その5.攻撃的首席
人のまばらな講義棟の廊下を歩いていると、
「樫月!」
聞き覚えのない声に大声で呼ばれて、僕はテキスト類を抱えたまま振り向いた。
その顔には見覚えがある。
「首席の……」
「おう、恩戸だ」
僕の言葉に、恩戸くんは気安く片手を上げてそう答えた。
僕の思い描くテンプレの『首席』像に非常に似つかわしくないこの人のことは、入学式での代表挨拶のときからなんだか印象に残っていた。
ピアスじゃらじゃらで指輪じゃらじゃらで、見るからに筋肉あって、髪の毛ツンツンで……なんていうか、派手な外見。チャラそうで、リア充そう。
そんな恩戸くんは僕の前まで来ると、にかっと笑って。
僕の肩にがっしりと腕を回した。
僕は、階段の踊り場にあるデカい鏡に目をやる。そこに映るのは、どうってことないデザインの、灰色のパーカーを羽織ったいつもの僕。貧弱なメガネ男子。
この組み合わせ、傍からはどう見たってカツアゲのように見えることだろう。
さらに、恩戸くんは僕の右耳に口を寄せて、周囲をはばかるように小声で言った。
「あのさ、先輩いるじゃん?」
「……ん?」
まさかのカツアゲじゃなかった。
想定外の質問に、僕は思わず聞き返す。
「ええと、ごめん、何?」
「ほら、あのちっこい」
「ああ――そこの人?」
僕が指さした先、階段の下で戸口に寄りかかる先輩。
その頭の上には、寝そべるようにのっしりと乗っかる、茶トラの肥満体型の御猫様。
「先輩、また拾ってきたの」
ふてぶてしい顔の茶トラ様を頭に乗っけたまま、先輩は誇らしげに胸を張る。
「いいだろ、強そうで。完全防備ッ」
防寒の間違いじゃないだろうか。暑そう。
「デブ猫はやめたほうが。縮みますよ、ただでさえ」
「あん?」
ものすごい剣幕で下から睨まれて、口をつぐむ。
殺気さえ感じた。間違いない。
「げ……」
恩戸くんが先輩を見て、嫌そうな声を小さくもらす。
「来んの早ええよ。まーいいや」
言い終えるなり、僕の肩から恩戸くんが腕をどけ、
ぶん、と猛烈な速さで僕の鼻先をかすめる、どでかい物体。
「……え」
かろうじて見えたのは茶色いギターケース。
ぶん回したのは、もちろん、目の前の恩戸くん。
かろうじてよけた僕のリアクションを見て、獰猛な目が笑う。
……まさか。
たん、と恩戸くんの蛍光色のスニーカーが、大きく足音を鳴らし。
目にも留まらぬ速さでジーンズのポケットから放たれたウォレットチェーンの鎖が走る。
その矛先は――僕の横を素通りして、階下の先輩へ。
「せんぱ……」
言いかけた僕の声は、甲高い金属音に掻き消された。
「ふん」
その場から一歩も動くことなく、鎖の先端を蹴り飛ばした先輩。
その両手は相変わらず、頭の上で鳴く猫の前足を掴んで、のんびりと左右に揺らしている。
直後、またも振り抜かれるギターケース。僕は俊敏に襲いくる巨大な鈍器をかわして、先輩のほうに駆け寄ろうと足を踏み出し――
ぐん、と身体が後方に引かれる。
背中に背負ったバックパックを恩戸くんに掴まれた、と気づいた瞬間に、床に引き倒される。
「二人とも、動くな」
頭の上から、押し殺した低い声。
素手で、頸動脈をひたりと押さえられる。
「動かなければ何もしねぇよ」
僕を拘束した恩戸くんが、先輩を見据えながら言う。
その視線の先、先輩は猫様をあやすように左右に揺れながら、おい、と平坦な声で僕を呼んだ。
「お前、今日バイトないだろ。猫缶買って俺んち集合な」
恩戸くんガン無視で、いつも通り、僕に命じた。
「……」
「あー、ごめんね、あの人マイペースで」
僕は恩戸くんに詫びたあと、
「先輩、僕が恩戸くんに謝っておいたので、先輩は僕に謝ってください」
「お前もマイペースじゃ負けてないな樫月」
呆れ顔の恩戸くんの、ナイスなツッコミ。
「ったく、いいんすか先輩。大事な後輩くんがどうなっても」と恩戸くん。
「好きにしろよ」と先輩。
「えー、助けてくれないの、先輩」と僕。
先輩は答えず、ちらりと恩戸くんを一瞥してから、
「ほどほどにな」
と、僕に言った。
え、と恩戸くんが息を呑む。
「まじで? まさか樫月もそうなの? 能力分け与えちゃう系? いまジャンプで連載してるよな、そういうの」
ワクワクした感じで言う恩戸くん。漫画と一緒にされてもなぁ。
恩戸くんが「よっと」と言いながら、バックパックごと、僕を片腕で持ち上げて、ひょいと立たされた。
そのまま、じりじりと後退する。
恩戸くんにひきずられて、自然、僕も先輩から距離をとる。
頭上の猫と戯れる先輩は、全く関知していない。
「あ、先輩、言い忘れてたんすけどー」
恩戸くんが、大きく息を吸って。
「ちーび。女顔。自、己、中」
「げっ」
ぎょっとする僕の前で――さっきまで冷静そのものの顔だった先輩の目が、すぅと細められる。
ちなみに三つ目の悪口は、全く意味がない。
前二つが問題だ。非常に厄介だ。
「よしっ、かかった」
と恩戸くんが小さく呟いたのが聞こえた。その直後、腕を後方にぐいと引かれ、
「行くぞ樫月、走れ!」
されるがまま反転した僕の肩を、恩戸くんの手のひらがバシンと叩く。じんじんと痛む肩をそのままに、僕はとりあえず、先輩を背にして廊下を駆け出した。
ぶわりと髪の毛を逆立てて、よく分からない妖気みたいなオーラみたいなものを周囲にまとい始めた先輩から、できるだけ遠ざかるべく、全速力で走る。
その僕の隣に、でかいギターケースを背負った恩戸くんが並走する。先輩に何かの怨恨があるにしては、楽しげな横顔は始終にやにやと笑っていて。
「ねぇ、恩戸くんは何がしたいの?」
「単純。先輩とバトりたい。まぁ詳しくはあとでな。こっちだ」
誘導されるがまま角を曲がる。行き止まりかと思いきや、廊下をふさぐように防火シャッターが下りている。
「なんで……」
「さっき下ろしといた」
開きっぱなしの、脇にある小さな避難扉を通り抜ける。恩戸くんが何かを引き抜くような仕草をすると、すぐにドアの閉まる音がした。ドアストッパー的な何かを仕掛けていたらしい。
直後、ぼこん!と盛大な破壊音が、後方から。
もちろん、たぶん、先輩だ。
「こっええ」
恩戸くんが、ちっとも怖くなさそうな顔で笑う。
二人並んで、人通りの全くない真っ白な廊下を、まっすぐに駆け抜ける。
突き当たりの「非常用」と書かれたガラス戸を開けて、非常階段を下りようとして、背後から、がちゃんと鍵の閉まる音。
振り向けば、恩戸くんが鍵をかけていた。
「なんで、鍵持って……」
鍵束を指に引っかけてくるくる回し、恩戸くんが笑顔で答える。
「窓から物落としましたって総務課に言ったら簡単に貸してくれたぜ」
「……いいのそれ……」
しゃべりながらさびついた螺旋階段を駆け下りる。
裏手の駐輪場の前に出た。
建物の影から出るなり、日差しが刺さる。
……うーん、昼間からなにやってんだろ、僕。
「樫月」
呼ばれて放り投げられたのはヘルメット。色違いのもう一つを頭にかぶった恩戸くんが、ロックを外した赤のZEPHYRにまたがる。
「バイクで逃げるの?」
「おう。これに追いつくには、さすがの先輩でも足壊れるだろ?」
「……うん、たぶん」
空、飛んでくるって可能性は考えないのだろうか、と思ったけど黙っておく。できるか分かんないし。
ていうか、なんだろうこの人。やけに用意がいい。
よっこらしょ、と年寄り臭いかけ声を出しつつ、僕は恩戸くんの後ろのシートにまたがった。
実は初タンデム。
西門を出たバイクが、ウインカーを出して左折する。
「あ、そっち先輩の最寄り駅の方向……」
言いかけた僕に、
「大丈夫、先輩は商店街の方向に走ってる」
きっぱりと答える恩戸くん。
ぽいと投げられたスマホを受け取る。
画面には地図アプリが起動している。最大縮尺まで拡大された地図の上で、赤い点がゆっくりと商店街の方向に移動していた。
「え、これGPS? どうやって?」
「さっきチェーンぶつけたろ、あのときに先輩に発信機付けた」
存外ゲスい。