶を掘り返された。

　ババアの言うとおり……あれは十年ほど前だ。

軽音楽部を作った、あいつらの顔を思い出した。

月日が忘れさせてくれると思った……が。

あのババアのせいで記憶は鮮明なものへ移り変わってしまう。

　軽音楽部を復活させた生徒たちは帰っていく。

いつも馬鹿騒ぎしている金本は通夜にでも参列するような表情だった。

あいつは家族でも失ったのだろうか。

コーヒー豆を抽出している間に無人となった部室へ顔を入れる。

女の子が三人もいたのだから甘く良い香りが残っていた。

余すことなく鼻腔から吸い上げると血液が一箇所に集結してくる。

――ああ……たまらない……たまらないな……いい匂いだ。

　何度も鼻腔に入れるが男子生徒が二人いたのだと思い出し我に返る。

――クソ……！　クソが！　死ね……！

　憎悪が集中した足で扉に悲鳴をあげさせた。

　ビール用の中ジョッキにコーヒーを注ぐ。

手のひらサイズの蜂蜜を丸々一本と溢れんばかりのミルクを投入する。

当時のことを振り返るには……これくらい必要だ。今思い返しても腸が煮えくり返る。

激しく高鳴る鼓動……これは怒りだ。強い怒りを持って十年前を振り返る。

「先生……私のこと……嫌いですか？」

　三年生の中で一番人気がある女子生徒だ。

朝日美月。すでに完成された肉体が俺のことを誘う。

清純そうな黒髪ポニーテール。目元にアイラインが引かれ涙袋が幼さを含んでいる。

コミュニケーション能力が抜群で愛嬌も良いし成績も優秀だ。

それらがあることによって真面目な生徒として教師たちから扱われていた。

顔面と肉体の差異が俺を欲情の海面……ど真ん中に立たせる。

ロッカーを背後に従えた美月が俺の首元に細い腕を回していた。

膨らみの上にある花の形をしたネックレスが、とても高貴なものに感じる。

たまらない……この香り……その潤んだ表情に唇から覗かせるピンク色の舌先。

「おま……お前……俺はきょ、教師だぞ」

「でも……先生。私は……先生のこと」

　準備室は俺のパラダイスだ。

そこに天使がやってきて俺を欲している。天国は……ここにあったのだ。

父さん、母さん。二人が教師の背中を見せてくれたおかげで今の俺は存在している。

――俺を教師にしてくれて……ありがとう。教師は天職だよ。

　手は自然と美月の柔らかい太腿を撫でる。これは無意識だ。意識していないのだ。

青と黒のチェック柄のスカートを持ち上げる。新鮮な果実を覆い隠す桃色の布があった。

早熟で淡い果実を拝むために布の伸縮部分に指をかけた時だ。

「――先生、それは……まずいですよ」

　振り返ると扉の前に長い髪をかきあげる男子生徒が立っていた。

軽音楽部を作るから顧問になってくれと頼んできた男だ。

――な、なんで……。

――実直に！　毅然と！　断った……！　なぜ……なぜ、ここにいる！

　手に持ったスマートフォンの丸いレンズが向けられている。

――待て……待て……待て。待て……！

「先生。未成年……生徒に手を出したらまずいですよ。

大人はもちろんですけど、教師がそんなことするなんて……ね」

「な……なにを言って……るんだ。ご、誤解するなよ。大体――」

　震える唇が乾いてしまったところで背後から甲高い女の叫び声が上がった。

「わ……私……無理矢理……先生に……」

「ご、誤解だ……！　誤解なんだよ……！」

「――証拠映像は最初からありますよ」

「え、は……？」

　冷汗？　脂汗？　複雑に入り乱れた感情の液体が身体を滑り落ちていく。

口内の水分も毛穴に奪われ消えていた。

――終わりだ……。やるか……。やるか……？　や、やれるのか……？

やらないと……俺のパ、パラダイスが……。

　こいつは多数の生徒から人望もあるようだ。

顔が良いから女子生徒からの人気も高い。

不良のくせに成績も人当たりも良いから教師たちに嫌われていない。

――俺とこいつ……！　どちらに分がある？

俺は俯瞰で物事を判断する……！　どっちなんだ……！　分はどっちに……！

「――先生……交渉しませんか？」

――交渉……だと？　どうする？　何の交渉だ？

金か……？　金なのか？　金……なのか？

無理だ……。金は……無理だ……。

　給料とボーナスは女の子を買うために湯水のように使っている。

貯金なんて一切ない。借金までしている。その上、公務員という肩書きで闇金からだ。

――この苦労が若造で男前のお前……！　お前に……わかるものか！

このクソが……！　このクソ野郎が……！　最底辺のゴミクズ野郎が……！

「この映像を消去するので軽音楽部の顧問になってくださいよ」

「は……？　こ……顧問？」

「そうです。顧問がいないと部活にできない。

それ以外は……なにもいらないです。どうです、悪い話ではないでしょう？」

　スマートフォンを下ろした男は俺に優しく微笑んだ。

その笑顔で何人もの女子生徒から好かれている？　天使のような……笑顔。

――いや……違う！　違う！　こいつ……こいつは悪魔だ！　堕天使だ……！

「わ……わかった……好きにしろ。こ……顧問はやってやる。

軽音楽部の顧問をやってやる。映像は今すぐ俺の前で消去しろ」

「はい、交渉成立ですね。じゃあ、見ててください、ゴミ箱からも消去するので」

　その瞬間だった。天空から降りてきた純粋な天使が俺の耳元で囁く。

神からの優しい、優しい言葉を伝えてくれる。

「いや……待て。ちょっと……待ってくれ。それは動画なんだよな？」

「動画ですよ。写真だと場面を切り取らないといけないので」

「そうか……。もちろん足とか映ってるんだろ？

その動画、消す前に俺に送ってくれないか？」

「――死ねよ！　この変態！」

　背後から美月に蹴り飛ばされた俺は男に抱きついてしまった。

肩を優しく掴まれ再び微笑んでいる。俺を見下している目だ。

――このウジ虫野郎が……！　ゴミカスが……！

　俺は準備室から出ていく二人の背中を見送った。

　過去を振り返った後で素晴らしく甘いコーヒーを口に含む。

寄り添い合い出ていく二人の背中を久しぶりに思い出した。

あいつらが付き合っていると知ったのは、しばらく経ってからのことだった。

――許さない……！　許せない……ぞ！

この怒りは……今すぐに鎮めなければ！　今すぐに……！　今すぐに……だ！

　準備室の扉を施錠する。同じ轍は踏まない。

鍵を付けたロッカーから青いクーラーボックスを取り出す。

その中から白い袋を取り出し目当ての戦利品を手で持つ。女子トイレで回収した物だ。

美月を思い出したせいで下半身には充分すぎるほどの濁流がある。

鼻に押し当てる物は鈍い鉄の香りと微生物の匂いを融合させていた。

芳醇な香りが鼻腔と欲望を刺激する。

――ああ……！　たまらない！　ああ……！

　戦利品を廃棄した者たちの映像をモニターに映し出す。

人と物の照合はできないが……問題ない。完全な特定に至らないことも醍醐味だ。

右手の動きは定期的な動きをしたかとおもえば不規則に動く。

高速にしたり悠長に緩急をつけたりする。あいつらのやる音楽と同じだ。

　山の頂に登るのは難しくない。

「ふう……」

　新鮮な果実から生まれた品に俺から生まれた種をぶちまけてやる。

これだ。これだから教師は天職なのだ。　

　窓から見る夕焼けは……とても綺麗だった。