11話
やってしまった。
初めての時、怖いとか痛いとか言って途中でやめさせる女はモテないと聞いたことがある。
ただ男の人も男の人で、そうはさせじと事前に練習したり気を遣ったりすると、聞いたことはある。
実際のところは知らない。
中学でもそういうことをしている人はいただろうけど、踏み込んだ話ができる相手はいなかった。
保健体育の授業も真面目に聞いていれば悪口を言われる。デブのくせに、とか。勉強したって意味ないのに、とか。ひどい時は「変態に媚び売るつもり?」だ。
それでまともに聞いてこなかったのが仇になったか。
けどまぁ、小中学校の授業で「初めての時は男の人に任せて、自分は天井のシミを数えることに集中しましょう」なんて言うはずもないな。保護者に告げ口されてPTA会合か何かで担当教師が袋叩きに遭うのがオチだ。
詰まるところ、どんなに授業を受けようと本番はいつでもぶっつけ。
そして私は、これ以上ないほどにしくじった。
いや、明瀬もそこまでやるつもりがあったのかは知らないけど。
そもそも女同士だ。男同士ならまだしもやりようはあるだろうけど、女同士はどうなるのか。いくら明瀬の心が男だといっても、ないものはないのだ。
どうあれ、明瀬だって勇気を振り絞ったに決まっている。
その勇気を、不可抗力とはいえ台無しにしてしまった。
お互いに恥ずかしい話をして、勢いと雰囲気に任せて踏み出した一歩を挫かれたのだ。顔を真っ赤にした明瀬が、
「なら、いいよ。私もほら、静那と購買行くつもりで何も買ってないし食べてないから。なんか作るよ。カレーパンだけでも食べたならヘルシーなのがいいんでしょ? 野菜中心で作るから。ていうかもう野菜炒めでいいよね。野菜炒め作ってくるから、そこで待ってて。……気にしなくていいから」
と早口で捲し立て、ダイニングキッチンへと繋がるドアにそそくさと消えていったのも無理からぬことだろう。
これでもっと狭い、学生の一人暮らしに相応しいワンルームだったら幾分か違った。
二人の間に隔たる壁やドアはなく、お互いの空気感は嫌でも伝わってしまうから、おもむろに立ち上がって「皮剥きくらい手伝うよ」と言えただろう。
たった一枚の壁と、そこを結ぶドアが、こんなにも分厚いとは思わなかった。
呆然と、ただソファに座り直して真っ暗なモニターを眺める。
やってしまった。
これで雰囲気がぎこちなくなって、なんだかんだで距離ができて、そのまま自然消滅……なんてことないよね?
不安だった。考えれば考えただけ、そんなことないと断言できない自分を見つけてしまう。
明瀬と過ごす時間は新鮮で、それでいて不思議と心地良く、だからこそ濃密だった。
数えてみれば、明瀬と昼食をともにしたのは一度きりだ。
その一度だけで私は逃げ出し、教室でコンビニパンを齧っていた。だから中庭での出来事は昨日のこと。メイド服の美人と駅で遭遇したのは、そこから丸一日と少し遡っただけ。
明瀬と出会って、まだ三日目なのだ。
なのにデブ山デブ子と呼ばれた小学生時代を明かし、あまつさえ一人暮らしの部屋に上がり込んで、ソファの上で…………。
それに、そう、キスもしてしまった。
まだ一時間も経っていないだろう。思い出すだけで唇が熱くなるような、しかし同時に、寂しさを覚えてしまうような。
今からドアを開け、もう一回してと言ったら明瀬は応じてくれるだろうか?
ドキドキと鼓動が早まる。
嬉しいばかりじゃなかった。楽しいばかりじゃなかった。苦しく、そして苦い。一人でいたら動じない心が、ただドア一枚隔てたところに明瀬がいるというだけで自分のものじゃないみたいに暴れ回る。
怖かった。
何が怖いのかも漠然としたまま、だけど怖いものは怖い。
気付いたらスマホを両手で握り込んでいた。最早お守りに等しい。
癖で掲示板を開こうかと指を伸ばし、息が詰まる。昨日……じゃない、もう一昨日だ。あの三馬鹿のやり取りに辟易して、ついでにメイド服やMEOでのことがあって、あれから一度も開いていない。
もしかしたら悪口を言われているかもしれない。
反射的に考えてしまい、そこで初めて本心を見つける。
「……?」
思い描いた恐怖心は、あまりなかった。
そう、あまりだ。
少しはある。
だけど、そこまで怖くはなかった。
幸か不幸か仲良し女子グループの輪に入れず、外から見てきた経験がある。女は怖い、と誰かが言った。怖いのは女だけじゃない。男の人も同じだ。つまり人間は怖い。
昨日の敵は今日の友?
だとしたら、今日の友は明日の敵かもしれない。
あんなに仲良く話していたのに、一緒になって陰口を叩いていたのに、その陰口を理由にあの子は性格が悪い、信用できないと他の人たちと陰口を言い合い、笑い合う。醜悪で、残酷な世界だ。
私だって同じだろう。
小中とそういうグループとは距離があったけど、同じ人間には違いない。
もし今、掲示板で私の陰口を言い合っていたら……。そう考えるだけで腹の底が重くなり、でもあなたたちだって――、と言われてもいない悪口に叫び返したくなってしまう。
同じだ。
私も所詮、同じ穴の狢である。
気付いてしまえば、あまり怖がることもないように思えた。だって私だ。私に怯えるのなんて、それこそ暗がりから出てきたところで鉢合わせてしまった野良猫くらいだろう。ビクリと身を震わせ、瞬間的に加速してどこかへと消えていく後ろ姿。
あれを思い出せば、陰口を言い合うどこかの誰かなんて可愛いものだ。
私には、すぐそこにいる明瀬の方が怖い。
明瀬自身ではなく、明瀬と距離ができてしまうのが怖かった。出会って三日。あまりに短すぎる付き合いだ。なのに今や、姿が見えないだけでこんなにも心を冷たくさせる。
「ずるいよ……」
我知らず零した声に我ながら愕然とする。
ずるいってなんだよ、ずるいって。
でも、それが本心だった。
私はドア一枚に、こんなにも怯えている。
だけど、明瀬は?
明瀬はモテそうだ。女同士でもいいって言う女は幾らでもいるだろう。それほどの美人だ。女には困らない。私とぎくしゃくして、ずるずると離れていってしまった時、明瀬は寂しいと、怖いと思ってくれるだろうか?
だから、ずるい。
ひどく醜く、見るに堪えない嫉妬だと自覚はある。
それが余計に神経を逆撫でた。
握り締めたスマホに目を落とし、暗い画面に映った自分の顔をすぐそこに眺める。
明瀬は可愛いと言ってくれた。慰めか、変態的な趣味なのか、あるいは外見的な意味ではなかったのか。そこに映る私は見慣れた、見飽きた、いつもの秋草静那だった。
「でも、いいよ」
虚勢で鼻を鳴らす。
それでも今は、私を好きと言ってくれた。
未来も過去もどうだっていい。今だけでいい。
見たくもない自分の顔を追いやるように、画面をつける。と、レインの画面がすぐに表示された。閉じるのも忘れて、見入っていたらしい。
明瀬のメイド服姿。
綺麗で、可愛い。これが私の彼女……じゃなくて彼氏だ。こんなに誇らしいことがあるか。しかも私のことを好きと、可愛いと言ってくれた。趣味が悪い。でも私を求めてくれた。それだけでいい。
嬉しくなる。
嫌な女だ。……違うな、嫌な人間だ。
こんな私の、どこがいいんだろう。何もかも包み隠さず、いいや隠したかったものも全て知られてしまったはずなのに。
愛おしくて。
こんなことを思う自分自身に薄ら寒さも覚えるけど、けれど愛おしさを抱かずにはいられなかった。
画面の中の明瀬を、そっと撫でてしまう。
現実の私にそうしてくれたように、明瀬の頭を撫でても許されるのだろうか? だって彼女だし。付き合ってるんだし。明瀬は私のお腹を触った。服の下に手を入れて、だ。髪を触り、そっと撫でるくらいは許されなきゃおかしい。
だから、これは予行練習。
明瀬が戻ってきたら謝って、許されるならキスをして、それから頭を撫でよう。
考えただけで楽しくなってきた。
手に力が入る。
触れるつもりのなかった親指が画面に触れ、画像が急に大きくなった。明瀬の胸元がどアップに。違う、そういうつもりじゃなかった。私は女だ。ていうか誰に言い訳してるんだ。
画面を戻そうとするも、慌てた指がまた変な操作をしてしまう。
その時、ふと手が止まった。
次いで意識が固まり、明後日の方向に全速力で逃げ去ろうとしていた思考力が理性と本能の合わせ技で引き留められる。
「……ふむ」
そこには、メイド服姿の明瀬が映っていた。
ということは必然、現実のメタルラックではメイド服に隠されてしまっている部分も、写真の中であれば鮮明に映し出されているわけである。
ゲーム機もPCもカメラもいらない、スマホだけあればいい。
そんな時代になりつつある昨今、一応は携帯電話に分類されるであろうスマホでも、写メなどと呼ばれていた時代とは桁外れの解像度で撮影することが可能となっていた。
明瀬の隣。
そこを大きく大きく拡大していって、それでもなお掠れかけた文字を見つける。
スマホをテーブルに置き、腰を上げるまでに一秒もいらなかった。
メタルラックに掛かったメイド服をモニターの前に移動させ、がら空きになったボディのごとくノーガードのそこを見やる。
本棚だった。
ミニフィギュアが飾られている箇所もそうだが、メタルラックの粗い網目の上にアクリルか何かの透明なシートを敷き、その上に本を並べている。
几帳面なことだ。
しばらく前にアニメ化され、中学の図書館にも並ぶほどだった人気のライトノベルが数冊、ちゃんと巻数の順で並ぶ。その横には古典だろうか、私でも知っている有名タイトルが何冊か。これも一巻から三巻まで、また上巻から下巻と綺麗に並んでいた。
中には巻数を無視して適当に詰める人がいると聞くけど、あれは都市伝説なのだろうか。
そして、もう一つ。
本棚と貸したスペースの下段に、途中から本ではないものが同じように並べられていた。
ゲームソフトのパッケージやCD、そしてDVDだ。
やはり何事も、聞くだけでは信用ならない。
男の人はベッドの下に隠すと聞いたけど、あるいはこれは、そういうビデオではないのだろうか。
『おっぱいハーレム! 女子大生たちに逆――』
ふむ。
これは……ふむふむ。
手に取り、本でいうところの裏表紙を見て、確信と核心に至る。
どうやらアパートの一室で女子会をしていた女子大生が酔っ払い、男子高校生が一人暮らししている隣の部屋に押し掛ける、というシチュエーションから始まる一本のビデオらしい。
はてさて。
ゲームとは特殊な娯楽だ。
小説や映画と違って、ただストーリーを追い掛けるだけではない。そこには自らの操作が必要で、時にストーリーそのものを左右する選択さえもプレイヤーに迫ってくる。
同じ作品の中で全く違う個性を持ったヒロインが登場するのは当たり前で、むしろそうしなければ恋愛ゲームなんかは成り立たないだろう。
なればこそ、逆説的に。
どちらかといえば小説や映画に近い、ビデオという映像作品。
そこに求められるのは幅広い選択肢ではない。
ホラー映画では常に恐怖が襲ってくるように、推理小説では日常パートでさえも謎が散りばめられるように、大人向けのビデオは、大人が満足するに足る大人なそれで満ちている。
そこに余計なものは、いらない。
さて、手にしたパッケージの、そのタイトルを改めて見てみよう。
なるほど、なるほど。
誰が見ても一目瞭然、例えばレンタルビデオ店でざっと眺めていても一発でそれと分かる第一声。
『おっぱいハーレム!』
これが推理小説であれば、お前は推理という言葉を辞書で引いてみろと怒鳴られるだろう。
ダイイングメッセージに犯人の名前をそのまま書いてしまう被害者がいるだろうか、いやいない。
現実とは、どこまでも無情なものだ。
ダイイングメッセージを残すだけの体力や思考力など、死に際の被害者には存在しないだろう。
親元を離れ一人暮らしをする男子高校生には、エッチなビデオをベッドの下などという取り出しにくい場所に仕舞う必要はないのだ。
「……ふぅ」
想像していたより遥かに穏やかな気持ちだった。
視界はクリアで、呼吸も落ち着いている。
耳も冴えているらしく、あんなにも分厚く思えていたダイニングキッチンとを隔てるドアの、向こう側のノブを握る音まで聞き取るほどだった。
ガチャ、と幾分控えめな音を立て、部屋のドアが開けられる。
「あー、そのーさ、静那。……えっと、苦手な野菜とかって」
時が止まった。
ドアから顔を出すなり喋り出していた明瀬の瞳が私の手元を見る。弾かれるように角度を修正。視線が重なる。
時は動き出した。
「違うんだ」
「えぇ、分かっています」
「話をしよう」
「必要ですか?」
「それは親友……じゃない、前の高校のクソ野郎から送ら」
「どうしてですか?」
「――っ」
答え合わせは済んだ。
「素晴らしいご友人をお持ちですね」
「話をしよう」
「必要ですか?」
「それはしんゆ――」
「あ、そういう冗談は結構です」
「君から始めたことだろうっ!?」
明瀬は悲痛に叫んだ。
それで思わず、笑ってしまった。
戸惑い、笑いそうになり、咄嗟に表情筋を引き締め、けれど安堵の息を零す忙しい姿を見せられてしまえば、どんな言葉も意味をなさない。
もうダメだ。私はきっと幸せになるか、不幸せになるか。そのどちらか。
楽しくなるか、苦しくなるか。どちらにせよ、楽で退屈な、そんな平凡な毎日には戻れそうにない。戻りたいとも、思えなくなってしまった。
「話は、あとで聞かせて」
手にしたビデオの女優さんたち。
背が高く、そうでなくともスレンダーで、にもかかわらず胸はやけに大きな女性。
こういうのが明瀬の好みだったのだろうか。でもいい。構わない。それでも私を選んでくれたというなら、……違うかな。違うな。
私は明瀬を信じてしまった。
だからもう、信じ続ける以外に道はない。
「セロリとパセリとズッキーニとゴーヤと他諸々が苦手。でも明瀬の好みでいい」
「静那の好みを知りたい」
「じゃあ、醤油より塩味の方が好き」
ビデオのパッケージが邪魔で、かといって投げ捨てるわけにもいかなくて。
怒ってみせたそれを丁寧にラックに戻すのは格好が付かなかったけど、仕方なく仕舞ってから明瀬の方に向き直った。
「あと、」
言葉に詰まる。
だけど言いたかった。
震える喉を無理やりこじ開けながら。
赤くなる顔を見られたくなくて、半ば転ぶように飛び込んだ。
「明瀬が好き。明瀬だけが好き。だから……」
「だから?」
見切り発車だった。
何も考えてなかった。
浮かんだ言葉が、そのまま声になって出てしまう。
「ずっと一緒にいて」
「ずっとって」
「毎日私にお昼作って!」
「いきなりプロポーズかー」
「お弁当! 料理できるなら! パンだとカロリー大変!」
「我儘だな、あとロマンがない」
知らないよ、ロマンなんて。
一人でいたら転んでしまう私を、明瀬は受け止めてくれた。
ぎゅっと背中を抱き締め、もう片方の手で頭を撫でてくれる。そうだ。思い出した。
「ねっ」
顔を上げ、そんなことをしても可愛くはならないと知りながら、どうしても上目遣いになってしまう目で明瀬を見上げる。
「なに?」
優しげに問いかけ、少し身を離した瞬間を見逃さなかった。
手を伸ばし、明瀬の頭を撫でてみる。
あれ。
こんなこと、前にも一度した気がする。
明瀬はほんの少しだけ驚いたように目を開いて、だけど何も言わずに顔を寄せてきた。
「ん……ッ」
唇が重ねられる。
そうだ。そういえば一度、こんな風に求めたんだった。
唇から全身へと伝わる熱が記憶と呼び起こす。
嫌だ。
足りない。
明瀬が顔を離す。反射的に追い掛けてしまった。明瀬は、それを待っていた。
ほんの少しだけの背伸び。
だけど、たったそれだけで一人では立てなくなってしまう。
背中というより腰に近いところを明瀬が支え、だから私は、もういいと思われるまでそうしているしかなくなった。
それは、でも、嫌じゃない。
嫌なわけがない。
唇がもっと熱くなる。初めてなのに、すぐに分かった。お互いに求める。脳が溶けていく。全てが、溶け合っていく。




