あの道の猫
あの道を通るのが苦痛だった。
きみを喪った日からずっと。バス停そばの小さな公園の、きみがいつも文庫本を読みながら僕を待っていた、ペンキのはげた白いベンチ。からっぽのそれを見るたびに、きみの声と笑顔が浮かんで、胸のかさぶたが内側からはり裂け血がにじむ。
でも最寄り駅への道はそこだけだから、かさぶたは毎日のように裂けていつまでも治らずに、じくじくと痛みを溜め込むばかりだった。いつの日か、そこから僕の心は腐り落ちてしまうんだろうなと、そんなことを他人事みたいに考えていた。
その朝も、いつものように公園の前に差し掛かった僕の視線は、見たくもないのにベンチに吸い寄せられてしまう。
そこに、きみの代わりに「きみ」はいた。ペンキのはげた白いベンチの上に、やわらかそうなキジトラの毛並みで、やさしい春の朝日の中に丸くなっていた。
不思議だった。ベンチがからっぽじゃない、ただそれだけのことなのに、胸のかさぶたは、かすかに疼いたけど、裂けて血がにじむことはなかった。
それから、きみはときどきそこで丸くなっていた。帰り道、街灯のあかりの中でそうしていることもあった。いちどだけ近付いてみたけれど、きみはこっちをじろりと見つめて、走り去っていった。
やがてきみがいない日でも、ベンチはからっぽではなく、ただきみという主が不在のベンチだと思えるようになっていた。僕の胸のかさぶたは疼くこともなくなって、だんだん乾いていった。
──ある日、ベンチが公園から撤去された。
それからきみの姿を見かけることもなくなって、誰も使わない公園は、ほどなくコインパーキングに生まれ変わった。寂しい気持ちはあったけど、それだけだった。かさぶたが、いつの間にかぽろりと剥がれ落ちていたことに気付いた。
そしてまた春がやってきた。今日も、あの道をすこし疲れた足取りで帰る僕は、コインパーキング前で視線を感じて立ち止まる。
にゃー。
街灯のあかりの中、「きみ」をひと回り小さくしたようなキジトラの仔猫が、僕を見ていた。
「うち、来る?」
仔猫は何も応えず暗がりの中に去っていったけど、僕の足取りは、すこしだけ軽くなっていた。