波浪と動向 8
「これがドラムっすか……かっけえっすね!」
ドラムを練習しているという話は?と、困惑の目を向けた。
その視線など気にしないで再び詩織さんと大きく伸ばした手を衝突させている。
「じゃあ……私はこれで。練習がんばってね」
背中を向ける美波の茶色い髪が静かに揺れた。
「ああ。ありが……とう」
遠ざかる背中を見送る。鼻腔から空気を吸い込むと胸の辺りが掴まれる感覚になった。
「失礼します」
と、室岡に挨拶をしていく彼女の声が微かに聞こえる。
誰に寄りかかることもない声の主を追いかけた。
「なあ……美波!」
「――なに?」
「あのさ……美波もバンドやらない?」
「え……どうして、私が?」
「うまく言えないんだけど……さ。
つらいとき……音楽をやったら、少しは気が楽になるかなって」
「え……別に……つらくない、よ」
「これ以上やることが増えて負担になるのはわかっているけど……。
一緒にバンドやらない?」
彼女は目を何度も動かして、ゆっくりと顔を下に向けていく。
「どうして?」
「どうしてって……。音楽って誰かとやったほうが楽しいかなって」
「いいの? 私がメンバーに入っても」
「騒がしい二人がいるから美波が入ったら落ち着くよ。
それに美波ってピアノ弾けるじゃん」
中学校時代、彼女はクラス対抗の合唱コンクールで、三年間ピアノの伴奏をしていた。
当時の俺は合唱なんて格好悪いと言って、歌わないことを美波に咎められた。
今にして思えば歌わないことのほうがずいぶんと格好悪い。
「あの部屋にキーボードがあったから。経験者の美波がいるなら演奏の幅も広がるし」
「みんながいいなら……。でも、いいの? 私が入っても。
――いいのかな?」
問いかける先は俺の目ではない。背後に移動する彼女の視線を追った。
「うわっ!」
と、おもわず声をあげる。
肩越しに気配を殺している凛花がいた。
いつの間に来たのだろうか……実際の戦闘であったら間違いなく命を取られている。
「あ……私……」
「凛花ちゃんは、どう?」
「私は……えっと……はい……一緒に」
「じゃあ、決まり。五人目のメンバーはキーボードで」
「どういう曲をやるの?」
「詳しくは決まってないんだけど、とりあえず練習曲ってことで――」
スマートフォンから詩織さんが指定した課題曲を聴かせバンド名と曲名を伝える。
眉間に皺を寄せて微動だにしない美波。日々の生活では聴かない選択をするだろう。
彼女が日々聴く音楽を尋ねる。
カントリーミュージックの歌姫、日本のアイドル、クラシック音楽などの名が挙がった。
パンクに耐性のない彼女に聴かせるには酷だったかもしれない。
「――原曲には鍵盤がないからアレンジすればいいのね」
「うん、忙しいと思うけど……二日後に合わせる予定があるんだ」
「わかった。やってみるけど……一つ聞かせてほしい」
「なに?」
「あの人は……誰なの? 水を差すようで言えなかったけど生徒じゃないでしょ?」
「ああ……ボーカルの詩織さん。俺が頼んだんだ。やっぱりまずい?」
「そう……。原則として部外者は文化祭の催し物に参加できないよ。
文化祭を観覧にくる一般人とは違うから」
「ライブ当日に一般人が勝手に紛れ込んで歌いました、っていう体だったら?」
「一種の暴動と捉えられる。そうなったら木崎先生にライブを中止させられるよ」
俺は首を捻って瞼を閉じる。
木崎に話したところで認めてくれるはずがない。
思案している俺に美波が言った言葉は、真面目な一面からは想像できないものだった。
「事情はよくわからないけどさ。みんなでやりたいんでしょ?
人に迷惑をかけたり傷つけることはよくないけど。
彼女が出たところで誰も傷つかない。
ルールから逸脱していても……多少はいいんじゃない?」
「大丈夫ってこと?」
「――嘘は身を滅ぼすけどね」
「怖いこと言うなよ」
「馬の被り物をして出演するなら大丈夫よ」
空中に落ちた髪の束を拾い上げて、耳に引っ掛ける美波の頬が緩んだ気がした。
彼女が笑っているところを最近見たことがない。
同じクラスで過ごす俺は気がかりであった。
生徒会室へ戻っていく足取りは彼女にとって軽いものになっただろうか。
部室に戻ると詩織さんと悠馬がドラムスティックを重ね引っ張り合っている。
リレーに使うバトンを低学年の小学生が奪い合っているように見えた。
「離せー! 変態垂れ目小僧! 離せー!」
「俺がやるんすよ! ドラムは……! 俺の担当っす!」
「私も叩きたいー! アクリルドラム……珍しいからー!」
「姉さん……! 俺が先にやるんすよ!」
両足を床に押し付け踏ん張っている二人の叫び声が部室内に反響している。
しかし、それは短い時間だった。
踏ん張って後方に下げていた詩織さんの右足が腰の高さまで上がる。
後ろから「あ……」と、凛花の小さい声。
悠馬の両足の間に詩織さんの細い足が食い込んだ。
同時に悠馬の身体は床に向かい溶けていく。
彼の口から出た悲痛な声と粘度の高い液体が小さい小さい水溜まりを作った。
「ふふん。早く貸さないからだよー! 小僧!」
と、戦国武将が敵の大将を討ち取ったようにドラムスティックを掲げている。
「あの……詩織さん、悠馬――」
美波もメンバーとして加入したことを告げると二人とも喜んでいた。
特に喜んだ悠馬の目からは痛みを含んだ雫が垂れている。
真夏にも関わらず背筋が寒くなった。
彼の肩に優しく手を置き腰の辺りを手で叩いたり揺らしてあげる。
詩織さんはドラムスローンに座り軽快にドラムを叩き始めた。
悠馬がみせる苦悶の表情の中で心地良いビートが室内を満たしていく。
軽めに叩いているのだろうが、狭い室内で響く太鼓の音は少しばかりうるさかった。




