②怪獣
〈ダイホーン〉の装甲に使われている金属は、〈超合金デッド〉と言います。
「Z」ではなく「デッド」です。あしからず。
「私の……せい?」
ぼんやり呟いた小春は、力なく四肢を垂らし、天を仰ぐ。
自分を全否定されたように放心するのも無理はない。
ポイ捨てされるのを恐れ、パン一つ買って来られないようにしたのは誰だ?
自分が嫌な思いをしたくない一心で、佳世を痛みから遠ざけたのは誰だ?
疑いようもなく醒ヶ井小春だ。
無論、全責任を小春に押し付けるのは誤りだ。何の疑いもなく依存してしまった佳世自身は勿論、小春に世話を丸投げした佳世の肉親にも問題はある。ただ、小春の取ってきた行動が僅かにでも違ったなら、ネズミの中心に佳世が立つことはなかっただろう。
「でもさあ、何でみんな春ちゃんを傷付けるのかなあ。やっつけても、やっつけても、また新しい誰かが春ちゃんを傷付けるの。キリないよね」
憂鬱そうに息を吐くと、佳世は投げやりにオカリナを振る。
「本当は世界を滅ぼしてあげたいんだ。そうすれば、春ちゃんを傷付ける人がいなくなるでしょ? でも無理。ネズミを操れるくらいじゃ、世界はやっつけられない。私、諦めようと思った。これから先もね、永遠にね、春ちゃんの敵を排除するって覚悟を決めてた」
冷ややかに言い放った佳世は、一転して含み笑いを漏らし始める。
「馬鹿だよね。そんな非効率的な真似しなくても、ずっといい方法があるのに」
宣言するや、佳世は勢いよく背中を丸め、オカリナに齧り付いた。急激に萎む彼女の頬が、真っ赤になった彼女の顔が、モスキート音を捉えられない耳に大音量の幻聴を聞かせる。
もしかしたら、小春としかまともに喋れず、他人に不満を伝えられない佳世は、オカリナの絶叫を自己主張にしていたのかも知れない。
だがそこまで辛抱しても、あけすけな言葉を呑み込み、遠回しな音色で伝えようとするほど配慮しても、彼女の訴えは他人の耳に届かなかった。凍えたように震えるオカリナの吹き口を眺めていると、佳世の瞳に涙が溜まっていないのが不自然に思えてくる。
どん! どん! どん!
感傷に耽っていられたのも束の間、硬貨にしか見えない距離にあるマンホールまでもがネズミを噴き上げ、鉄製の蓋が乱れ飛ぶ。同時にビル群の外壁を肉の濁流が駆け下り、ダムだった景観を大瀑布に変えた。信号から電線から養蜂場のように大量の残像が飛び立ち、空中をサーモンピンクに塗り潰していく。
いつか小春に言った通り、「人間」に〈詐術〉は使えない。
しかし父親が〈詐術師〉の佳世なら、話は別だ。
ほんの一滴でも〈詐術師〉の血が混じっているなら、〈黄金律〉はその人物を「人間」とは判断しない。そして最悪なことに、資質を持つものにとって〈偽装〉を使うのは酷く容易なことだ。
〈詐術師〉が〈偽装〉の使い方を学ぶのは、人間界で言う小学一年生の時だと言う。しかもハイネに言わせるなら、教師に教わる以前に、ほとんどの子供が自然と体得してしまっているそうだ。事実、自転車の補助輪を取るのに一ヶ月掛かった誰かでも、卒塔婆を使えるようになるまでには一日と掛からなかった。
ちぃ! ちぃ! ちぃ!
オカリナの音に導かれたネズミたちは、佳世の背後に集結し、レンガのように積み重なっていく。見る間に信号を見下ろすほどの巨壁が建設され、炎に照らされていたはずの舗道を濃厚な影が塗り潰した。前後して、爛々《らんらん》と灯った眼光が発疹のように壁を埋め尽くし、小春の全身に赤い点を打つ。
「見て春ちゃん! これが今の私だよ! あの阿久津佳世なんだよ!」
大群を操ってみせた佳世は、嬉々として胸を連打し、自分の存在を誇示する。
女王の興奮が伝わったのか、ネズミの壁が猥雑に蠢きだし、ふやけたコブを無数に沸き立たせていく。ぷくぅ……と膨れるそれが全体に広がると、長方形の壁は餅のように丸みを帯びていった。無数のコブが際限なく膨張した結果、サイズ自体も当初の三倍近くに迫ろうとしている。
過剰に肥え太り、車道に収まりきらなくなった壁が、ガードレールを歩道の側に押し倒す。ぎぎ……ぎぎぎ……と金属の軋む音は、開演を告げるチャイムだったのだろうか。横転するガードレールを見届けた佳世は、指揮者のように髪を振り乱し、オカリナを咥える顔を左右に振った。
敏感にモスキート音を聞き取った壁は、ぐねぐねと波打ち、パン生地のように自分をこね始めた。真ん丸かった壁が体重を掛けたように潰れ、前後に伸びていく。
コッペパンのような形が完成した瞬間、側面から生える四本の手足。
出来たてホヤホヤの四肢はすぐさま大地を握り、舗道に密着していた頭を僅かに浮かせる。直後、上の顎からサーベルタイガーを、下の顎からマンモスを彷彿とさせる牙がそそり立ち、鈍い光が小春を照らした。
デバァ!
しゃくるように星々を睨み付け、コッペパンは地鳴りのように咆哮を轟かせる。
無数の信号を縦断する巨体は、全長二〇㍍はあるだろうか。車道の右端から左端に達する幅と言い、今までこの道路が乗せてきた中で、最大のサイズであることに疑う余地はない。
暗褐色の体色に、目とは名ばかりの点。ネズミと言うよりオオサンショウウオに近い体型で、身体の三分の一をグローブ状の頭が占めている。短い手足では身体を持ち上げきれないのか、平たく潰れた腹はだらしなく地面を擦っていた。
「世界から春ちゃんは奪えない。なら春ちゃんから世界を奪えばよかったんだ」
穏やかに歯を覗かせた佳世は、愛おしそうにコッペパンの――いや、王様ネズミの脇腹を撫でる。王様が気持ちよさげに目を細め、頭を振ると、折り重なったシワがぞわぞわと震えた。
「……佳世が私を殺す?」
放心状態の小春は空中を見つめ、うわ言のように聞き返す。普段なら気絶して然るべきネズミの怪獣も、今の彼女には目に入らないのかも知れない。
「うん、殺してあげる。このまま世界と関わり続ければ、絶対傷付くもん」
断言すると、佳世は両手を背中で組み、艶っぽく笑う。
「春ちゃん、梅宮くんのこと好きなんでしょ?」
指摘を受けた瞬間、小春はビクッと背中を揺らし、瞼を痙攣させる。
「相変わらずだね、春ちゃんは。正直なの」
答え合わせに等しい反応を見た佳世は、口を覆い、くすくす肩を揺らした。
「春ちゃん、教えてくれたよね? 梅宮くん、私たちなんかには本気にならないって。好きになったら絶対嫌な思いするって」
確認を終えた佳世は、オカリナに息を注ぎ込む。
無音の命令を受けた王様は短く唸り、大木のような尾を左右に振り始めた。
突発的な暴風が電線を波打たせ、バイクを包んでいた猛火を吹き消す。ごぉ! ごぉ! と鼓膜に打ち付ける轟音、とても実体のない風が奏でているとは思えない。まばたきの瞬間に垣間見える光景は、巨岩に打ち付ける荒波だ。
「好きな男の子に冷たくされる――すっごーく痛いよね、私にはよく判らないけど。死んじゃったほうがいいよね、絶対」
佳世は深々と顎を沈め、オカリナに唇を当てる。
死刑執行を告げる笑みは、赤ん坊のように澄んでいた。
デヴァ!
王様は短く息み、唾の水溜まりを作り、一気に回る。暴虐な遠心力に後押しされた尾は、一瞬にして半円の残像に変わった。進路上の並木を車を薙ぎ払いながら、暗褐色の弧が小春に迫る。
宙を舞う木片をスクラップを目の当たりにした〈ダイホーン〉は、くるぶしのホルンから圧縮空気を噴き出した。
ノズル役の金管が絶叫した瞬間、爆炎のように膨らむ白煙。急加速に伴う重力がぐうっ……と胸を圧迫し、胃の中身を喉へ押し上げる。瞬間、壁の黒ずみまで綿密に描画されていた視界が、新幹線の車窓から外を眺めたような横線に変わる。常軌を逸したスピードに飛び込んだ結果、景色を目で追いきれなくなったのだ。
とぉ! とぉ!
行かせてなるものかと意気込み、〈ダイホーン〉の行く手を阻む餓鬼たちが手を伸ばす。前後左右から爪が牙が降り注ぎ、群青の装甲から止めどなく火花が舞う。進路上の餓鬼に突っ込み、肩で押し退ける度に、リフティングされたような振動が〈ダイホーン〉の全身を揺さ振った。




