波浪と動向 2
「な……なんだよ、外村。お前まで……なにしてんだ?
三年の夏休みだろ? 勉強しろよ……勉強……」
「ちょっと用事があって。先生もこんなところで、なにをやっているんですか?」
「俺は……お前……色々、色々あるんだぞ。きょ……教師だからな」
身体に落ち着きがない。
怒られることを恐れた小学生のように目が泳いでいる。
夏の暑さから生まれたものとは違う脂汗が彼の顔を覆っていた。
黒目を何度も移動させ呼吸も浅いように感じる。
凛花と俺を押し退け曲がり角へ向かった。
「うわっ……! 邪魔だな、どけよ!」
と、悠馬に対する怒声が聞こえた。
都合の悪いことを見られた懸念と疑心が彼の心を満たしているに違いない。
「優詩先輩、行かせてよかったんすか?」
「ああ、でも……これは使えるかも」
「今、顧問のこと言ったほうがよかったんじゃないっすか?」
「焦らなくてもいいかなって」
「そうすっかねー」
「――凛花ちゃん、頼み事があるんだけど……いいかな?」
女子トイレに入り確認してほしいことを頼んだ。
予想していたものが出てくれば室岡の教師生命を断つこともできる。
顧問をさせることの材料にも使えるはずだ。
使い道は様々だろう。
俺の行動には一種の『悪意』があるかもしれない。
しかし、大人の発する立場を利用した悪に立ち向かうには毒も悪も必要だ。
「あ、あの……これ……ありました」
凛花の手には黒い塊が乗っている。
受験生が願をかけるチョコレート菓子より小さい。
個室トイレの上方に置かれていたようだ。
便座に上って回収したらしいが、確かに人間は上方向へ目を向けることは多くない。
「やっぱり……な。これは凛花ちゃんが預かってくれる?」
「はいっす! はいっす! 俺が預かるっす!」
手を上げてアピールする悠馬を一瞥した。
「悠馬は……ダメ」
「えー、マジっすかー」
「わ、わかり……ました」
室岡の行動は教師以前の問題である。
人として恥ずべき行動を恥ずかしげもなくしてしまう人間。
彼が手に持っていた袋には、己の欲望を満たすための物が入っていたはずだ。
吐き気がするほどに気持ち悪い。
「――ちなみに中身は空だった?」
「あ……はい。全部の……個室……見ましたけど……空でした」
「やっぱり……室岡は真っ黒なのかな」
少なくとも教師という立場である彼に対し軽蔑した。
確定的な現場を押さえたわけではない。清掃の人が回収した可能性もある。
「とりあえず……明後日、ある人にボーカルを頼んでみるから。今日は解散するか」
「そうっすか。あー、今から飯食べに来ないっすか?
うちの親に優詩先輩と会うって言ったら、久しぶりに会いたいっていうんすよー」
「そういえば……全然、食べに行っていないか」
中学生時代に悪友二人と通っていた、悠馬の家が経営する居酒屋を思い出す。
居酒屋といっても昼間は定食屋やら鉄板焼きなどをしている店だ。
中学生だった当時も頻繁に出入りしていた。
「ああ、じゃあ行こうかな」
「いやー、先輩と食えるの久しぶりっすね!」
「あ……あの……じゃあ……私は……これで」
立ち去ろうとする凛花の背中に悠馬が声をかけた。
「いや、いや、お前も来いよ」
「え……で、でも……私……」
凛花は少しばかり首を動かしただけで、こちらを振り向かなかった。
「あ? なんだよ? お前、また一人で飯食うの? 家とかも一人なの?」
「め……め、迷惑……私が……いたら」
「迷惑じゃないよ。悠馬も凛花ちゃんと話したいんだってさ」
「ちょっとー、優詩先輩! そんなんじゃないっすよ! 別に話したくないっすよ!
バンドメンバーとして輪を乱す奴が許せないだけっすよー」
「――嫌じゃなかったら、一緒に行こうよ」
「い、嫌……嫌じゃないです」
三人で歩く夏の下は爽やかで大切な夏の思い出になるような気がした。
高校生活における夏休み。
悠馬と凛花には来年も残されているけれど俺には……この夏しかない。
どこか寂しくて……尊い感じがした。
*
今日の公園は誰一人としていない。蝉の声だけが周囲を包み込んでいる。
公園で何時に待ち合わせ、という言葉は交わしていない。
いつ来るかわからない。来ないかもしれない。
そのような不安を抱いて、耳に取り付けたイヤホンから音楽を身体に染み渡らせる。
詩織さんと奏でた楽曲を繰り返し聴いた。
垂らした頭は地面に吸い込まれ目を閉じていると楽曲の世界観に溺れてしまう。
頭部に柔らかい衝撃が伝わって現実世界へ引き戻された。一人の女性が目の前にいる。
詩織さん。
彼女は屈んだ態勢で小さく手を上げた。
「よっ! 少年、元気ー?」
「ええ……どうも」
「寂しくなかったー? 一週間ぶりだね……!」
「寂しくは……なかったですね」
「えー? 私は寂しかったよー? 会いたかったよー?」
男心をくすぐるような眼差しで顔を覗き込まれる。
「時間、言わなかったからさ……困っちゃったよ」
「そうですね」
「でも……あれだね。そっちのほうが切なくていいかもねー。
昔って……そうだったんじゃないかな?」
「昔ですか……?」
「だって、私たちが生まれる前って簡単に連絡する手段がなかったでしょ?
待ち合わせ場所と時間だけを事前に伝える。
遅れたりとか……なにかあっても相手に伝える手段がないじゃん。
会えなかった人もいるよね、きっと」
「確かに……そうですね」
「じゃあ、また巡り会えた奇跡に乾杯しよっか!」
白い袋から銀色に黒字のビールを取り出した。
「優詩くんは、お酒だーめ。未成年は法律により禁止されています!」
と、見かけることの少ない、ピンク色の果実が描かれた甘い飲料を渡される。
詩織さんは一人の声で「かんぱーい!」と、勢いよく缶同士をぶつける。
冷えたビールは側面に汗を滴らせて、中身は白く細い喉を通過していく。
一呼吸吐き出した後で煙草に火をつけている。
煙草と酒を嗜んでいても、あの歌声が出るのだから天賦の才としかいえない。
「あっ……ごめん。煙たかった?」
「いえ、別に」
「最近は、どこも吸えなくなったからさー。路上喫煙できないしー」
「多分ですけど……ここの公園も禁煙ですよ」
「え? そうなの……? まあ……いいや。
誰もいないところで吸っても迷惑にならないし」




