神楽池の巫女
初投稿になります。
東京都北丘内市にある神楽池。ベッドタウンに似つかわしくない鬱蒼とした林の中にあり、まるで外界と隔絶されたようなその泉には、とある伝承がある。
地上が飢饉と天災に見舞われたとき、巫女の祈りによって植物が実り、傷ついた土地が元のように戻った、というものだ。
泉の水源である湧き水の上には、その伝承を祀る祠がある。そして祠の中にある一畳ほどの空間には……今、1人の少女が眠っていた。
少女「うーん。ここは……?」
少女は目を覚ますと、明らかに記憶のないその空間を見回して困惑した。正面に障子、天面には鏡が取り付けられているその空間の異質さも理由の1つだが、彼女には鏡に映った……彼女自身の姿に見覚えがなかったからだ。
少女「誰?」
その口の動きが自身の動きとリンクしていると理解した時、寝ぼけていた少女はそれが鏡であると気付いたのだった。
少女「これが、俺……?」
白いワンピースを着たその少女はそう呟くと、ひとまず鏡で自身の姿を観察する。顔はやや童顔だがそこそこ整っている。髪は軽く結び癖がついていて、肩まで伸びている。体型はかなり細いが、あまり違和感がないのか反応は薄い。
彼女は続けてその身体を触り、自身が見知らぬ少女になっていることを確信する。成長途中のその身体はあまり大人びていなかったので、彼女が女性になっているという実感はその行動によって初めて得られたのだった。
――そして彼女は再び困惑した。この後自分はどんな行動を取ればいいのか、と。
その時、ワンピースのポケットに入ったスマホが振動した。少女がスマホを取り出すと、親指がホームボタンに触れて指紋認証が作動し、画面のロックが解除されてしまう。
少女「あ、見ない方がいいかな……。」
少女は一瞬躊躇ったが、送られてきたメッセージの1行目を見て、それが自分宛であることに気が付いた。都合のいいタイミングで送られてきたことから、彼女が『今知るべきことについて書かれているのだろう』と予想して読んだそのメッセージには、今の彼女の状態と今後の行動についてのアドバイスが書かれていた。
――今は、最後の記憶の時点の約4年前にあたる2016年であること。少女の身体は15歳の中学3年生であり、元の持ち主が手放して彼女に授けられたということ。姓を都築といい北丘内に住んでいるが、自身で名を付け新たな人生を歩んでよいということ。その正確な住所や少女の現状など――事細かに書いてあった。
そして最後に……『もしこの意図が知りたければ、多摩北高校に進学し、黒幕の元へ辿り着くがいい』と記してあった。
少女「身体を手放すってどういうこと?まさか……いや、こうしてここにあるんだからそれはないか。――で、黒幕の意図、ね……。別に興味はないかな。」
少女は一考した後にそう呟くと、障子を開けて祠を出た。祠の外に揃えて置いてあった靴を履くと、そのまま泉の横を通って少女の家に向かって歩き出した。
――そして林の陰からそれを眺めていた黒いワンピースの少女は、彼女が家の方角へ向かっていることを確認すると、安堵の笑みを浮かべてその場を去るのだった。
神楽池の水は近くを流れる水無川に流れ込んでいる。水無川は北西にある丘内湖から市の南部を通って北東に流れており、少女は水無川の遊歩道を遡るように歩いていた。
4月上旬の昼下がりということもあり、まだ学期が始まっていない小学生くらいの子供たちが近くの公園で遊んでいる。白いワンピースで遊歩道を歩く少女は、本人の想像より風景に溶け込んでおり、その姿を不審に思う通行人はいないようだ。
少女は歩きながら思考を巡らせていた。先ほどのメッセージにより大まかに状況を把握することができたが、その背景や意図は読み取れなかった。そもそも黒幕自身が『意図を知りたいなら多摩北高校に進学しろ』と言っているのだから、少なくとも黒幕は彼女が中学生であるこの先1年間、その意図を知る必要性はないと思っているのだろう。
少女の身体のことについてやこれからの生活に必要な情報、例えばアレルギーや生活環境については記してあったが、身体の持ち主の性格や人間関係などは全く触れられていなかった。『手放す』という表現を使っていたことを考えると、その人に対して配慮することなく新しい人生を進めていいということなのだろう。
少女は一通り考察を終えると、この考察が間違っている可能性も考慮し、ひとまず『この身体を預かってその人に恥じない生活をしよう』という結論を出した。
少女はとっくに住宅街に入っており、ふと顔を上げると、そこにはもう目指していた一軒家が見えていた。
少女がインターホンを鳴らすと、家主は「はい」とだけ返事をして玄関の鍵を開ける。手前に開かれたその扉の奥から出てきた家主は、彼女の想像より若い、30代くらいの女性であった。
家主は少女の白いワンピースを見て何かを確信したような表情をし、「おかえり……さ、上がって?」と言った。少女はその言葉の違和感で状況を大まかに理解すると、「ただいま」と返しながら家に入り、扉を閉めてから「お邪魔します」と言った。
家主は少女を洗面所に案内すると、自分は飲み物を用意するためキッチンに向かった。さながら来客へのもてなしである。
ただ、どうやら『信頼関係ができていないから』というわけでもないようで、『まず他人として話をする必要性がある』と考えているのだろう。
少女は家主に促されて向かい合うように席に着く。家主はミルクティーに口をつけながら、ブラックコーヒーを見つめて固まっている少女を観察する。少女がミルクと砂糖を見て迷ったような表情を見せ、どちらにも手をつけずにブラックのまま一口飲んだのを見届けてから、家主はおもむろに口を開いた。
家主「初めまして。私はある人からあなたの世話を任された、都築美弥乃。よろしくね。」
少女「えっと、初めまして。お……私は――。」
そこまで言いかけて、少女は今の自分には名前がないことを思い出した。
家主――もとい美弥乃はそのことを察して、話を進める。
美弥乃「話はだいたい聞いてるよ、まずは名前を決めようか。名前の候補は考えてある?」
少女「そうですね……」
どっちつかずな返事をしたのち、少女は俯いて数分の間じっくり悩むと、やや躊躇いながら「さな、とか……?」と呟いた。
美弥乃「さな、ね。いいんじゃない?漢字はわたしが考えてあげるよ。――もちろんあなたが良ければだけど。」
少女「……じゃあ、お願いします。」
美弥乃はスマホで漢字の候補をざっと調べると、その画面を彼女に見せた。
美弥乃「これなんかどうかな。『紗奈』、いい字じゃない?」
少女「そうですね。……ありがとうございます。」
少女――もとい紗奈は緊張して少し冷たい返事をしてしまっているが、内心自分と同じセンスだったことに安堵しているのだった。
その後、美弥乃と紗奈は黒幕からの情報も交えながら、お互いのこと、共同生活のルール、学校のことなど様々なことについて話をしていた。
美弥乃は紗奈と血のつながった親子であるものの、元は紗奈の身体の持ち主やその家族とは関係のない人物だそうだ。
黒幕とは紗奈と同様メッセージを通じてやり取りしたのみで、その素性は知らないという。紗奈の中で美弥乃は黒幕の第一候補だったが、ひとまず母親として信頼できる人物だと感じていた。
美弥乃は紗奈より一足早く新しい人生を歩んでいるようで、もう生活基盤は整っているそうだ。家は元の身体の持ち主とその家族が住んでいたそのもののようで、綺麗に片付いてはいたものの私物は残っているらしい。
黒幕のメッセージにも家の荷物は私物として好きに扱っていいと書いてあった上、服や家具を揃えるのはコストがかかる。2人は熟考したのち、使えるものは使うという意見で一致した。
数時間の話し合いによりおおよそのルールや共通認識は決まった。紗奈は少し残っていたコーヒーを飲み干すと、新たな人生に向けて気合を入れるのだった。
美弥乃「ところで紗奈ちゃん――世間的には実の母親だし、紗奈でいっか。紗奈、母親として色々教えたいこともあるし、部屋に行きましょ。」
紗奈「えっ?あ、はい――じゃなくて、う、うん……。」
戸惑いながら部屋に連れて行かれた紗奈は、自室を確認する間もなく色々、そう色々と教え込まれるのだった。
生活基盤を整えた紗奈、次回から中学校に通います。
人物紹介(家族)ー都築美弥乃
都築紗奈と血縁関係にある、事実上の母親。元は黒幕と関係のない人物で、普通の生活を送っていたが、とある理由により都築家のシングルマザーとして転生することになる。紗奈とは互いに里親、里子のようだと思っており、『母と娘』より『叔母と姪』の距離感に近い。仕事はテレワークのため概ね家にいる。好きなものは紅茶で、快活な性格をしている。