さくら
「自分が大事だと思ってたことがさ、後になってから、あぁ、アレってどうでもいいことだったなって、思うことない?」
彼女は言った。
僕らは居酒屋にいた。
ゴミゴミとした店内、店の端の端。
追いやられるように置かれた二人席に、僕らは座っていた。
「わからないな。」
僕は答えた。
「そっか。」
彼女は困ったように苦笑いを浮かべた。
「あたしはね、あるんだ。例えばさ、中学校の夏休みの宿題とか。夏休み明けに、全然終わらなくってさ、このまま明日を迎えたら死ぬんじゃないかってくらい、それくらいの絶望感を感じてさ。でも実際、そんなこと全然なくって、あんなのやんなくても死なないどころか先生に怒られるくらいで、今思うと担任の先生も当時26歳だったから、怒られたところでどうにもならないし、先生だって他にいっぱい業務とか悩みとかいっぱいあったんだろうなって。それと、」
彼女は一息継いで続けた。
「それと、今思えばとっても大事なことって他にいっぱいあったよなって。当時は全然大事だと思わなかったけどさ。」
僕は聞いた。
「大事なことって?」
彼女は息を吸った。
悩むように斜め上を見ると、少しばかり逡巡した後で言った。
「あたしね、君のことが好きだったんだ。」
僕は驚いた。何も言えなかった。
「ずっとね、言おう言おうって思ってたんだ。高校に入ってからも、大学に行ってからも。」
彼女は目に涙を浮かべていた。
そして涙をこらえるように顔を上げると、震える声で続けた。
「間に合わなかったなあ。きっとあたしは今もくだらないことに一喜一憂して、とても大事なことを見落としていくんだ。明日も明後日も」
「ああ、そうだなあ」
僕にはそれしか言えなかった。
僕もまた、大事なことを見落としていくんだろう。
明日も、明後日も。
僕は大事なことを見落としていることにすら気づかなかった。
気づかなかったのか、気づかないふりをしていたのか。
今となってはわからない。
テーブルの上の、食べかけの焼鳥はもう、食べる気になれなかった。
季節は春だった。
窓の外では桜が舞っていた。
夜桜ってやつだ。
涙を流す彼女を横目に、桜は夜にも散るんだなあと、そんなことを考えていた。