①真相
いよいよラストバトルのスタートです。
衛生的にも問題のあるネズミですが、もっと直接的な被害をもたらすこともあります。
詳しくは本編をお読み下さい。
横倒しになったバイクが、月の底を焙るように炎を上げていた。
車道の真ん中には逆さになった霊柩車が転がり、黒煙を攪拌するようにタイヤを回転させている。膨れきったエアバッグは、フロントガラスを白く塗り潰していた。
垂れ下がった電線が火花を散らしたのをきっかけにして、手前から順に街灯が消えていく。闇に沈み、境目を曖昧にしたビル群は、ダムのような圧迫感を纏った。火達磨になったバイクに近い裾野だけが、曇った色に照らされている。
「うわぁぁぁ!」
惨状に呆然とする間もなく悲鳴が轟き、最後まで健闘を続けていた隊員が駐輪場に投げ込まれる。将棋倒しになった自転車がけたたましくベルを鳴らすと、炎の先端が細かく震えた。
とぉ!
邪魔者を排除した餓鬼は悠然と霊柩車に跳び乗り、勝利の雄叫びを上げる。誇らしげに反った背中を火柱が照らすと、ビルの外壁をおぞましい影絵が塗り潰した。
一刻も早く護衛を失った彼女を見付けなければ!
脳内に響く声に追い立てられ、視線を飛び回らせても、目に入るのは濁ったピンクばかり。
電柱、
信号、
街路樹――。
景色が点にしか見えなくなる距離まで、ハゲネズミの大群に埋め尽くされている。平らなはずの舗道がもぞもぞ蠢く様子は、まるでさざ波を走らせる遠浅だ。
餓鬼の総数と言えば、一〇〇〇体を超えているだろう。フルフェイスの仮面を被っていても、下水道を煮詰めたような悪臭が顔を歪ませる。外気を濾過するフィルターは、マスクほどの効果も発揮していない。
「なんでこんなことことするの……?」
声を足掛かりにしてようやく見付けた小春は、弱々しく座り込み、塀に寄り掛かっていた。
ひとまず無事を確認したことで、何十回と転ばされかけた焦りは多少鳴りを潜める。とは言え、間違っても手放しに喜べる容態ではない。霊柩車が事故った際に傷を負ったのか、右腕から滴る血が地面を水玉模様にしている。
状況が悪すぎた。
事件を担当したのが、ハイネのシンパではなかった。
記録に残っていたのが、「モリヤ」のほうだった。
真相に辿り着ける手引きがどこにあった?
決戦の前に平静を取り戻すべく、激昂する自分に一応弁解してみる。
案の定、ボンクラな脳味噌に銃口を向けたい気分は静まらない。
小春が傷付くまで真実を見抜けないなど、役立たずにもほどがある。
「……何で熊谷先生を襲ったの?」
小春はススだらけの唇を噛み締め、歩道橋の足下を見つめた。
SPのように固まった餓鬼たちが、華奢な人影を囲んでいる。ベージュのコートも、きっちり膝小僧を隠すスカートも、高校生にしては野暮ったい。
「答えてよ、佳世!」
悲痛な叫びを放った小春は、やりきれなくなったように宙を殴る。
「だって春ちゃんを傷付けるから」
さも当然のように答えながら、彼女は目深に被ったフードを脱ぐ。
残酷な炎が照らしだしたのは、昼休みと何ら変わらない顔で微笑む阿久津佳世だった。
「春ちゃんをぶったんだよ? 晒しものにしたんだよ? 許せるはずないじゃない」
「それ、だけ? それだけであんな酷い目に……」
言い切ることが出来ずに、小春は激しく咳き込みだす。悲痛に顔を歪めた彼女が口を覆うと、途端に指の間から胃液が滲み出た。あまりに大きくそして残酷なショックが、肉体に不調を生じさせたらしい。
「これね、パパの遺品を整理してた時に見付けたの」
苦しむ親友が目に入らないのか、佳世は自慢げに語り、七色のオカリナに頬擦りする。
人は思い込みの生き物だ。
「マナブ」や「アキラ」と聞けば、無意識に男を想像する。
その実、名前が性別を物語る保証はどこにもない。男の子を「花子」と名付けようが、女の子を「太郎」にしようが親の自由だ。現に二年五組の「マナブ」は、セーラー服を着ている。
一概に決め付けられないのは、名字と名前も同じだ。
「イツキ」や「ヨシノ」と、性でも名でも違和感のない名前は幾らでもある。
「モリヤ」が「森谷」や「守屋」だと言う確証はどこにもない。
そう、「モリヤ」のフルネームは「阿久津守矢」。
他ならぬ佳世の父親で、〈タチバナ・インダストリアル〉に所属していた〈詐術師〉だ。
「パパのメモにはね、『大事なものを守れ』って書いてあった。だから、私は私の一番大切な春ちゃんを守ったの」
秘密を明かすときめきを抑えきれなくなったのか、佳世は肩をそわそわ揺り動かし、両腿を叩き始める。
「春ちゃん、イヌが吠えてきて怖いって言ったよね? 谷原さんの家がうるさいって困ってたよね? ぜーんぶ消してあげたよ、もうだいじょぶだからね。一生懸命、大事なお友達守ったんだもん。お母さんも誉めてくれるよね」
無邪気に頷き、自分の発言に太鼓判を押した佳世は、悪びれもせずに頭を前へ出していく。就学前の子供が撫でてもらおうとしているようなポーズを突き付けられた小春は、呆然と目を見開き、燃え盛るバイクを見つめた。
「谷原さんって……火事? あれも佳世が……?」
小春の下へ駆け付ける道すがら、通信機の向こうにいるハイネは教えてくれた。
小春の身辺では、不可解な出来事が多発している。
誰彼構わずに吠えまくっていたシェパードが、傷だらけの状態で見付かったのが一ヶ月前。三週間前には、大音量でスピーカーを鳴らしていた家が全焼したと言う。
天井裏の配線に囓られたような跡が残っていたことから、この火災はネズミによる事故として処理された。
ハイネに言わせれば、ネズミに噛まれた配線がショートし、出火する事例は珍しくないそうだ。東京消防庁が平成一五年まで纏めていた統計によれば、ネズミが原因と思われる火災は、都内だけで年一〇件前後も起きていると言う。
「どうして驚いてるの? 春ちゃんが教えてくれたんだよ、お友達は守らなきゃいけないって。でも私には春ちゃんを守る力がなかった。いーっつも守られてばーっかり」
ご神体のようにオカリナを掲げると、佳世は満足そうに微笑んだ。
「でもね、私は力を手に入れた。春ちゃんも見たでしょ? 私のネズミさん、すっごーく強いんだよ。刺青した男の人だって、手も足も出なかった。私、これはね、神様がくれたんだと思う。神様はね、小春ちゃんに恩返ししなさいって言ってるの」
パン一つ買えない「赤ん坊」が、いきなり様々な願いを叶えられる力を手にしてしまった――。
それが、佳世の不幸だ。
一度に出来ることが増えすぎて、何をしたいか、どこまで許されるかが彼女には判らない。手にした力の規模も正確に判断出来ないのに、とりあえず思い切り魔法の杖を振ってしまう。煮崩れや生焼けと言った惨状を知らない料理の初心者が、強火を選んでしまうように。
自らの行いによって傷付いた人々を目の当たりにしても、痛みを知らない佳世にはそれが「成果」にしか見えない。罪悪感や反省心を抱くどころか、今まで何も出来ないと決め付け、自分を押さえ付けていた反動が、ただひたすら解放感を膨らませていく。始めてオカリナを吹いた時、彼女には一七年間幽閉されてきた監獄が崩れ落ちたように思えただろう。
何でも出来る、小春にしてあげられると知った佳世が、麻薬以上の喜びを味わったのは間違いない。黒板に仕込まれた道徳など、金網一枚分の抑止力にもならなくなったはずだ。
時計の針は絶対に戻らない――。
始めて引き金を引いた夜に思い知ったはずなのに、頭の中には「たられば」ばかり湧き上がってくる。
パンを買えない? 人前で話せない? 構わない。ただ一つ、痛みさえ知っていてくれればよかった。血が流れれば顔が歪むことを体験していたなら、洗えば落ちるアイスに生涯残る傷跡など返さなかったはずだ。




