中
雲ひとつなく澄んだ紺色の空にぽっかりと銀色の丸い月が浮かんでいる。
その下に広がる一面の銀世界の中を、深緑色の小さな影がゆっくり進む。
ぱきんと冷たい夜気の中、影が進む一歩毎に、ふわり、ふわりと白い息の霧が現れては消える。
そして湖のたもとで影はぴたりと止まる。
湖には厚く氷が張っている。
「シェイーーン!」
「エディアルド!何故お前がここにいる」
「シェインがここにいるからさ」
聞き覚えのあるやりとりが繰り返された。
シェインが雪を漕いで通った跡を、エディアルドが金の髪を踊らせて小走りでこけつまろびつ進んでくる。
大量生産された白い息をまとわりつかせ、冷たい空気で頬と鼻の頭を真っ赤にしている。まぁ、シェインもきっとそうだろうが。
「シェインは幼馴染みで婚約者だし、普通に歩いて来た」
「そこまで繰り返さんでいい」
シェインはため息を吐く。
「じきに始まる。用が終わったら送る」
エディアルドの外套に保温魔法を足し、シェインは湖に目を向ける。
ピシリ……ピシリ……
湖の氷に亀裂が入る。それは次第に広がっていく。
ピシリ……パキッ……
ひびの入った湖の真ん中辺りから、紫がかった銀色の光の霧のようなものが静かに立ち上ぼり始める。
氷の欠片をまとわりつかせ、それは月の光を反射して金色にキラキラと光った。
淡く輝く紫の霧は湖から泉のようにこんこんと涌き出し、やがて湖の全体を覆う程になり、岸にいるシェインとエディアルドの元に届いた。
エディアルドは不思議そうに自分の周りを流れる紫の霧を眺める。
「エディアルドは怖くないのか」
「え?全然。危険ならシェインが僕をここに置いておく訳ないでしょ」
小面憎い。
「でも不思議だなとは思う。これは何?」
「只の自然現象だ」
「ふーん、そうなんだ」
「納得できたのか」
「ごめん、やっぱり解説をお願いします」
シェインはまたまた一つため息を吐く。
「この湖は底から魔力が湧いている。ごく薄いものだが、こうして冬には氷の下に閉じ込められていて貯まって濃くなっている。
湖の氷は、厚く張って、更に厳しい冷え込みがあると、こうしてひびが入ることがある。
神が湖を渡っていく道だと言う言い伝えもあるが、私は、氷が温度によって少しずつ膨らんだり縮んだりするため起こる現象という説を支持している」
「とりあえず、湖の氷にひびが入ることがあるんだね、分かった」
「……こうして割れると、貯まっていた濃い魔力が溢れてくるから、毎年こうして浴びに来る。魔力は人から人へは感染しないが、自然の濃い魔力なら人は少しだけ吸収することができる」
「僕も今吸収できてる訳か」
「いや。私のような元々魔力の強い魔術師でないと、魔力の器が小さすぎて殆ど吸収できない。まぁ、温泉みたいなものだ。湯治のように浸かっていると効果があるにはあるが、すぐ劇的な効果は期待できないし、効き方も個人差が大きい」
恐らくこの湖が、あの迷信の源だとシェインは考えている。
強い者は力を溢れ出させていて、周囲の者におこぼれを与えるという考え方が生まれたきっかけだ。
弱い者は強い者の側に置くと強くなる。シェインはエディアルドに力を浴びさせる温泉役を期待された訳だ。
「……私が温泉だったら良かったのに」
「うーん、婚約者が人外つきぬけて保養地はなぁ…」
何を言っているんだ、とシェインは自分を棚に上げて思う。
エディアルドはーーエディは、ちょっとした風邪で命を落としかねない子供だった。
彼が寝込む度、シェインは自分の力が足りないせいのように思えた。彼女の服の端を引いて付いて歩くあの小さな手の主が、シェインのせいで消えてしまうのかと恐ろしかった。
大人達はそんなことはないと言ったが、大人達がシェインに与えた役はそういうことだ。
エディは、心配かけてごめん、シェインのせいじゃない、と熱で赤い頬で言った。
エディこそ何も悪くない。ただそう生まれついただけだ。
一番理不尽に奪われ、幼い頃からまるで最前線の兵士のように、毎日命の危険の恐怖と戦い続けているのはエディだ。
シェインは強くなりたかった。
少しでもより強くなれば、少しでもエディの苦しみを減らせる。
がむしゃらに学び魔力を磨いているうちに、国一番の魔術師とやらと呼ばれるようになっていた。
縁云々は迷信に過ぎないことは早いうちから気づいていたが、本質的には変わらない。
国一番と言われるようになっても毎年この湖に来るのは、エディを迷信で助けるためではない。
最早、最強魔術師たる自分の現実の魔力が、エディ以外の沢山の人々も助けることをシェインは知っているからだ。
ーーただ、今なおシェインの中の幼いシェインが、エディに力を分け与えたいと泣いている声も聞こえている。
エディには決して言わないが。