④開戦
なぜ怪獣の名前が「王様」なのか?
ネズミのボスと言えば、浦安の……ね。
「邪魔するな!」
佳世は火の粉もお構いなしに熱気を呷り、オカリナに注ぎ込む。
デヴァ……!
苛烈に追い立てられた王様はひっくり返らんばかりに仰け反り、腕を背中の後ろまで振り上げる。寒月を背にした巨体から大海のような影が伸び、小春と改を呑み込んだ。冷たい月光を遮られただけの身体に寒気が走り、改の背筋を濡らす汗が温度を下げていく。
デヴァァ!
破滅の始まりは、ガス爆発にしか聞こえない絶叫だった。
直立状態だった王様が倒れ込み、ビルが崩落した時のように大気が呻く。向かい風に震えていた太鼓腹が、重力に引き寄せられた拳が大地を押し潰し、粉々になったアスファルトが乱れ飛ぶ。激烈な震動が周囲の物体を突き上げると、逆さまの状態で転がっていた霊柩車がメンコのように跳ね上がった。
不格好なムーンサルトを披露した車体が、改の目の前に飛び込む。
潰れたボンネットから火花が上がった瞬間、双眸を突き刺す閃光。
ガソリンを満載した車体が一気に吹き飛び、津波と見紛う猛火が地表を洗う。
紅蓮の波濤は龍のごとく蜷局を巻き、背後の小春ごと改を呑み込んだ。黒煙を吹き付けられた血がかさぶたに速乾し、脂汗で濡れていたシャツが糊を貼ったように角張る。
「これでもう誰も春ちゃんを傷付けられない」
一部始終を見届けた佳世は、肥えた黒煙を追い、空を見上げる。
細い顎が外れんばかりに開くと、高笑いが霊柩車の燃え盛る音を掻き消した。
裏返った声を聞く限り、彼女が狂喜していることに疑いを抱く人間はいないだろう。
だが現実には、瞼を腫らしたその顔は、頻繁に鼻を啜っている。物悲しく充血した瞳からは、一滴また一滴と小さなしずくがこぼれ落ちていった。
「あれ、どうしたのかな? 嬉しい……よね? 嬉しくなきゃいけないんだよ。春ちゃん、もう一生嫌な思いをしなくていいんだから」
感情とは真逆の生理現象に不快感、あるいは不気味さを感じたのだろう。
佳世は忙しく袖を往復させ、目を拭う。
残り火に顔を近付け、瞳を乾かそうとする。
だが払拭する側から涙は溢れ出し、煤けた頬に透明な線を引く。
「……嬉しいはずないだろ、もう二度とその温かさに触れられないのに」
なぜ自分の本心が判らないのか?
焦れったさとも苛立ちとも付かない感情が、吐き捨てるように指摘させる。
大体、本当に小春を殺したいなら、ひと思いに王様の拳を叩き付ければよかったはずだ。霊柩車を撥ね飛ばし、爆炎で焼くなどと言う遠回しな手段を使ったことが、何よりも彼女の本音を物語っている。
〈ダイホーン〉は八つ当たりするように地面を踏み付け、乱暴にマントを振った。周囲を包んでいた炎が一気に吹き飛び、マントの中に隠れていた小春が表に出る。
熱気で喉を痛めないように呼吸を止めていた彼女は、吸い損ねた分を取り戻すために息を掻っ込む。慌てるあまり刺激臭のする黒煙まで吸い込むと、彼女は気道に異物が入ったように激しく咳き込み始めた。
「……しつこい男」
冷ややかに呟いた瞬間、佳世の瞳に暗い炎が映り、涙が蒸発する。仄かに濡れていた頬が乾くにつれて、彼女の顔は鉄仮面のように感情を失っていった。
あんな表情を興味を持たれただけで小躍りする男に向けている?
にわかには信じられない。
とは言え、小春への入れ込み具合を考えれば納得も行く。
佳世は決して、心にもない言葉を口にしていたわけではない。改に恋心を抱いていたのは、純然たる事実だろう。本質的には無垢な彼女に、演技が可能だったとは思えない。
ただ、梅宮改に寄せているのは、あくまでも「好意」に過ぎない。
対して小春に抱くのは、不可侵の「崇拝」だ。
唯一無二の神様を永遠の安寧にご案内する邪魔をしたなら、淡い想いを恨み辛みで上書きするのも無理はない。
デバァ!
女王の憎悪が伝染したのか、王様は生えていない体毛の代わりにシワを逆立たせる。凶悪な嘶きを浴びた〈ダイホーン〉は、今にも飛び掛からんとする巨体に銃口を向けた。
鈍く疼く筋肉に抗い、水牛に覆われた右手を上げる。途端に肘から先が大きく震え、水牛の鼻輪をかちゃかちゃ鳴らした。
重い……。
右腕が、右腕の重さが、無傷の時と違う……。
まるで手首に岩石を括りつけられたようだ。
肘が抜けたように腕が揺れ、水牛の目から放たれるレーザーポインターがふらつく。だらしなく「8」の字を描く光線が佳世に流れると、〈ダイホーン〉の腕に華奢な手が重なった。
〈ダイホーン〉は一度銃口を下げ、王様を睨んでいた目を懐に移してみる。
水牛にしがみついた小春が小さく、だが必死に首を振っていた。
……そうだ。
敗北は梅宮改の死ではない。
昼休みの教室から、向かい合わせの机が消えることだ。
例えこの首が胴体から離れようとも、ネズミ以外に銃口を向けるわけにはいかない。
佳世を傷付けずに事態を収拾する――。
将棋に置き換えるなら、飛車角金銀桂馬香車落ちと言った具合か。
佳世の手元にある以上、遠方からオカリナを狙撃する手は使えない。金串はおろか最も低威力の紅生姜でも、ボディーガードの餓鬼ごと彼女を解体するおそれがある。
佳世に接近し、意識かオカリナを奪う――それもまた歩のみの一局だ。
目的地へ辿り着くためには、ネズミの大群を突破しなければならない。無論、王様も黙ってはいないだろう。
光明はいつ現れるか判らない「と金」のみ。
だが、やるしかない。
こと世界中の難題には、一つの共通点がある。
無理な理由を考えるより、手を動かしたほうが勝算は高い。
腹を括った〈ダイホーン〉は、中途半端に溜まった息を吐ききり、新鮮な酸素を吸い込んだ。視界が晴れると共に右腕の震えが治まり、レーザーポインターが王様の眉間に止まる。
「さあ、踊ろうか」
「いい! もういい! 何もかも! みんな! 全部! ブッ壊してやる!」
半狂乱に陥った佳世は地団駄を踏み、滅茶苦茶に髪を掻きむしる。
ちぃ! ちぃ! ちぃ!
とぉ! とぉ! とぉ!
女王の怒声に追い立てられるように餓鬼がネズミの大群が駆け出し、地面の残り火を踏み消していく。照明の少なくなった世界がより濃い闇に包まれると、王様のシワ――ヒダとヒダの間に溜まる影が僅かに水位を上げた。
ちぃ!
〈ダイホーン〉の背後から掛け声が上がり、ネズミを実らせていた街灯が肉色の鉄砲水を吐き出す。素早く振り返った〈ダイホーン〉は、下から上に嘘の水面を纏ったマントを払う。
肉色の鉄砲水と青い生地が交錯した瞬間、マントの表面が生白く瞬く。髑髏を連打するはずだった大群は見事にスリップし、路傍の植え込みに突っ込んだ。
正面の餓鬼に水牛の角を突き立てた矢先、地上に蓋をする影。
王様の張り手だ。
のっそりと、それ以上に強く押し出された空気が地面へ吹き下ろし、マントの裾が踊り狂う。小柄なネズミたちは次々と巻き上げられ、くるくると天球の中心に呑まれていく。なすすべもなく吸い上げられる様子は、専用の掃除機で回収されるプレーリードッグに他ならない。




