波浪と動向 3
ルールを守っている愛煙家が聞いたら激昂するだろう。
肩身を狭くしたのはお前だ、と。もちろん、嫌煙家も非難するはずだ。
詩織さんから貰った飲料を口に含むと、甘さが口内を縦横無尽に走り回る。
年齢を重ねた人が口にすれば恐怖に陥る味だ。
俺たちは無言のままで飲料を流しては空を見上げたりしている。
「あのさ……」
「あの……」
二人が同時に口を開き目を合わせた。
「いいよー、先に言って」
「――お願いしたいことがあって……」
「なーに? ちょっと……ちょっと待って……もしかして……!」
「違いますから」
卑猥な言葉で冷やかされることは前回の邂逅した際に知っている。
「えー、まだ言ってないのにー」
「――バンドやるんです、文化祭で」
「文化祭でバンド?」
「はい。ボーカルを探していて……」
軽風の中で言葉を続ける。
「歌ってくれませんか?」
「え……私が?」
「はい」
「…………。無理だよ」
「どうして……ですか?」
「どうしてって……」
「みんなに聴いてもらいたいです。あなたの歌声を……聴いてもらいたいんです」
「私……そんな大した人間じゃないよ」
「――怖いんですか?」
「え……うん。怖いのかな……」
「俺が隣でギターを弾くから……歌ってほしいです。この間は歌えたじゃないですか」
「ちょっと、ちょっとー、愛の告白?
お前の隣でギターを弾いてやるなんて言われたら好きになっちゃうよ!」
冗談を言う詩織さんに対し、俺は微笑も浮かべず苦笑すらしなかった。
「――そっか……本気なんだね」
青空をしばらく眺めた詩織さんは、視線を緩徐に下ろしてくる。
何かを決意するように目を暗闇の中に隠していた。
彼女の心の置場が多少なりとも整理されたのか、青い目が再び光を受け入れる。
「うん……わかった。いいよ、ボーカルやる」
「ありがとうございます」
「メンバーは揃っているの?」
「ドラムとベースがいます。
演奏は見たことないですけど、ベースの子は……。
俺の予想が合っていれば、そうとう弾けます」
「そうなんだー。リズム隊は大事だからねー」
「明日、学校に来れますか?」
「明日? うん、行けるよ。なんていう学校?」
「穴来高校です」
「あなき……? アナーキー! パンクな名前だねー!」
握り拳を高く上げている。
アナーキー。無秩序。
俺が通う高校は県内でも有数の進学校であるから無秩序とは縁がない。
美波のように日本で一番の大学を狙う者も多数いる。
そして……悠馬が入学できたことが不思議であった。
一昨日、彼が学年で最下位であると知る。
久しぶりに会った彼の母親から愚痴をこぼされたからだ。
彼の両親は女の子の凛花が来たことをとても喜んでいた。
困惑して焦ったからか、彼女は生のお好み焼きを小さい口に運んでいた。
「なにをやるの?」
「まだ、決まっていないんです」
「へー、そうなんだー。ま、やったらなんでも楽しいから関係ないよ」
詩織さんが歌う決意をしてくれてよかった。彼女の歌声を多くの人に聴いてほしい。
それは本心だ。
彼女が歌うことを躊躇っていても自身の行動は間違っていないと擁護する。
先日の彼女の歌声は美しかった。
そう……とても美しかった。
*
次の日、教室のベランダから外を眺め少しばかり後悔していた。
詩織さんは迷うことなく学校に辿り着けるだろうか。
昨日の夜、凛花と悠馬に今日も学校に来てほしいと連絡した。
隣には凛花の姿だけがある。
敷地内には背の高い樹木や綺麗に刈り上げられた背の低い丸っとした緑が並ぶ。
葉の囁きが大地の囁きと混ざり合っていく。
「そろそろ……来ると思うんだけど」
「あ……。あ、あの人……。あれは……人ですか?」
凛花の質問が俺にも理解できる。
ピンク色のサンダル、下は黒いジャージに上は真っ白なTシャツ。
詩織さんのオーソドックスな服装といえる。奇妙であるのは首から上だ。
馬。馬の被り物をしている。大きな目玉は焦点を合わせない。
ゆらゆらと動いている動作が不気味だ。
開門している正面からではなく、西門と呼ばれるところに立っている。
完全に不審者だ。西門は閉ざされているが、門に足をかけ軽々と飛び越えてくる。
その様子を見て、すぐに階下へ走っていく。背後から追いかけてくる足音がした。
昇降口には二足歩行の馬がいて、前足にあたる部分を高々と上げている。
「よっ! お待たせー、来たよっ!」
「どうして馬の被り物を?」
「このご時世、不審者にならないための配慮だよ……!」
「逆に不審すぎますよ。目立つし……」
「そうかなー。あれっ!? その子がメンバー?」
俺の背後に隠れていた凛花へ近付く。
馬の細かな造形に恐れているのか、凛花は人見知りの幼い子のように身を小さくした。
「女子高生かわいいー」と、馬は抱きつく。
目の再現度が高すぎて不気味さが際立っている。
実際の馬よりも作られた目は邪悪な感じがした。
「ひっ……」
と、凛花は小さく声を漏らし身体を離そうとした。
執拗に迫る馬に恐怖を感じているのだろう。
「やめてください。怖がってますから」
「えー、だって体柔らかいよー。すごい気持ちいいんだもん」
「不審者……変質者の発言ですよ。一発で事案です」
押し問答を繰り返していると悠馬が昇降口に入ってきた。
「あ……? う、馬? 馬っすか?」
と、普段から調子の良い彼も半歩後ろに下がった。
「おっす! 馬だよー! 我は種馬になれない馬だよー!」
「お、女の人? 優詩先輩、ボーカルって……その馬っすか?
残念すけど馬には歌えないっすよー」
「馬、馬うるせーよ! この……垂れ目小僧!」
怒声が昇降口に響いた。
「ちょっと……なんすか! なんなんすか! この馬は! 馬つうか馬鹿っすよ!」
「垂れ目の変態野郎……! 女体をジロジロ見てんじゃねーよ!」
「見てねーし! 見てねーし! 大体、馬の身体なんて見ても嬉しくねーんだよ!」




