その2.日本刀VSドッジボール
「つーか、ここどこ?」
先輩の言葉に僕は周囲を見る。
古びた建物の裏。日当たりの悪い草地。たちこめるドクダミ臭。
「さぁ……なんか適当に、人のいなさそうなところに……」
「あー、分かった。敷地内だ。さほど離れてないな」
一人で納得したあと、僕に向き直る先輩。
その立ち方が相変わらずの臨戦体勢なのを見て、僕はちょっと眉を下げる。
「一度もこの話したことなかったじゃないですか。てっきりスルーしていく流れなのかと」
「馬鹿言うな。こんな面白いもん、使わんくてどーする」
ちょっと浮かれた感じで言うなり、先輩が右足で大きく踏み込む。踏みしめた小枝がぱきんと折れた。
ごう、とものすごい威圧感やら突風やらとともに繰り出される、右手の拳。
慌ててそれをかわすなり――ただの小石が、弾丸のように猛烈な勢いで僕の肩口を掠めて後方へと飛んでいった。肩周辺の皮膚が、数瞬遅れてぞわりと粟立つ。
息つく間もなく、先輩の周囲の空間に浮き上がる無数の小石。いたずらっこそのものの良い笑顔を浮かべた先輩がそれらを一斉に僕に向けて放ち、僕は半歩身を引きながら中空でそれらを失速させた。
ぼとぼとと地面に散らばったのは、やっぱり、どこにでもある、ただの小石だ。
異常を察知したらしい周辺の野鳥たちが一斉に木々から羽ばたいた。群れをなして空の向こうに遠ざかっていく。
ちゃきり、と金属製の鍔が硬質な音を立てる。
「え?」
いつの間にやら、先輩が両手で持っているのは――見事な刃紋の、黒い日本刀。
「せぇやああ」
構えなど何もなく、ただ勢いのままに刀を振りかぶって突っ込んでくる。
「せ、先輩それなし! 死ぬって!」
「しょっぱないきなり強制テレポートかました奴に言われたくねぇ!!」
銃刀法違反ばりばりの先輩から即座に距離をとって、近くの木の裏に逃げこみつつ、僕は叫ぶ。
「てかそれどっから出したの!」
「念じりゃ出るだろ、これくらい」
「先輩はふつうの人間ってものを知らないね?」
僕が言うと、先輩はフンと胸を大きくそらして、断言。
「俺が標準だ」
「そうでした」
先輩はこういう人でした。
……ていうか。とか言いながらも。
目の前の、あり得なさすぎな光景に――
でもどこか漠然と、なんでだか、僕も同じことができると確信していた。
だから、また刀を振りかぶって駆け込んでくる先輩を前に。
僕は、両手を頭上に向けて、叫んだ。
「なんかこう――鉄板的な!」
ドシン、と目の前に降ってくる黒い一枚の鉄板。ぶつかりそうになった先輩がつんのめる。
「で、なんかこう――!」
僕は半歩引いて、空っぽの左手を振りかぶって――投球。
ぼっすん。
「ぶぇ」
僕の手から放たれた球体が、先輩の顔面に直撃。
ぶざまにすっ転んだ先輩の横に、剥き身の刀が落ちる。
その近くにころころと転がる、大きめのボール。あれだ、小学校低学年のドッジボールとかで使う、パステルカラーの、ふわふわのやつ。
なにやらうめいていた先輩が、がばっといきなり身を起こす。
「なんっで! 俺が! せっかく! かっこよくしたのにお前はー!!」
「やー、慣れたもののほうが使いやすいかと思って、つい」
この平和な世界で、遠慮なく人にぶつけたことのあるものって、とっさに思いついたのはドッジボールと、あとは枕くらいだ。我が家の兄弟喧嘩は大抵が枕投げで始まり枕投げで終わる。
赤くなった鼻をこすりながら立ち上がった先輩が、地面に突き刺さったままの鉄板をがすんと蹴る。
「これも、なんだよ! あ、お好み焼きくせぇぞこれ」
「昨日の夕飯行ったあの店のですかね」
「戻しときなさい」
このテーブルの人、ごめん。
「ったく。じゃあせめてこーいうのにしろや」
言い終えるなり、先輩がさっと両手を広げる。
身構える僕の前で、がさがさと枝葉か鳴る音が、徐々に大きくなる。何かが猛スピードで近づいてくる気配。
枝葉を散らし、正面の茂みから飛び出してきたのは、錆びついてひしゃげた放置自転車。
見上げた僕の上、空中でチリンと、右ハンドルに付いたベルが鳴る。
轢き殺そうとするかのように突っ込んでくるその暴走自転車を――
左足を振り上げた僕は、横薙ぎに蹴り飛ばした。
鋭角に進路を変えた自転車が、建物の壁に激突する。
カゴがぐんにゃりと形を変え、後輪の泥除けが粉々になって、破片が飛び散る。
衝撃で外れた前輪が、蛇行しながらしばらく転がったあと、へたりと倒れた。
僕は両足で着地。膝を曲げても衝撃を殺しきれず、スニーカーのかかとがぬかるむ地面を深くえぐって直線状の溝を刻む。
ようやく止まったところで、僕はゆっくりと息を吐いた。頬を、つぅと汗がつたう。
顔を上げれば、変顔中の先輩と目が合った。
「……お前さ、写真部とか嘘だろ?」
「嘘じゃないですよ。小、中、高と万年文化部です」
額の汗を袖で拭う。
嘘は言ってない。ただ。
「運動が苦手とは、一度も言った覚え、ないですけど」
僕はそう答えながら、ずっと背負ったままだったバックパックを、どさりと地面に下ろす。
加減が分からなかったから、迂闊に人前で運動できなかっただけだ。
そういう先輩は、元高校球児でエースナンバーだったらしい。前に自慢された。
僕が下ろしたぱんぱんの荷物を見て、先輩は唇をとがらせる。
「なんですか余裕ですか」
「先輩がいきなりふっかけてきたからでしょーが」
不満そうな先輩の貧乏揺すりを眺めつつ、僕は両腕をほぐすように回して。
どこか遠くで、飛行機の重低音。
僕は先輩を見ながら、指を曲げて、くい、と引き寄せる。
「うお」
がくん、と何もないところで、前方につんのめる先輩。
近づこうとした僕の足元の地面が波打ち、猛烈な勢いで隆起した。
目の前にいきなり出現したのは、どこぞの城壁のような、岩壁の分厚いバリケード。
その壁面からいくつものでっぱりがにゅっと現れて、無数の礫つぶてが飛び出てきた。
僕めがけて飛んでくるそれを、さっきの小石の要領で全て落としてから、僕はしゃがみこんで、地面にトンと手をついた。
指先の触れたところから、地面がべきべきと音を立て、太い亀裂が走る。
いくつもの亀裂は、先輩が作った岩壁の根元に集約していき――崩れ落ちる瓦礫の衝撃で、大地が大きく揺れた。
もうもうと立ち込める土煙の向こうに、先輩の仏頂面が見える。
その、僕の視界が、突如としてぐにゃあと歪む。
…………なんだ、これ。
平衡感覚が揺らぐ。
どうしたものかと考えて――
「……よし。つ、か、め、る!!」
根拠のない断言とともに、神経を尖らせて掴んだ。ぐにゃりと柔らかい感触。
物体なのか何なのかよく分からない『それ』を捉えた僕を見て、先輩が嫌そうな顔をする。
「なんでだよ!!」
「知らないよ!!」
こんにゃくみたいなはんぺんみたいな『それ』を持ち上げ、蹴り上げて、遠方に弾き飛ばす。
にわかに、視界が元に戻る。
その向こうで、先輩が、右の拳をぐっと握るのが見えた。
ごうぉ、と音を立てて、沸き立った熱風が僕の頬に迫る。
周囲の緑が赤に照らし出されて、影が伸びる。
先輩の手のひらには、燃えさかる火の玉。
一瞬で消し炭になった枝葉は、踏みしめるなり脆く崩れて風に流れる。
「くっせぇ」
先輩が呟く。ゴムかプラスチックか、何か燃やしちゃいけないものが焦げたにおいが漂ってくる。くさい。
「ダイオキシン召喚しないでくださいよ」
「うっせぇ」
ぽいぽいと火の玉を投げてくる先輩。
木の間に逃げてそれをかわしつつ、見様見真似で、僕も同じようなものを作っては投げる。
炎が飛び交い、またたく間に周囲の気温が上がる。
「あ、」
ふと目の端に捉えた、蜃気楼の先で立ち上がる赤。湿った草木の上に落ちたばかりの茶色い葉が、めらめらと燃えていた。
「先輩これナシ! 火事になる」
「火事が! なんだー!!」
手の中の炎を消した先輩が、そう叫んで両手を振り上げると――突然の局所集中豪雨!
一瞬で濡れ鼠になった先輩が、僕の持つビニール傘をジト目で睨んでいる。
もの言いたげな視線を受けて、僕は言った。
「メガネ民は、雨の気配に敏感なんです」
「敏感すぎるだろ……へっきち」
「先輩、やっぱくしゃみ可愛いよね」
「黙れ殺すぞ」
「あ、消し残し発見」
僕はペットボトルのお茶をボヤにかけた。じゅう、と、小気味よい音を立てて鎮火して、あたりに白い煙だか湯気だかが充満する。
「お前、それ俺のお茶じゃね」
「うん、たぶん。空になった」
「フザケンナ」
空のペットボトルを「ごちそうさまでした」と言いながら先輩に返す。
受け取るなり振り回されるペットボトルをかわして、
「先輩、そのまま」
「ん?」
「せぇい」
すぱぁん。
さっき先輩が振り回していた日本刀で、ペットボトルを一刀両断。底の部分がぼとりと地面に落ちる。
「おお。さっすが、切れ味いいですね」と僕。
「ふん」と先輩。
ばきん、と僕の手元で音がした。
鍔のところから刃が折れて、ぼとりと落ちる。
「あーもったない……」
「自分で造れや」
僕は柄だけになった日本刀をぽいと地面に落とした。
「……そいえば、なんで日本刀だったの?」
「さいきん流行ってるだろ、女子の間で」
「もうだいぶ経ってますよ。……うーん、なら僕は戦艦でも出すべき?」
「擬人化したほうな」
勝てる気がしない。
お互い、両腕をだらりと下げたままで向かい合う。
ただ突っ立っているだけだが――ばりばりと、周囲の木々が引き裂かれるような音が四方から轟く。さっきからずっと続いている地鳴りが、一段と大きくなる。
むちゃくちゃな上昇気流に乗って、次々と枝葉や小石やらが空に吸い込まれていく。急激に枝を伸ばす木々の隙間からかすかに見える暗い空には分厚い暗雲がたちこめ、ゴロゴロと雷鳴が轟き、閃光がほとばしる。
双方睨み合い――
――ふっと、同時に力を抜いた。頭上で暴れ狂っていた木々の動きが収まる。
崩れ落ちたのは僕のほう。
「いったた! 足つった!」
「くそだせぇー! 俺いま何もしてねぇー」
げらげら笑う先輩。
変なところに力が入っていたらしい。
ごうぉ、と先輩の手に何かが集まる気配。
僕はしゃがみこんだまま、慌てて後ずさり。
「待って待って待って!」
「うっせぇ! タイムなーし!」
「ひど」
意気揚々と向かってくる先輩の鼻先、何もないところで、バン!とデカい衝突音。
先輩が何もないところで、壁に当たったみたいな動きをして、そのまま、パントマイムみたいにずるりと崩れ落ちた。
「おお、やった、バリア出せた」と僕。
泥のついた上体をがばっと起こして、先輩が悔しそうに叫ぶ。
「ノーサインなしー!!」
「えー、いいじゃん別に」
神妙な表情になった先輩が、やけにハキハキと言う。
「お前は、技名を叫んでから殴ることの大切さを、なにひとつ分かってない」
「うーん、そういうのも好きだけど」
うん、マンガの話。
「ノーモーション、ノールックも、かっこよくない?」
「俺ぁ古き良き古のオタクだからそーいうスタイリッシュなのは認めねぇ」
「昔の作品にも色々あったよーな」
てか別に技名言うの古くないし。
ええと、と長考に入ろうとした僕の耳に届く、きゅぅう、という腹の音。
先輩のだ。
可愛いって言うとまた怒るので黙っておく。
「あれ? そういや俺の昼飯は?」
先輩が周囲を見回す。ここに来たとき、荷物は持っていなかったはず。
「さっきのベンチのとこじゃないですかね。……あれ?」
茂みを掻き分けさっさと去っていく先輩の背中を、バックパックを掴んだ僕は小走りに追いかける。
「先輩、もういいの?」
「腹減ったし、キリねぇし。続きは今度」
「ふぅん」
たぶん、お互い全力まで出していない。
良く分からないけど、なんとなくそう思う。
室外機のウンウン唸る砂利道に出たところで、
「あー!」
先輩の悲痛な叫び。
ゴミやら枝葉の間に、ぺっちゃんこになった紙製のランチバッグが見えた。
そして、その袋に、さっきのトラ猫が頭をつっこんでゴソゴソやっている。
その場にへたりこんだ先輩が、力なく、とある店の名を呟く。
「えっあれが? 並んだんですか先輩」
整理券配布してるのに平日朝からニブロック先まで大行列になる、あの有名パン屋のサンドイッチ。ランチ一食に四桁は、学生にとっては結構な贅沢だ。
「パン屋じゃねぇ! ブーランジェリーだっ」
「地の文読まないで先輩」
復活したらしい先輩の、猫に向かってずんずん進んでいく背中に慌てて声をかける。
「せ、先輩」
猫の前にしゃがみこんだ先輩は、むすっとした顔のまま、ただひたすらに猫の背をナデナデしていた。
そうだった。いついかなる事情があろうとも、にゃんこは正義だった。
「美味いかー」
ほぼ完食だ。
「あーあ、地に伏すお前の頭を踏みつけて高笑いしながら優雅に食べようと思ってたのに……」
完全に悪役だ。
「そうと分かってたら先にこれだけ奪取しとけば良かった」
ぼやく僕の横、猫の毛並みを堪能し終えたらしい先輩はすっくと立ち上がり。
「学食行くぞ! 詫びにおごれよ!」
「いやこれ吹っ飛ばしたの先輩だよね?」
「うるせぇ。俺B定食な。あ、卵付けろよ」
やいやい言いながら砂利道を戻り、
「あ。……あーあ、」
僕がそう言って指さした先。茂みの向こう。
外壁がごっそりとえぐれて、無数の細かい破片となって落ちていた。
器物損壊だ。
「あ。先輩、直せたりします?」
先輩はしばらく真剣な表情でじっと立ちつくしていたが、黙って首を振った。