失われた記憶と仮の名
何者だ?と問われて差し出せる答えを、生憎〇〇は持ち合わせてはいなかった。
その事に戸惑い答えあぐねているうちに、目の前に立つシルヴァンとやらの顔がどんどん険しくなってゆき、慌てて口を開く。
「ごめんなさい…わからないんです」
「わからない、だと?」
一段低くなった声に怒気が混じっている事を感じ取り、〇〇はたじろぎながら頷いた。
萎縮している〇〇の「気」は、シルヴァンにも伝わっていた。
だからと言って、不審者を見過ごす事は出来ない。
敢えて「気」を限界まで高め、〇〇を威圧するように睥睨した。
「正直に答えた方が身の為だぞ」
気の弱い、或いは力のない女子供であれば失神しかねない凄まじい「気」をまともに受け、〇〇の顔が真っ青になる。
けれどカタカタと身体を震わせながら、それでも真っすぐにシルヴァンを見つめ
「自分が誰なのか本当に覚えていないんです」
答える頼りなくか細い声に、不安げに揺れる眼差しに、苛烈なまでの視線が和らぐ事はなかったが…シルヴァンは内心、ほぅと感心していた。
——これだけの「気」をまともにくらっても倒れぬとは…。
この娘、やはり只者ではないのかもしれない。
シルヴァンの左目は固く閉ざされたままだ。
その代わり、視力を失ってから最大限まで研ぎ澄まされた感覚により、ありとあらゆる「気」を察する事ができるようになっていた。
「視えて」いるのと遜色ない…あるいはそれ以上に何が起こっているのかわかるようになっていた。
今見えている右目だけに頼り、暮らしてゆくには今の環境は厳しすぎたのだ。
あの時…。
懐かしい「匂い」と共に異変を感じて飛び出したシルヴァンの上に「降ってきた」のが〇〇だった。
崖の上から彼女が飛び降りたのか、落ちたのか、それはわからない。
けれど、あの時の状況はどう考えてもおかしかった。
非常事態、異変といってもよい状況であったのは間違いない。
何よりも…彼女自身、異質な存在だった。
この国、いや、この世界の誰とも似ていない存在。
黙り込んだまま考え出したシルヴァンを上目遣いに窺い、〇〇は詰めていた息をそっと吐き出した。
少しだけ気が逸れたのか、シルヴァンから放たれる威圧感がやや弱まったのが、まず大きな要因だったが。
自分が何者なのかわからないと先ほど答えたけれど、それでも目が覚めてから感じるのは違和感ばかりだ。
レプスと名乗ったあの女性も、そして目の前に立つシルヴァンという男性も、一見「普通の人」に見える。
頭部に生えている耳さえなければ。
——飾り物、という事は…ないんだろうな。
身動ぎしただけで悲鳴を上げる右腕は諦め、左手で頭部にそっと触る。
分厚い包帯に阻まれ完全にはわからなかったけれど、顔の横にある耳はレプスのものともシルヴァンのものとも違う。
彼らが「普通ではない」と感じるという事は、一体どういう事なのか。
そもそも、「普通」とは何なのか。
——自分が何を知っていて何を知らないのか。
この世界の事、私自身の事。
何1つわからない…。
グルグルと考え込んでしまった〇〇は、相手の吐息にビクリと身体を震わせた。
「そう怯えるな、捕えたり殺したりしない。
少なくとも正直に答えれば」
溜息まじりに告げられ恐る恐る顔を上げると、見極めるようにこちらを見つめるシルヴァンと目があい、〇〇はピシリと固まった。
「自分の事すらわからない、と?」
「そう、です」
「ヒト…か?」
「私の考える人間とあなたの言うヒトが同じかわかりませんが、少なくともあなた方と私は違う存在のように感じます…その、見た目とか」
「我ら獣人の事も詳しくは知らぬと。
迷い人…か」
難しい顔をしたまま顎に手をやり何やらブツブツと呟いているシルヴァンを、〇〇は困惑しながら見守った。
どれくらい時が過ぎたのか。
「何もしない」と先程彼は約束したけれど…その約束が守られるか、怪しいものだ。
彼がどういった人なのか、どれくらい偉いのか知らないけれど、それよりもっと偉い人が命令したら?
もし、急に気が変わったら?
彼が約束を守り続ける保証はない。
——だって…私は「この国の民」ではないのだから。
何故そう思ったのか、自分でも説明ができないけれど。
理屈抜きにそう感じた瞬間、急激に心が冷えた気がして、〇〇は痛まない方の腕で自分の身体を抱きしめた。
一方で今後の事を考えながら、シルヴァンは密かに〇〇を観察していた。
仕草も粗野ではないし、身なりも綺麗に保たれている。
言葉遣いや話し方からも、一定以上の教育を受けているように見える。
着ていた服は…見慣れない形に見た事のない布地で、明らかにこちらの物とは違っていた。
身体にピタリとあっていたそれは、特別に誂えたモノなのかもしれない。
履いていた靴も艶のある革製で、細かい縫い目は均等だ。
よほどの職人が拵えたモノでないとこのような綺麗な縫い目にはならないし、使われている金具もピカピカしている。
服を誂え、高級な靴を履いているという事は、それなりに高い身分の者なのか。
それとも…?
そんな事を考えていたシルヴァンは、ふと〇〇の容姿に目を止めた。
青ざめた顔で震えているその姿が、酷く嗜虐心を煽ると同時に保護欲をそそる。
そんな相反する思いに驚き、シルヴァンはマジマジと〇〇を見つめた。
「…なんですか?」
〇〇の睫毛が意外と長い事。
肌が透き通るように白く、真っ黒な髪の毛との対比が美しい事。
そして…いくぶんカサついてはいるものの、ぽってりと紅い唇から、何故か目が離せない事。
——あの唇を思うさま貪ったら…この娘はどんな顔を見せるのだろう。
突如沸き起こった獣の本能にまず驚き、それを意志の力でねじ伏せたシルヴァンは、あえてその事を考えないよう意識を切り替えた。
——それにしても…先程感じた異変。
あの複数の気配。
あれはこちらを探り、機を窺い隙あらば…という類のものだった。
そんな者達と、目の前にいるこの娘が一緒にいた事は間違いない。
この娘とあの者達とは、どういった関係なのか。
記憶を無くしたと本人は言っているが、それが本当の事なのか、此方を欺くための芝居なのか、見極める必要がある。
無言のまま凝視するシルヴァンに、実際には片方の目しか見えていないにかかわらず、心の奥底まで見透かされそうな恐ろしさを感じ、〇〇は唇を噛みしめた。
「ここで保護するのなら、お前を何と呼べば良いかと思ってな」
思いがけない事を言われ、驚いて顔を上げた〇〇と無表情なシルヴァンの視線が絡む。
「名前は…?それも覚えてはいないのか?」
探るような口調に、〇〇は自分の中に何も浮かんでこない事に落胆しながら頷いた。
「では……これからはアリシア、と」
「アリ、シア…?」
戸惑いながらも繰り返した〇〇に、シルヴァンがぎこちなく顎を引くように頷きを返し…。
それが記憶を失い「〇〇」だった彼女が、この地で「アリシア」になった瞬間だった。