⑦窮地
〈ダイホーン〉の全身を循環する光は、ピンチになると点滅します。
絶体絶命になると光が点滅するのは、ヒーローのお約束なのです。
ちなみに、〈ダイホーン〉に変身していられる時間に制限はありません。
ごご……ごごご……。
重々しい鳴動の発信源は、グラウンド・ゼロと化した歩道橋。
高々と積み重なった階段を橋桁を掻き分け、岩壁と見紛う影が起き上がる。
シワに赤サビを溜めた王様だ。
口角を引きちぎらんばかりに開いたその顎は、トラックほどはあろうかと言う瓦礫を挟み込んでいる。
この世のものとは思えない光景を見た小春は、暴れるのを忘れ、呆然と立ち尽くす。〈ダイホーン〉も東京タワーの大変身や、ひっくり返る島で免疫を作っていなかったら、火が出るほど目を擦っていただろう。
デヴァ!
スローインっぽく王様の頭が前後し、出っ歯から瓦礫がすっぽ抜ける。月の正面まで飛び、逆光を浴びたそれは、墨へ浸けたように真っ黒く染まった。夜そのものが落ちてきたように視界の上半分が塞がれ、〈ダイホーン〉の全身を暗闇が塗る。
「口閉じて! 舌噛む!」
早口で命じた〈ダイホーン〉は、水牛に突剣を咬ませる要領で小春の下顎を押し上げた。
カスタネットする奥歯を尻目に圧縮空気を噴き出し、一気に下がる。直後、投擲のエネルギーを使い切った瓦礫が、〈ダイホーン〉の真正面に落ちた。後一瞬後退するのが遅ければ、片故辺の種牛が「のしいか」になっていただろう。
地面に落ちた瓦礫はドラム缶のように跳ねながら、〈ダイホーン〉の直下を潜り抜けていく。一際突き出た鉄筋がかかとを掠めると、電気的に再現された触感が根性焼きwithミケランジェロさんにそっくりな痛みを伝えた。
デヴァ……!
空中の〈ダイホーン〉を見据えた王様は、組み伏せんばかりに地面へしがみつく。今までになく鋪装に爪を食い込ませ、分娩中の妊婦のように息み出す。
王様の背中にあるヒダが互いに揉み合い、無数の水疱を捏ね上げていく。新鮮に艶めく球体は、拳大のイクラとでも言ったところか。サーモンピンクの薄皮は、忙しく動き回る何かを透かしている。
〈ダイホーン〉はズーム機能を使い、バイザーに搭載されたカメラを水疱に寄せてみる。
モニター一杯に表示されたのは、今にも飛び出さんばかりに暴れ狂うネズミたち。
迂闊だった。
餓鬼に出来た機関砲が、同じくネズミの集合体である王様に出来ないはずがない。
王様の背中に出来た水疱の数は、ゆうに五〇〇〇を超えている。あれだけの数が一斉に孵化したら、夜空をネズミが埋め尽くすのは間違いない。
逃がせ!
脳内から怒鳴られた〈ダイホーン〉は、クッション性の高い植え込みに小春を投げる。瞬間、水風船のような破裂音が耳の奥へ突き刺さり、王様の背中から濁った飛沫が噴き上がった。
次々とイクラが弾け、弾け、弾け、泥色の羊水が吹き荒ぶ。怒濤の砲撃が〈ダイホーン〉に迫り、迫り、迫り、視界を肉色に塗り潰す。もはや避ける避けないの次元ではない。この状況を無傷で突破出来るなら、土砂降りの雨も一切濡れずにやり過ごせるはずだ。
それ以外の手段を封じられた〈ダイホーン〉は、マントを振り、振り、振りまくる。嘘の水面を捉えられなかったネズミたちが、滑り、滑り、滑りまくる。
追い付かない!
翻したマントがはためき終える前に、一〇〇匹を超えるネズミが懐に潜り込んでくる。
轟々と押し寄せる肉弾が全身を滅多打ちにし、青い装甲から火花が吹雪く。骨格が歪み、撓り、マリンバのように鳴り、痛みに堪えるために噛み締めた唇から血が滲み出す。意識を暗闇に侵食され、指一本動かせなくなった五体は、ネズミの流れに運ばれるまま斜め上に飛ばされていった。
デバァ……。
大仕事を終えた達成感からか、羊水でずぶ濡れになった王様が息を吐く。生臭い白煙と入れ替わりにネズミの掃射がピタリと止まり、サーモンピンクに曇っていた空が晴れ上がる。
ネズミから〈ダイホーン〉を譲渡された重力は、模範的な大の字をビルの屋上へ投げ込んだ。
急降下を受けた給水タンクが破裂し、五階分の激流が溢れ出る。打ちっ放しのコンクリを浅瀬に変えたそれは、鉄柵の隙間から流れ落ち、ビルの外壁に幾つもの滝を作った。
冷水に脳髄を刺された〈ダイホーン〉は、自身の幸運に感謝せずにはいられなかった。
実にいい場所に落ちた。
気付けの水でもぶっかけられなければ、確実に意識を失っていただろう。
小春は、小春はどうなった……!?
自問に尻を叩かれた〈ダイホーン〉は、何とか地面を掻きむしり、屋上の端まで這う。落下防止用の鉄柵にしがみつき、眼下を覗き込むと、用心棒を失った小春を餓鬼が囲んでいた。
極限の恐怖に瀕した彼女は、悲鳴を上げることも出来ずに顔を引きつらせている。脱げかけた靴は必死に背後を踏んでいるが、心細げに丸めた背中は大分前から塀に密着している。
震える唇が視界に入った瞬間、〈ダイホーン〉は反射的に地面を蹴る。
高々と飛び上がったのは、身体ではなく水飛沫。
真っ先に打ち上がらなければならない足は折れ、こともあろうに膝を着く。空中を掘り進まなければならない頭は下がり、だらしなく肩を沈める。
身体が、身体が……重い。
何度靴底を地面に叩き付けても、鉄柵の向こうに飛び立つことが出来ない。
足下から噴き上がる水滴だけが、見せ付けるように夜空へ身を投げ出していく。
言うことを聞かない身体と格闘している内に、喧しい警告音が〈ダイホーン〉の耳を刺す。瞬く間に仮面の中が赤く染まり、簡略化された人体図がモニターに浮かんだ。頭、胴体、手足、×の付いていない部分はない。
足下の水溜まりには、カラータイマーっぽい点滅が映っている。〈ダイホーン〉の全身を巡る流動路だ。本来は絶え間なく輝き、一本の流れを描いているはずのものだが、ダメージのせいで〈発言力〉の循環が乱れたらしい。
地面に手を着き、膝を笑わせるばかりの軟弱者に見せ付けているのだろうか。
何ら障害などないはずの餓鬼が、ゆっくりと小春ににじり寄っていく。肩の後ろまで振り上げた爪は、鎌のように凶悪な光を灯していた。その気になれば、彼女の首くらい一瞬で撥ねられるだろう。
動け! 動け!
四肢を叱咤した〈ダイホーン〉は、指の跡が付くほどの力で鉄柵を握り締める。奥歯を噛み、歯茎から血を滲ませ、情けなく震える膝に力を込める。
だが、身体は動かない。
関節と言う関節が、痛みに錆び付かされている。何とか前に飛び出そうとしても、いたずらに前後
する頭から血染めの水滴が飛び散るばかりだ。




