①クリスマス・イブ
ここからはエピローグ。
本編の終了後には、怪人図鑑とゴーストライター図鑑を掲載します。
宜しければご覧下さい。
「……ここは」
長く寝息だけが流れていた病室に、佳世の声が混じった。
雲間から漏れ出た陽光が、五畳前後の病室をぼんやり照らしている。
真っ白いベッドの横には、三日前に渡した白薔薇が飾られていた。コーラの空き瓶を再利用した一輪挿しが、いかにも小春らしい。
記憶が混濁しているのか、佳世は後頭部で枕を擦るように辺りを窺う。何となく首の動きがぎこちないが、二週間も眠っていれば、筋肉が凝り固まっていても無理はない。
「佳世!」
慌ただしく叫んだ小春は、腰掛けていた丸椅子を蹴倒し、ベッドに飛び付く。
一応、私服姿だが、パーカーにハーフパンツと言う装いに制服からの変化は感じられない。三日前よりまた少し頬が痩けただろうか。逆に目の下のクマは濃くなっている。朝六時前に家を出て、面会終了時間まで付き添っていたら、睡眠も食事もまともに取れるはずがない。
変化があれば連絡を入れる。一日くらい休んだら?
一週間前、軽く提案したら、真っ赤な顔で言い返されてしまった。
佳世が寝込んでるのに、布団を被ってなんかいられない!
「春ちゃん……? 私、なんで……? ここ、びょう……」
唐突に言葉を詰まらせた佳世は、何か恐ろしいものでも見付けてしまったように空中を見つめる。震える唇から漏れる「あ」と「う」の混じった音は、声になり損ねた狼狽だろうか。
「そうだ、私、春ちゃんを……」
自分の行為を口にした瞬間、佳世は点滴を横転させながら飛び起きた。何回も躓きながら窓辺へ走った彼女は、乱暴に窓を開き、窓枠に跨る。
強い冬風が佳世に吹き付け、パジャマの裾を大きく揺さ振る。窓の外に出た足は危なっかしくふらつき、彼女を空中に投げ出すタイミングを窺っていた。
今にも身を投げてしまいそうな佳世を目にした小春は、四つん這いになりながら駆け出す。土足のままベッドに跳び上がり、最短距離で佳世に駆け寄る。
「来ないで!」
鋭く拒絶を響かせた途端、佳世は激しく咳き込み、ガラスを白く染める。寝起きに大声を出したせいで、喉を痛めてしまったようだ。
怒鳴られた小春は足を止め、手を伸ばした状態で固まる。寒風を浴びているはずの頬を汗が伝い、唾を飲んだだろう喉が大きく波打つ。
「私、沢山の人を傷付けた。春ちゃんを殺そうとした……」
掠れた声を漏らした佳世は、生白い息を追い、冬空を見上げる。血色を失った手が胸元を握ると、虚ろな瞳に曇天特有の暈けた太陽が映った。薄く影を蓄えた目尻が震えだし、萎びた果実から無理矢理搾ったような水滴が頬を伝う。
「私、生きてちゃいけない。春ちゃんに優しくしてもらう資格なんてない」
素直に非を認める佳世と、
自分の正しさを信じて疑わなかったネズミの女王――。
確かに顔は同じだが、二人は同一人物なのだろうか?
オカリナが破壊されたことで、正気を取り戻した? いや調査に調査を重ねても、オカリナに人間の精神を害するような機能はなかった。
恐らくあの時は、再三邪魔立てされたことで冷静さを失っていたのだろう。したり顔で説教するチャラ男に対し、意地になっていた部分もあるのかも知れない。
そして何より、佳世は小春の言葉を聞いた。凶行の基盤にしていた小春の訓示が、絶対に正しいわけではないと知ったのだ。
元々、親友の言葉を鵜呑みにしてしまうくらい純朴な少女だ。先入観――あるいは免罪符なしに自分の行いを省みれば、責任を取ろうとするのは当然のことだろう。
ただ小春が勇気を振り絞り、親友と向き合ったことで、佳世の命が失われようとしているなら、それはあまりに残酷だ。皮肉が利きすぎていて、いないと知っているはずのカミサマに金串を叩き込みたくなる。
「さよなら、春ちゃん」
別れを告げた佳世は、涙を滲ませた顔に微笑みを加える。小春の顔をしっかり焼き付けると、彼女は目を閉じ、地面の方向に身体を倒した。
彼女の頭が窓枠を越え、風を浴びた髪が踊る。無抵抗であることを示すように両腕を開くと、細い手首から患者認識用のリストバンドが滑り落ちた。
本来なら即駆け出さなければならない状況を前にしても、この足は動かない。
いや、動かす必要がない。
佳世の隣には、必ず手を掴んでくれる人がいるのだから。
悠長に見物している内に、予想通り佳世の身体が止まる。
顔面に白い鼻息を浴びた佳世は、おずおずと瞼を上げていく。
涙を滲ませた瞳が映したのは、こめかみに血管を浮かせた小春。
空中に投げ出されようとする佳世を繋ぎ止めているのは、固く重なり合った二つの手だった。
「お願い、放して……」
小春に懇願し、佳世は痛々しく顔を歪ませる。
「耐えられない。耐えられないよ。私、大勢の人に血を流させちゃった」
忌々しげに手を見つめる彼女の姿に、狂った人殺しが重なる。その瞬間、寒風に血色を奪われているはずの佳世が、全身真っ赤に染まった。
「私なんかの手握ってたら汚れちゃう。春ちゃんの手まで汚れちゃうよ」
佳世は額を汗で濡らしながら訴え掛け、小春を振り払おうとする。
小春は答えを返す代わりに彼女の手を握り締め、佳世を室内に引き戻した。激突して体勢を崩した二人は、ケンケンで病室を横断し、ドスンと尻餅を着く。
「私の手がきれい? そんなはずないよ。熊谷先生たちの血は私の手にもこびり付いてる。これは佳世だけが背負う色じゃない」
迷わず言い切った小春は、佳世を覗き込み、首を横に振る。
転んだ拍子に擦ったのか、小春の手の平には掠れた血が付いていた。
「私のせいだ。私が勝手な真似したせいで、春ちゃんの手が汚れちゃった。私、取り返しの付かないことしちゃったよ」
押し潰すように身体を縮め、佳世は繰り返し自分を詰った。
弱々しく震える手が髪を掻き回し、取り留めなくつま先が前後する。伸びた爪が床を擦ると、病室に神経質な音が響いた。
「……取り返し付かなくなんてないよ」
静かに呼び掛け、小春は佳世と手を重ねた。
「私たちは沢山の人を傷付けた。でもね、誰も殺さなかった。殺さなかったんだよ。私たちはまだ謝れる。謝れるの。あいつが傷だらけになって、謝れるようにしてくれた」
小春は一瞬、窓に視線を移し、片故辺学園のある方向を見る。らしくもなくしおらしい眼差しを見ていると、足の裏がどうにもくすぐったくなる。
「すっごく怖い思いさせて、とっても痛いことしたんだよ? 許してもらえないよ」
「だったらまた謝ろう。許してもらえるまで謝ろう。二人で謝ろうよ」
懸命に励ますと、小春は両腕を広げ、佳世を包み込んだ。
胸と胸が密着し、小春の顎が佳世の肩に乗る。
「もう絶対独りにはしないから」
ベージュのカーテンがふわっとはためき、冬にしては柔らかい風が病室を訪ねる。空っぽのベッドがそっと撫でられると、ピンと張ったシーツに穏やかな波が走った。
力が抜けたのか、佳世はゆっくりと後ろに倒れていく。丸まった背中が壁を滑り落ちると、すすり泣くような音が漏れた。
「……ごめんね」
震える声を絞り出した佳世は、手で口を覆い、涙と鼻水で顔を濡らす。
「……ごめんね」
小春の瞳から涼やかな涙が旅立ち、顎に透明な線を引く。
泣き顔を向かい合わせた二人は、のろまな雲が太陽を横切るまで、ただ「ごめんね」を輪唱し続けた。




