傍観者として〜アリシア〜
シルヴァン様の腕に抱かれたアリシアの姿を見た時、心臓が冷たい手でギュッと握り潰されたかと思った。
——気をつけるよう、忠告していたのに。
力なく垂れた腕。
血の気の引いた顔。
確認のできない呼吸。
意識がないのか、それとも衰弱しているのか。
まさか最悪の事態という事はない筈…と思いつつも、足が震えるのを止める事は出来なかった。
立場や発言力が弱い種族は、強者から圧力や直接的な暴力を受ける事がままある。
アリシアの顔の傷も、またシルヴァン様の上着に全身包まれているという客観的事実からも、彼女が暴力を受けたのは間違いないように思えた。
それも…おそらく、性暴力を。
思わず目の前が真っ暗になった私に、シルヴァン様は
「未遂だ」
端的に告げられた。
…とはいえ酷い目にあったのは事実。
慌ててアリシアを受け取ると、寝台に横たえる。
そのまま上着を取り除こうとして、シルヴァン様が動かない事に苛立つ。
「いくら貴方でも、この子の肌を見るのは許されないと思います」
暗に出て行けと伝えたのに
「しかし…」
真顔で「怪我の程度が」「どこを怪我したのか」と言うシルヴァン様を、いっそ蹴り出してやろうかと思った。
けれども流石にそれを実行する訳にもいかず
「意識のない状態で、貴方に肌を見られるこの子の気持ちを考えてあげてください」
ピシャリと言い放つと、シルヴァン様は渋々…本当に嫌々退室した。
その事にホッとしつつシルヴァン様の上着を取り去る。
中から現れたアリシアの全身は…思っていた以上に酷い有様だった。
この状態をシルヴァン様に見られなくて良かったと心底思いつつ、辛うじて残されていた下着を取り去り、熱い湯に浸した布を固く絞って痛々しい体の至る所を丁寧に拭き清めてゆく。
たくさん泣いてたくさん抵抗したのだろう。
目蓋も頬も既に腫れつつあるし、唇の端には血も滲んでいる。
両腕は加減なしに押さえつけられたようで赤黒くなっているし、脇腹の辺りには蹴られたのか打撲痕がくっきりと残っている。
擦り傷もあちこちにみられるし、肩や胸、太ももなどには噛み跡まで見られた。
——一体誰が、こんなむごい事を。
血と体液に塗れた体は直視に耐えなかった。
けれども逆に、アリシアが意識を失っていて良かったとも思えた。
彼女が暴力を受けている最中、自身の全身状態をどれ程自覚していたからわからない。
手当ての為とはいえ、他人には決して見られたくないのは間違いないだろう。
そして自分でも自覚してしまえば、おそらく心の傷になりうる、とても酷い状態だ。
もしこの状態を、アリシアが知らずに済むのなら…。
もちろん受けた傷は、行為は、心に傷跡を残してしまっている事だろう。
そしてそれを視覚的に認識する事で、女性は再び心に傷を負う。
そう考えた私は、できるだけ丁寧にかつ手早く清拭と手当てを済ませ、傷が見えないよう包帯で覆い隠す事に決めた。
ほんの気休めかも知れない。
それでも…アリシアが受ける傷を、衝撃を出来るだけ減らしてあげたかった。
体の傷はいつかは癒える。
むしろ心の傷の方が深刻で、目に見えない分厄介なものだという事を…いやというほど知っていたから。
アリシアを囮に、最新砦付近に出没し何かと探りを入れている輩を炙り出す。
その作戦を聞かされた時、特に反対はしなかった。
気をつけるよう言い含めてもいたし、これ程の目に合うとは予想もしていなかった。
何より保護対象とはいえ同族ではない彼女の身の安全など、それほど重要視していなかった。
けれど、今思えば…もっと反対しておけば、私だけでも異を唱えておけば良かった、と思わざるを得ない。
他の誰でもない、私が…。
この子の味わった痛みを、悔しさを、辛さを、屈辱を、悲しみを直接知っている私が同族じゃないからと見逃してしまうだなんて。
…そんな事、すべきではなかった。
もちろん、そんなのは欺瞞だ。
ただの偽善、独りよがりの身勝手な優しさでしかない。
こちらの都合で怪しみ、行動を制限し、見張り、何も知らせず危険な…人として、そして女性としての尊厳をズタズタに引き裂き、失わせる所だった事への後悔。
最初こそ身元の不確かなアリシアに疑念を感じていたけれど、一緒に暮らすようになってその疑いはどんどん小さくなっていった。
素直で、優しくて、正直で誠実で。
戸惑いながらもこちらの世界へ順応しようと精一杯頑張っていたアリシアが、敵の手の者だとはどうしても思えない。
彼女を知れば知るほど「迷いびと」としか思えなかった。
彼女が迷いびとである事が証明されれば、正式に我が国の保護対象として認められ、その扱いも変わるだろう。
それが良い事なのか、悪い事なのかはともかくとして…。
「レプス、そろそろ‥良いか?」
「あ、はい。お待たせいたしました」
考え事をしながらも手を動かしていたおかげで、様々な傷を包帯や湿布で覆い隠し、寝巻きを着せる所まではできていた。
私に追い出されたものの、呼ばれるまで待てなかったらしいシルヴァン様は、アリシアの傍に立ち傷だらけの手をそっと握りしめた。
「…首尾は?」
「狐族のゾット、それに像族のアルバと、逃げられはしたが猿人の男が1人」
地を這うような声で告げられた内容に、思わず眉を潜める。
「猿人、ですか」
——それはまた…厄介な事に。
なぜ彼らがアリシアを狙ったのかはわからない。
けれども、事と次第によっては更に大変な事になる。
…途轍もなく嫌な予感がした。
*
「すまなかった、アリシア」
リサがこちらを睨みつけ退室する間、誰も一言も言葉を発しなかった。
なんとも言えない空気の中、更に疲れた様子のアリシアの体を支え寝台に横たえたところで、シルヴァン様が謝罪する。
「…シルヴァン様に謝っていただく事はありません」
アリシアの硬い表情と声に、シルヴァン様はやや鼻白んだようだった。
それでも
「いや…部下の、リサの不用意、いや非常識な発言、上官として詫びる」
と頭を下げる姿に、内心少なからず驚き…そして呆れた。
——謝罪など、口先だけの行為になんの意味もないと言い放つこの人が…。
生まれついての王が、民に頭を下げるなんて。
いやでも、この場合彼に謝られても嬉しくはないと思うのだけど…。
我が上官ながら、こういう所は本当になんというか
——残念なお方。
それでも、ここでアリシアに「つがい」の件を切り出さない辺り、彼の想いだけは本物なのだと…それだけは、信じたい。




