その9.海、行こーぜ!
翌朝。
「くぁー……ん?」
大きなあくびを一つしてから、僕はふと足を止める。
まだ一限の前なのに、講義室の前がなんだか異様に混雑してざわざわしている。
人混みの隙間からひょいと覗き込むと、
「フーラーれーたあぁ!!!」
翠さんが恩戸くんにがっちりしがみついて、盛大に号泣していた。
恩戸くんはハンズアップの体勢。
「分かった、分かった話聞くからな、これ俺が酷いフり方したみてぇになるからやめよう? ……って撮んなよ先輩! 近ぇよ!」
右手に持ったマスタードたっぷりのホットドッグをむしゃむしゃしつつ、左手のスマホでカシャカシャと連写する先輩。
至近距離まで近づいて満足いくまで撮り終えてからスマホをしまい、ホットドッグをきれいに平らげ、それからようやく、翠さんの腕を恩戸くんからひっぺがした。
「よし、海でも行くか翠」
「先輩ナイス!」と恩戸くん。
「私に飛び込めと言うの?!」
翠さんの金切り声が廊下にぐわんと響き渡る。
「言ってねぇ!」
「ダメだ直ちにこの女の周囲から凶器を排除しろ!」
で、どうしたかっていうと。
購買で買ったホットココアの紙パックを買い与えたら、ちょっと落ち着いた。
ずず、と音を鳴らして最後まで飲み干してから、ベンチに腰かけた翠さんがぶらぶらと足を揺らす。
「合コンにすら来んなって言うのひどくない?」
「どーせお前が皿割ったりなんだりしたんだろ?」
疑いのまなざしを向ける先輩に、むっとなった翠さんが即座に反論。
「してないよそんなこと! ちょっと聞き耳立てただけじゃん!」
「聞き耳?」恩戸くんが首を傾げる。
うん、と翠さんはうなずいて、紙パックを丁寧に畳んでから近くのゴミ箱に放り込んで、立ち上がった。
「端の子がカワイイとか、日本酒一気はありえねぇとか、誰々が胸でけぇとか、聞こえるようなところで値踏みすんのが悪くない?」
「……どういう状況?」
少なくとも、女子に聞こえるようなところでそんなこと言う奴いなくないか。
僕と先輩の混乱をよそに、
「あぁ、なるほど」
一人で勝手に納得する恩戸くん。
灰色の脳細胞の抜け駆けに、二人がかりで非難めいた視線を向ければ、恩戸くんがぴっと人差し指を立てて説明してくれる。
「音って、要は空気振動だから。風遣いの翠ちゃんには得意分野なんだろ、音を増幅するのも縮小するのも。トイレかタバコか行って値踏みトークしてんのを、翠が聞き取れるように大音量に増幅しちゃった、ってとこだろ」
なるほど、とうなずく僕の横。
先輩がくわっと目を見開いて、大げさに数歩後退して。
「か、風遣い……!!」
「……あ、そっちに食いつくんか」呆れ顔の恩戸くん。
「いいなぁ翠! いいなー!」
先輩がぴょこぴょこと飛び跳ねながら、翠さんの周囲にまとわりつく。
それを指さして、生暖かい目で僕は恩戸くんに言った。
「先輩にも付けておあげよ恩戸くん」
「え、俺が?」
「ねー、どんなんがいいの、先輩。何推しでいく?」
「よっしゃ。何かこう、万能! 全能! みたいな感じで頼む!」
えーと、と恩戸くんが考え始めたところで、低い声でぼそりと。
「カマイタチも出せねぇくせして何が全能だよ」
「………………み、翠さん?」
キャラ崩壊してる。
おろおろする僕と恩戸くんを差し置いて、先輩がけろっと答える。
「そういう細かいのは苦手なんだよ。台風なら一瞬で起こせるぜ、ほら」
ごうっ。
先輩が右手を向けた先――
赤レンガの道がぼこりと大きく盛り上がる。次々とレンガが浮き上がり、互いにガツガツとぶつかりあいながら渦を描いて空高く舞い上がる。
通りの向こうから歩いていた女子が、短い悲鳴を上げて舞い上がるスカートを押さえる。(ちなみに翠さんは、堂々たる仁王立ち)
周囲のゴミくずや葉っぱが飛び上がり、ごうごうと鳴る渦に巻き込まれていく。髪が逆立つ。僕のシャツの襟と、翠さんのカーディガンのすそがばたばたと鳴る。掲示板のポスターがいくつか剥がれて飛んでいく。
風はどんどん強くなり――極めつけに、近くにあったベンチが紙切れのようにひしゃげて宙を舞い、
がつん、と電柱にぶつかって、粉々に砕け散った。
訪れた静寂ののち、目の前に残ったのは。
角のとれた赤い石ころの山と、まぬけに傾いた電柱。
ベンチを固定していた太いボルトが、からん、と寂しげな音を立てて僕たちの足元に転がった。
自信満々な笑顔を浮かべ、振り向いた先輩がびしりと親指を立てる。
「な! カマイタチも、含まれてる!」
「……大雑把にくくりすぎじゃないかな」と僕。
「へぇ、電柱ってこんなに丈夫なんだなー」
感心したみたいに言いつつ、カシャカシャと周囲の写真を撮りまくる恩戸くん。
僕はひょいと翠さんの顔をのぞきこんだ。ココアを飲んでいたときに一時的に消えた眉間のしわが徐々に戻ってきている。
「あーもー、やっぱむしゃくしゃするー!」
うーん、と恩戸くんが腕を組んでうめいた。
「ストレス発散かー。なんかない、先輩?」
「なんで俺」
「ストレス溜めなそうに見えるから……いてっ」
恩戸くんのすねを遠慮なく蹴り飛ばしてから、先輩がきっぱりと言う。
「よし、やっぱ海だろここは」
「そーすね、行きますか」
「海に叫んで、砂浜走り回って、飛び込んで?」
痛そうに足を押さえて恩戸くんが聞いてくるのに、
「「いや、生しらす」」
僕と先輩でぴったりハモった。
***
「はー食ったー」
ご満悦な先輩が、腹部を抑えて息を吐く。
「ねぇねぇ見てこれ」
てこてこと波打ち際に歩いていった翠さんが、僕らの前で、可愛らしくしゃがみこむ。
「ん?」
砂に両手を付けて、言うことには。
「十戒!!」
いきなりずばんと、海を割った。
沖合までの砂地が一直線にひらけて見える。その両脇に、壁のようにそびえる海水。白いしぶきが派手に飛び散る。
異様な光景に、おお、とか呟いている間に、
「もっかい! 翠もっかい! あ待てムービー起動するから待て!」
先輩が砂浜に足をもつれさせながら駆け寄る。
僕の後ろから、しゃくしゃくと棒アイスを齧りながら、やる気のない恩戸くんの声。
「サーファーいないか確かめてからやれよー。それ直撃したら殺人だぞー」
「よし、翠の必殺技ってことにしようぜ!」
鼻息荒くスマホを構えてTake 2を催促する先輩に、
「えーいいよ、あげるよ後輩くん。私そんなに大技好きじゃないし」
「僕も別に。どうぞ先輩。あ、でも先輩がやると、どーん押して、どーんと戻ってきて……津波になりそうですね」
「俺もそう思う」
先輩のカマイタチ練に何度か付き合わされたことのある恩戸くんもうなずく。
「お前ら、あんまし俺を見くびるなよ?」
ニヤリと不敵に笑った先輩が靴を脱いで、海に向かっていきなり駆け出す。
「先輩、着替え持ってきてないから……――え?」
一切減速しないまま海につっこんで――
そのまま、水面の上を颯爽と走っていく。
揺れる波がまるで空飛ぶ絨毯のよう。
「わー!!! 私もやりたいそれ!」
翠さんが飛び跳ねて歓声をあげた。
ぐるっと大きく円状に走り回った先輩が、波打ち際まで戻ってくる。
「よし教えてやろう。まず、右足が沈む前に左足を出し、次に、その左足が沈む前に右足を……」
「おっけ!」
「翠さんストーップ!!」
真に受けて走り出そうとする翠さんを慌てて止める。不満そうに睨んでくる翠さんへの説明は恩戸くんに任せよう。
高波の上で揺られながら仁王立ちする先輩が、胸を張って高らかに笑う。
「ふっはっはっはー、要するにだな、お前には無理だってことだ、風遣い!!」
「何そのラスボス的な態度」
どうやら二つ名の有り無しにまだこだわっていたらしい。
翠さんが地団駄を踏む。
「なんとかしなさい後輩くん!」
「ええ、僕? ……うーん、そうだな、じゃあ全部凍らせて、」
恩戸くんから冷静なストップがかかる。
「迷いなく警察沙汰だな。それと、いいのか、お前らの大好きな生しらすが凍死するぞ?」
「「それは困る」」と先輩と僕。
「もー、首席くんは楽しく生きたいの、穏便に生きたいの、どっちなの?!」
唐突にキレた翠さんが、恩戸くんの胸ぐらを掴み上げて怒鳴る。相当走りたかったご様子。
「俺のモットーは太く長くだ」
「セクハラ!」
「曲解!」
僕は、どうしたものかと腕組みをして、なおも悠々と波の上でくつろぐ(座ったり跳ねたり転がったりしている)先輩を眺め、
「あ」
ざぶん、とその身体がいきなり海に沈んだ。
「――おいコラぁてめぇええ!!」
ざば、とびしょぬれの顔が波間に飛び出て、あらんかぎりの声で叫んでくるのに、手を振って叫び返す。
「ごめーん先輩ー!」
「なに、樫月がやったの、今の」
驚く恩戸くんに、
「うん、こーしたら沈んじゃうよなぁ、ってちょっとよぎっただけなんだけど……いや、違うな。いま先輩が沈んだら面白いよな、って思っちゃったんだよね」
言い終わるなり、肩にがっしりと腕が回される。両側から。
「良くやった」と右側の恩戸くん。
「でかした」と左側の翠さん。
うん。笑いのためにはなんとやら、だ。きっと先輩も分かってくれる。なむなむ。
ばしゃばしゃと派手に水音を立てて、水びだしの先輩が浜辺に上がってくる。
「へらへら笑ってんじゃねーよ! お前ら全員、沖まで引きずりこんでやろーか?!」
怒号とともに。
「やっべぇ逃げろ!」
げらげら笑って駆け出す恩戸くん。
「よーし、私が海に押し戻してやろーう!」
翠さんが立ち向かうように両腕を広げるなり、ごう、とものすごい風圧が先輩に向かい、
「ぐ……! バカこれシャレになんねぇぞ!!」
真っ赤な顔で踏ん張りながら先輩が怒鳴る。
「うそうそ冗談、乾かしたげるだけ……」
「あ」
翠さんが急に風を止めたもんだから、先輩は勢い良く顔面から砂に沈み込んだ。
耐えきれなくなった恩戸くんが、砂に突っ伏してげらげら笑う。
ぷるぷる震えながら顔を起こした砂まみれの先輩が、
「ふん」
ちょいと指を振ると。
「ぐわ?!」
どかどかっと、恩戸くんの上に降り積もった――大量の砂。
「埋めてやる……」
「死ぬからこれ!!!」