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1話

「行きたくないなぁ、学校」

 何気なく呟いた途端、ほんの一瞬だけだけど、何もかもが嫌になった。

 暑い日に、暑いと言った途端に汗が吹き出るような。

 痒いと思って、何気なく掻いたら一気に痒みが増すような。

 あ、これは違うか。

 まぁでも、似たようなものだろう。

 いつも思っていた。毎日。毎分や毎秒じゃないけど。大抵、いつも、気が付いたら思っていたこと。

 学校、嫌だな。

 高校生になって半月、そろそろ授業も本格的に始まる頃になっても、なんだか歯車が噛み合わない感覚が続いていた。

 それでそう、とうとう呟いてしまったのだ。

 朝の電車の端っこ。

 わいわいと無遠慮に話す同じ制服の男子たちの声に紛れて、私の声はきっと誰にも届かない。

 他でもない、私自身を除いては。

 電車が停まる。

 すぐそこのドアが開いた。いつの間にか立ち上がっていたスーツ姿の男の人が歩きだす。その一秒か二秒の間、こんなにも人で溢れる電車の中、私は一人、孤立した気がした。

 我知らず足が踏み出している。

 気が付いた時には、振り返ることも立ち止まることもできなかった。

 なんでもない、それが当たり前なんだと誰にともなく言いたい気持ちで電車を降りる。後には戻れない。すぐにスーツ姿や制服姿が電車に乗り込んでいく。同じ制服を来た女子たちは、私には見向きもしなかった。

 背後でドアが閉まる。

 知らない駅だった。

 ホームには屋根があるのに、でも線路の上にはない。お陰で朝の日差しが、ホームに陰影を刻んでいる。

 四月の朝。

 日陰者の私でも日向が恋しくなるくらいには肌寒いのに、何故だか暗い一角に吸い寄せられた。

 改札に続くらしい階段の、その裏手。

 電車を待つ人々を遠巻きに眺めるそこに、色褪せたベンチが二つ並んでいた。

 誰もいないそこに座り込んで、ぼうっと線路を眺める。

 飛び込む勇気はなかった。そこまで人生に絶望してもいない。というかまぁ、私は小心者なのだ。人前で奇抜な言動をする勇気なんてない。命がどうのなんて以前の話だった。

 それですぐに手持ち無沙汰になって、真新しい学生鞄に手を伸ばす。

 スマホだ、スマホ。

 高校入学を機に買ってもらった、片手で持つには大きく、両手で握り込むには少し小さい機械。

 中学の卒業式の日、一足早くスマホを買ってもらった同級生の、露骨に嘲るような声を今でも思い出せる。

『え~? なんでスマホじゃないの~?』

 相手は多分、というか十中八九、今までの携帯電話を手にしていたのだろう。

 なんていうんだっけ。

 今までずっとケータイ、ケータイと当たり前に呼んでいたのに、ここ何年かで急に出てきた新しい呼び方。なんだっけ。ゾウガメ? じゃない。ええっと、そうだ。

「ガラ……んん? まぁいっか」

 そう、略してガラケーだ。

 スライド式とか3D機能とか、どんどん新しい宣伝文句が出てきたのに、スマホの登場で一気に過去のものとされてしまった悲しいやつら。

 まぁ、たかが機械だ。憐憫は覚えない。

 私もそんな話を、寝た振りをしながら盗み聞きしてしまった以上、なけなしの勇気とともに「スマホがいい」の言葉を絞り出すしかなかった。

 卒業式の後、クラスみんなでやるはずだった打ち上げを待たずに帰ってきた私に、お母さんとお父さんが見せ、直後に隠した顔。あれが私のスマホの裏にある。

 別にいいけど。

 クラスみんなの『みんな』は『全員』じゃない。知っていた。

 五人か六人か。全てで三十三人いるクラスの中では決して少ない数じゃない。その一人になる代わりに「え~? なんでスマホじゃないの~?」と言われなくて済む。

 というか実際、済んだ。

 レインとかいう、メールとはまた違うチャット系メッセージアプリのIDもみんなと交換した。そう、みんなだ。

 昨日の放課後、臆面もなくアニメキャラをアイコンにした男子がグループに送ってきた『社会科の範囲ってどこまでだっけ?』というメッセージ。それが私のレインに表示される、最新のメッセージだ。

 私に憐れまれても嬉しくはないだろうが、その勇気と玉砕に敬礼する。

 でも最後のメッセージが更に三日前だった辺りで何も察しなかったのだろうか。

 露悪的に笑ってみて、直後に表情を消した。

 いけない、いけない。ここは駅のホームだった。すぐに辺りを見回し、誰もこっちを見ていないのを確かめる。それからまたスマホに目を落とした。

 最近、夕方のワイドショーではしつこいくらいにスマホの危険を訴えている。

 よく分かる。

 中学までは暇さえあれば携帯型ゲーム機を握り締めていたのに、今ではスマホを触っている時間の方が長い。ひどい時は授業中も引き出しの中でいじっている。一日を通してみれば、シャーペンより長く握っているだろう。

 折角勉強して、折角合格したのに、入学した途端にこれだ。

 スマホは良くない。

 思いながら、一ヶ月足らずで慣れてしまった指捌きでブラウザを開く。私は両手派だった。縦持ちの音ゲーをする時でも両手持ちだ。手が小さいくせに、指は太いから嫌になる。

 ブックマークしていたページを開き、一番下までスクロール。

 今朝はなかった、次へのリンクが貼られている。クリック……じゃなくて、タップ。

 タップといえば、少し前までは柔道の授業でしか聞かない用語だった。なのに今じゃ、毎日のように耳にする。

 下らないことを考えながら新着のレスを眺めていくと、今朝の挨拶以降、知り合いは何も書き込んでいないのが分かった。そりゃそうだ、おはようと言い合ったのが七時、学校行くねーと言われたのが七時半だ。私の話し相手はガラケー勢が多く、そうでなくとも学校にはスマホ含む携帯電話の持ち込みが禁止されているという。

 どこまで本当かは、分からない。

 私が入り浸っているそこは中高生向けのネット掲示板だった。何年も前にドラマ化された、あの有名なつーちゃんねるとは違う。イメージだけど、あれは二十代とか三十代のニートがやるやつだ。

 これは当然といえば当然、十代半ばから後半がターゲット。

 どこまで本当かは、やっぱり分からないんだけど。

 ネットなんて嘘がつき放題だ。自称中二女子が、リアルでは四十過ぎたおっさんかもしれない。

 分かっていてやっているのか、分からないでやっているのか。

 時に彼氏が欲しいと言い出す自称女子がいて、自称男子が殺到する。どっちも四十過ぎたおっさんなら笑えるな。いや笑えないか。日本の未来はどうなる。

 でもまぁ、中には本物の女子高生がいるのだ。

 私だけど。

 女子高生は女子高生でも、まぁあれだな、国産野菜(一般人が庭で作っただけ)みたいなもんだ。いくら国産好きの主婦でも、それには飛び付くまい。

 私も同じだ。

 いくら女子高生が好きな男でも、私には見向きもしない。

 小学校時代のあだ名は、デブ山デブ子。ちなみに私の名前は秋草静那だ。山でも子でもない。なのにデブ山デブ子。

 それが嫌で中学に上がるまでに頑張って痩せたら、違う小学校だった、知り合って何日もしない同級生に言われた。

『痩せてもブスはブスなのにね』

 結局、そういうものだ。

 知っている。知っていた。なのに期待した。私が馬鹿だった。

 スマホの小さな画面に広がる、無限のインターネットの世界に目を落とす。

 普段は互いのレスが目に入っても何も言わない別グループの人たちが、ぽつぽつと盛り上がっているとも言えない会話を繰り返していた。

 ふと、思う。

 ネットはリアルとは別だ。

 だけどネットも、リアルの延長線に過ぎない。

 指を動かす。寒い日陰にいるのに、不思議と汗をかいた。

〈Hitsuji_oka:こんにちは〉

〈Hitsuji_oka:学校サボりました。暇です。なに話してるんですか?〉

 沈黙。

 それはただ文字を打ち込んでいるだけなんだと、そう言い聞かせて待つ間も汗は滝のように溢れた。脇の下が湿るのが分かる。気持ち悪い。

 可愛い子……例えばクラス一の美少女と噂される佐々木さんの汗なら、一部の男は喜んでコップ一杯でもバケツ一杯でも飲み干すだろう。

 私の汗は、たとえ金を積まれても誰も近寄るまい。

 だけど画面の向こう、インターネットの世界には、私の顔も声も汗も届きはしないのだ。

 画面の上に、くるくると読み込みを示すマークが見えた。

 直後。

〈Kazuya:俺たちに言ってる?〉

〈Kazuya:羊ヶ丘さんだっけ? あんまオタ話してるの見たことないけど〉

〈Yu_Yu_To:昨日のアニメー。Hitsuji_okaさんもアニメって見る?〉

 ぽん、ぽん、ぽんと一気に三つのレスが表示された。

 Kazuya……、カズヤさんは相当に悩んでから、一気に文字を打ち込んだのだろう。対するユート(と呼ばれていたはず)さんは、特に考えもせずダラダラと打ち込んだか。

 そんな感じのことが、この切り返しにかかった時間やら何やらから想像できる。

 ネットはリアルとは違うけど、それでも画面の向こうには生身の人間がいるのだ。

〈Hitsuji_oka:アニメはあんまりです。ゲームなら少し〉

〈Kazuya:ゲームやるんだ。どんなの?〉

〈Yu_Yu_To:ゲームっていえば、MEやってる? モン喰いでもいいけど〉

 でもいい、というかなんというか。

 ユートさんが挙げたのはどちらも等しくモンスターイーターの略称だ。巨大なモンスターを狩って食べる、そんな狩猟生活を味わうハンティング・アクションゲーム。モンスターの肉を上手に焼き上げた時の決まり文句はCMに使われているから、ゲーマーでなくとも知っているだろう。

〈Hitsuji_oka:モン喰いやってますよ。今ランク80くらいです〉

 モンスターイーター・オンライン、略してMEO。

 若者に絶大な人気を誇り、遂には社会現象にまでなったゲームのオンライン版で、PCを持っていなくても据え置きゲーム機があれば遊べる。私は去年のクリスマスプレゼントに買ってもらってすぐにダウンロードし、時には寝る間も惜しんで進めてきた。

 携帯機用でも、しばらく前に最新作が出たばかりだ。

 この掲示板に集まる中高生なら現役でやっていても不思議はない。

〈Kazuya:え、あれランク80とかあんの? 10とかじゃなかったっけ?〉

〈Yu_Yu_To:あー、MEOの方か〉

〈Yu_Yu_To:ポータブルの方だと10前後だけど、オンラインだと999とかあるんだっけ? やってないから分からん〉

 なんだ、やってないのか。

 少し残念だけど、それでも学校の愚痴に相槌を打つよりは何倍も楽しめる。自分が今、駅のホームにいるのも気にせず、ぐっとスマホの画面に顔を寄せてしまうのを自覚できた。

〈Hitsuji_oka:お二人は新作やってます?〉

〈Yu_Yu_To:もう全クリしたからやってない。あれ絶対2の方がむずかっただろ〉

〈Kazuya:俺はそもそも買ってもないわ〉

〈Yu_Yu_To:こいつアレなんだ、2で村もクリアできなかったんだよ〉

 村とは、ソロプレイモードの俗称だ。逆にマルチプレイモードもあり、当然だけど『村』の方が簡単だった。

 それはそうと、二人はリアルでも知り合いなのだろうか。どことなくネット上の知り合い同士とは思えない空気感があった。

 正直なところ、なんだかやりづらい。

〈Kazuya:てかフールフールはダメだろ、あれ。なんだあのクソゲー〉

〈Yu_Yu_To:ボウガン専だったもんな〉

〈Kazuya:遠距離攻撃しかできないのに遠距離攻撃したら回避不能の反撃ってなんだよ。ボウガンに勝たせる気ねえじゃん〉

 なんとなく察してはいたが、やはりそうだ。

 この二人、歯に衣着せぬといえば聞こえはいいけど、はっきり言って遠慮がない。配慮が足りない。私はMEが大好きだった。だから今もMEOには毎日欠かさずログインしている。

 だから好きにならないやつはおかしい、なんて言うつもりはない。

 だけど好きじゃないからって、わざわざ悪し様に言うこともないだろう。

〈Hitsuji_oka:隠密のスキル発動すればボウガンでも勝てますよ。むしろ隠密ボウガンが最適解レベルです〉

〈Hitsuji_oka:あ、隠密は敵の遠距離攻撃のターゲットにならないってスキルです。確か村専でもフールフールまでに発動できたはずです〉

 MEは確かに難しいゲームだ。時に理不尽に思えるモンスターも登場する。

 しかし、どこかに絶対クリアするための道筋が用意されていた。

 その筆頭がスキルだ。攻撃力や防御力を上げる単純なものから、ゲームが全く別物に変化するようなものまである。中でも『隠密』はブレスやビームといった攻撃をほとんど無力化できる、超強力なスキル。

 ボウガンはこの恩恵がかなり大きく、常に最強論争に挙げられる武器だ。

 なのに。

〈Kazuya:そういうのいいわ。もうやってないし。てか売ったし〉

 返された書き込みに、カチンと来る。

 でも、これはもう何を言っても無駄だ。

 ゲームは娯楽だけど、映画や読書とは決定的に違う要素がある。

 ゲームは、ただ待っているだけではクリアできない。

 試行錯誤や、挑戦と挫折。

 そういう要素があるからこそゲームは楽しいし、ただ映画を見たり本を読んだりしただけでは得られない達成感が生まれる。

 それを放棄してしまった人には、何を言っても届くはずがない。

 舌打ちの代わりに、ため息が零れる。

〈Yu_Yu_To:そういえば、羊ヶ丘さんって女子じゃなかったっけ? MEやってるって珍しいね〉

 ちょうど表示された最新のレスには、返信する気も湧かなかった。

 面倒臭い。ゲームに男も女も関係あるか。

 ていうか、どこかで言ったっけ。言ったかもしれない。

 そうだ、昨日のやり取りか。

 誰かがメイクがどうのと言い出して、それに仲の良い一人が食い付いた。私自身、高校生にもなったしメイクを覚えた方がいいのかと思いつつ、お母さんに教えてもらうのはなんだか嫌で、その話に乗っかったのだ。

 あれを見ていたのだろう。そんな素振りはなかったのに。

〈Yu_Yu_To:MEOやってるならドラファン14は興味ない? 俺やってんだけど、あれだったら教えるよ?〉

 悪いが興味はない。

 なんだったらドラファン……ドラゴンファンタジー14は、確かウン十万するようなPCが必要だとか言われていたはずだ。そんなの持っている中高生がそうそういて堪るか。

〈Yu_Yu_To:もしよかったら連絡してよ。レインのID教えるからさ〉

 そう言いながら、最早さん付けも嫌になってきたユートが英数字の羅列を書き込んでくる。

 と、どこから見ていたのだろう、私ともカズヤとも違う四人目のレスが急に現れた。

〈NET_HERO:連絡先の交換は利用規約違反です。通報しました〉

〈Kazuya:うわ出たNEET〉

〈NET_HERO:暴言も利用規約違反です。通報しますね〉

〈Yu_Yu_To:いつから見てたん? 暇人? マジでニートなの?〉

〈NET_HERO:通報しました〉

 開いた口が塞がらない。

 なんだよ、これ。

 塞がらない口の代わりに、ブラウザを閉じる。デリカシーがないやつと、女と見てすぐ飛び付く自称中高生と、自警団気取りの通報屋。……と、学校をサボって駅のホームでネット掲示板を見るデブ山デブ子。

 救いようがない。

 嫌だな、ほんと。

 どっと疲れた。こんな時間に掲示板なんて見るんじゃなかった。そりゃ、まともなやつは学校にいる時間だ。こういう結末を迎えるのも必然と言えよう。

「で、ログ残るんだよなぁ、これ」

 削除依頼出そうかな。

 けど理由があるならともかく、ただ恥ずかしいからなんて依頼しても受け付けてもらえない。そもそも受け付けてもらったところで、削除まで何時間かかるか。もし放課後までに消されなかったら、この恥ずかしいやり取りに加わっていたのがバレる。

 ため息が次から次へと溢れてきた。

 最近、ちょっと居心地が良くなってきたのにな。

 やめ時かな。仲が良いと思っていた人も、昨日のメイクの話を聞くに結構遊んでいるらしかった。ネットとリアルは別物だけど、それでもどこかで繋がっていて、その繋がりが見えた途端に冷めてしまう。

 それにまぁ、昨日の時点で思ってもいたのだ。

 高校生なのにメイクもしたことないなんて、画面の向こうでは笑われていたかもしれない。中学時代、クラスの中心にいた女子は休みの度にメイクして、同じグループの男子たちと遊びに出掛けていた。休み時間の話を漏れ聞いただけだけど。

 そんなこと、私は一度もしなかった。

 メイクなんて覚えなくても何一つ困らない、そんな中学時代。

 男子ならともかく、同じ女子ならなんとなく察するところはあるだろう。

 嫌になる。

 何もかも。

 いっそ……と、そんな勇気があるはずもないのに線路を見やった。

 遠くから響く轟音。

 甲高いブレーキの音。

 ちょうどホームに電車が入ってきた。

 今から走っても間に合わない。間に合わせる気もないけど。

 そう自嘲を零した時、頭の上で足音が聞こえた。驚きと焦りで跳ねるように立ち上がる。そして直後、あまりに単純なカラクリを思い出した。

 私は今、階段の陰にあるベンチに座り込んでいたのだ。

 頭上には階段に続く通路があって、ゆっくり歩くならまだしも、走れば足音がよく響く。

 だからまぁ、頭の上から聞こえた足音の主は走っていた。

 階段を降りてくる。

 まさか線路に飛び込むつもりじゃないだろうな。仮にそうだったとしても、もう間に合わない。ただ一方で、飛び込み乗車には早すぎる。

 それで少し、興味が湧いた。

 どんな人が、なんのために走ってきたんだろう。

 どうせ私は階段の陰にいる。わざわざ見ようと思わなければ、気にも留まらないだろう。

 見やった先、遂に頭が見えた。

 白と黒のフリル。帽子……じゃない。カチューシャ?

 疑問は、すぐに氷解した。

 なるほど、メイドか。

 白と黒のフリフリしたカチューシャに、やはり白と黒のブラウス。電車が入ってきたホームには風が吹いていて、それがロングスカートをふんわりと広げていた。

 艶のある長い黒髪。

 まさか日常の景色の中にメイドを見る日が来るとは思わなかったけど、メイド喫茶から逃げてきたというより、どこぞのお屋敷のリアルメイドだと言われても納得してしまうくらいには、彼女はメイドだった。

 そんな落ち着いた所作が似合うだろうメイドさんは、しかし、どうしてこんな庶民的な駅で走っていたのか。

 今もそうだ。慌ただしくあちこち見回している。

 差し迫りながらトイレを探すかのように、あるいは……そう、周りの目を気にするかのように。

「……ッ!」

 目が、合った。

 わざわざ見ようと思わなければ見えない私の居場所は、だけど姿を隠せる場所を探す者にとって、遅かれ早かれ目を向ける場所でもある。

「あっ」

 思わず声が漏れてしまう。

 声なんか出さなければ、見なかったことにできたのに。

 いや無理か。足音に驚いたせいだけど、ベンチの前で立ち上がってしまっている。見なかったことにして座り直すのは不可能で、電車に乗り込む振りをしようにも真横を通り過ぎなければいけない。

 どうしよう。

 詰んだ?

 もしかしなくても、私、今、街中でガチめのメイド服着た不審者と一対一……?

 まぁ、なんていうか。

 同じ女からしても目を奪われるほどの美人だということだけが、唯一の救いだろうか。これで小太りのおっさんとかだったら、あぁでも大丈夫か。私はデブ山デブ子。元、と前に付くけれど、いくら小太りのおっさん(メイドバージョン)でも変なことはしないだろう。

 ……しない、よね?

 黒髪美人メイドを見ていると不安になってくる。

 だって、そうじゃないか。

 彼女は据わった目を私に向け、一言も発しないままずんずんと歩み寄ってくる。

「え、あの」

 どうしよう。

 え、何されるんだろう。

 まずい。

 怖い。

 メイドは私のすぐ目の前に来て、そして。

 目の前を、通り過ぎた。

 ほっと胸を撫で下ろす……のも束の間だった。

 メイドが座る。

 私のすぐ隣、二つあるベンチの、何故か私がいるのと同じ方に。

「え……」

 声を出してはいけない。

 分かっていても、困惑と恐怖が喉を震わせた。

 首が動く。

 見なくても分かった。

 メイドの、その白く細い首が動いて、大きく丸い瞳が私を見上げたことだろう。

「そのまま立ってて」

「わた、わっ、私が何をしまし」

「目隠し」

「えっ?」

「目隠しになるから。お願い。そのまま立ってて」

「あっ……」

 なる、ほど。

 そこは駅のホームなのだから当然、電車は停まった。

 通学時間ほどではないにせよ、大勢の客が降りてくる。そうかと思えば、階段から降りてきた客が駆け足で電車に乗り込んでいった。

 何種類かの学生服、制服でもないのに瓜二つのスーツ姿たち、果ては明らかに堅気じゃなさそうな黒と赤の髪をしたヤンキーさんまで。様々な人たちを呑み込んだドアが、プシューと音を立てて閉まる。電車が動きだした。

 駅のホームに、再び静かな空気が流れだす。

 よし、私は役目を果たした。逃げ――

「ねぇ君」

「ににっ、逃げようだんて」

「あっ、えっ? あー、驚かせたならごめん」

「めっ滅相もありません」

 直立不動、じゃない。

 こういうの、なんていうんだっけ。

 とにかく両踵をキチッと合わせ、九十度横に振り向く。それでも足りなくて、更に四十五度ほど角度を調整。ベンチに腰掛けた黒髪美人メイドに敬礼する。

「えっ?」

「あっ……」

 まずいテンパった私今何やってんだろ。

「あ、いえ、えと、私これから学校――」

「その制服、東高でしょ?」

「……え」

「この駅から乗るなら、今の電車乗らないといけないはずだけど」

 えっと……。

 汗が、額から、滝である。

 目が泳ぐ。今の私の目、きっと世界水泳出られるレベル。

 いや待った、深呼吸しよう。

 なんかもう心の声まで迷子になっていた。

「君、名前は?」

「なまっ」

「あぁいや、ほら、今手持ちないから」

「てもっ」

「だからまぁ、後日ちゃんとお礼をしたくて」

「おれっ」

「俺?」

「私! 私はっ!」

「あ、えっと、うん。君は?」

 あれ、どうしよう。

 これ、逃げられない感じ?

 名乗らないでダッシュしたら、背後から黒髪ロングが追い掛けてくる流れ?

 何そのジャパニーズホラー。

「私、は、えっと……」

 目が泳ぐ。

 日本記録、更新したかも。

「ひちゅ。ひつじゅ。羊っ、丘」

「羊丘?」

「ひっ羊ヶ丘、です!」

 平身低頭、勢いよく頭を下げた。

 学校をサボった、平日の朝。

 高校生になったばかりの、まだ春のこと。

 駅のホームで、白と黒の美人メイドに。

 それが私、羊ヶ丘こと秋草静那の、新しい日常の幕開けだった。

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