④トレマーズ
警察や救急を待っている猶予はない。部屋の隅に大群が固まり、真っ赤な目を光らせている。奴等は熊谷先生の身体から、苦手な香りが離れていくのを待っているのだ。
スプレーの噴射ボタンを押しても、もう気の抜けた音しか出ない。
再び熊谷先生に群がられたら、骸骨の製造を防ぐ手段は皆無だ。
小春は素早く熊谷先生を引きずり、キャスター付きの椅子に座らせた。
体育教師の机から縄跳びを拝借し、力の抜けた熊谷先生を椅子の背もたれに縛り付ける。そうして即席の車椅子を完成させると、小春はキックボードのようにそれを押しながら、一気に職員室の外へ走った。
すぐさまキーボックスからぶんどっておいた鍵で施錠し、職員室の中に奴等を閉じ込める。安心は出来ない。大群が合体した怪人は、釣り鐘を蹴飛ばす力を持っている。アルミのサッシなど、金魚すくいの「ポイ」と同じだ。
少しでも時間を稼ぐべく、小春は壁面の操作盤へ駆け寄った。
職員室を孤立させるように防火シャッターを閉め、奴等と自分の間に蛇腹の防壁を増設する。続けて操作盤の傍らにある非常ボタンを押すと、避難訓練以来沈黙を保っていたベルがけたたましく鳴り始めた。
非常ボタンを押せば、自動で消防署に連絡が行く。火事と嘘をつくのは気が引けるが、世迷い言な真実を通報しても黄色い救急車しか来ない。
……だが、待て。
幾ら消防士が鍛えていると言っても、鐘を蹴飛ばす怪物に太刀打ち出来るだろうか? いや、小春の行動は奴等に生き餌を与えたに過ぎない。
では警察を呼ぶ?
拳銃ごときで対処出来る相手ではない。
自衛隊?
防衛省の電話番号が判らない。
「怪人 倒せる 連絡の取れる相手」と空欄にワードを入力し、小春は記憶を検索してみる。
間髪入れず頭の中に出現したのは、闘牛士のようにマントを翻す骸骨。
やはり奴しかいない。
唯一無二の答えに急かされた小春は、ポケットからスマホとカラオケで渡されたメモ用紙を引っこ抜く。回線を通す単語が、「佳世をお願い」ではなく「助けて」――たったそれだけの違いで、母親が消えた後の自宅を見せた動作が、普段のなめらかさを取り戻した。
小春はくしゃくしゃのメモ用紙を命綱のように握り締め、奴の書いた番号を押していく。
焦りが恐怖がボタンを押す指を、指を痙攣させる。
目的のボタンの横を押したり、同じ数字を二度繰り返したりするばかり。
一向にメモ用紙の番号を完成させられない。
幼稚園児でも出来る作業がなぜ出来ないのか……!
悔しさが止めどなく視界を滲ませていく。
……ベソで現実が変わるのは、ランドセルを卒業するまでだ。
小春は愚かな自分に言い聞かせ、女々しく濡れた目を拭う。ベソをかいていたところで、誰かが手を伸ばしてくれるわけでもないのだ。
みっともなく垂れていた鼻水を啜り、弛んだ精神を引き締めるために頬を叩く。冷え切っていた肌に熱が走り、下を向いていた身体が心なし背筋を伸ばした。
小春は一度淀んだ肺の中身を吐ききり、今度は大きく吸い込み、全神経を指先に集めた。
一回ずつ慎重に……、
慎重に……、
爆弾を解体するような手付きでメモの番号を押していく。
三分近く掛けて望みの数列を完成させ、いよいよ通話ボタンに親指を乗せると、爪の輪郭が二重にも三重にもブレた。
しくじる! 終わる! 死ぬ!
頭の中から金切り声が響き、しっかりと携帯を見定めなければいけない目をチカチカ瞬かせる。
はぁ……はぁ……。
小春は硬く冷たい唾を何とか飲み下し、少しずつ通話ボタンに人差し指を押し付けていく。
ぷるるる――。
ぷるるる――。
ようやく難業を果たした末に聞こえてきたのは、救いの声ではなく残酷な呼び出し音。自宅ではアクビで見送るコールだが、今の小春にとっては無限の効果音以外の何ものでもない。
速く! 速く!
お行儀よく待っていられなくなった肘が跳ね回り、携帯をシェイクする。サクマドロップスの要領で「もしもし」を振るい落とす気だ。
ぷるるる――。
健闘も空しく三回目のコールが終わり、無限が四巡目に突入する。
疲労感が肘を、徒労感が肩を下げ始めた――矢先、コールのループに割り込む「プッ」。
糸を切る音に似ているが、実際に断たれたのはメビウスの輪だ。
「もしも~し、あなたの改ちゃんでぇ~す」
スマホから聞こえてきた奴の声は、某戦場カメラマンのようにのんびりしていた。明らかに寝起きだが、M78星雲へのホットラインが繋がったのは間違いない。
早鐘だった鼓動が落ち着きを取り戻し、胸の内側から連打される痛みが和らぐ。気のせいかスマホの画面が自発的に輝度を上げ、分厚い暗闇に包まれていた行く手を晴らしていった。
吐いたばかりの安堵の息ごと、小春は周囲の空気を肺に掻き集める。
一秒後には、渾身の「助けて」が廊下に轟いたのだろう。
だが結局、溜めに溜めた息がスマホに注がれることはなかった。
梅宮の鼓膜に激痛が走る寸前、車椅子の熊谷先生に影が飛び掛かったから。
「うああああ!」
粗忽な小春はSOSに使う予定だった息を掛け声に浪費し、あろうことか手頃な「ボール」を持っていた右腕を振り抜く。後悔を置き去りにしながら速球と化したスマホは、見事に缶コーヒー大の影を捉えた。ちぃ! といたいけな悲鳴が上がり、サーモンピンクの残像が明後日の方向に弾け飛ぶ。
地面に落ちたスマホが!
最後の希望が!
不幸にもワックス掛けの行き届いていた廊下を滑っていく!
追え! 走れ! 取り戻せ!
理性の罵倒に追い立てられた小春は、半ば突き飛ばされたように地面を蹴る。
一歩目を踏んだ矢先、先行し、スマホに伴走していた視線が絨毯に乗り上げた。シャッターの中に閉じ込めたはずの肉絨毯に。
携帯が大群に埋もれていくにつれて、梅宮の「もしもし」が肉の底へ底へと遠ざかっていく。奴等の中に手を突っ込む勇気のない小春は、泣く泣くふくらはぎに力を込め、走りだしたばかりの足にブレーキを掛けた。勢い余った靴底が床を滑ると、キュッー! とバスケ部の練習中によく聞く音が鳴り響く。
何度確かめてみても、シャッターは完璧に閉まっている。
一体どうやって職員室から出て来た?
思わず大脱出のトリックを訊きそうになった小春は、直前でそれが愚問だと気付く。換気扇に通風口と、ネズミ大の奴等なら脱走の選択肢には事欠かない。元々職員室で遭遇した集団とは別に、廊下を徘徊していたグループがいた可能性もある。
唯一の光明だったスマホを失ったせいだろうか。
再び小春の行く手を暗闇が覆い尽くしていく。
いや、希望の有無だけが原因の現象ではない。
実際に暗くなっている。
その証拠に先程まではうっすら見えていた天井が、濃密な闇を溜めている。
廊下を照らしていた月が、雲に隠れてしまったのか?
仮説を立てた小春は首に力を込め、冷凍肉のようになった顔を――そう、何かを予感したように硬直した顔を窓へ向けていく。
何に邪魔されることなくガラスを透過していた月光を、シワだらけの雨戸が遮っていた。
ピー!
立ち尽くす小春を余所に鳴り響いたのは、職員室で聞いたあのホイッスル。
水泳の授業を連想させる音色は、やはり飛び込みの合図だったのだろうか。
窓の外に貼り付いた大群が、一斉にキツツキの真似を始める。
割れるな! 割れるな!
祈れば祈るだけ、連続して突き立てられる出っ歯がひび割れを広げていく。程なく、こん……と衝突音と呼ぶのも大袈裟なノックが鳴り、一粒の煌めきが窓の内側に当たる廊下へ落ちた。
一つの穴からダムが決壊するかのように窓と言う窓が砕け散り、荒れ狂う肉の濁流が廊下に雪崩れ込む。無量大数の駆け足が激しい揺れを引き起こすと、蛍光灯がドアががたつき、各教室からロッカーが倒れたような轟音が溢れた。
廊下に控えていた一団と合流し、更に膨れ上がった大群は、ヤモリのように壁を這い上がっていく。床のみならず天井まで侵食されると、小春の居場所は廊下から肉のトンネルに変わった。
上下左右、三六〇度、どこを見ても濁ったピンク。二年間慣れ親しんだ景色が、小春の目にはもう化け物の胃の中にしか見えない。




