箸休め 語源百景 神話・宗教篇⑤ 首塚にはお参りに行ってあります。
番外編です。
語源を紹介するシリーズも、今回で最終回。
2017年の正月も、作者は首塚にお参りに行って来ました。
何かと恐ろしいイメージのある場所ですが、作者はあの静かな雰囲気が大好きです。
神田明神より全然空いてますし(笑)
道真公と共に日本三大怨霊に数えられる平将門公も、現代に様々な足跡を残しています。
平将門公は平安時代中期の地方豪族で、全盛時には当時「坂東」と呼ばれていた関東一帯を治めていました。西暦939年には新皇を称し、朝廷に戦いを挑んだことで知られています。この戦いは瀬戸内海で藤原純友が起こした反乱と共に、承平天慶の乱と呼ばれています。
道真公の祟りが冷めやらぬ中、将門公の起こした反乱は朝廷に大きな衝撃を与えました。伝承によれば、将門公に「新皇」を名乗らせたのは他でもない道真公だったと言います。
反乱の顛末を描いた軍記「将門記」には、武運の神・八幡大菩薩が将門公に巫女を遣わす場面が登場します。八幡大菩薩は巫女の口を借り、将門公にこう告げました。
〝将門公に神から帝の位を授ける。
そしてそれは道真公の霊によって伝えられるだろう〟
神様のお墨付きを得た将門公は大いに奮い立ち、胸を張って「新しい皇」を名乗るようになったそうです。
余談ですが、かつて将門公の上司であった藤原忠平は、道真公とも親しい間柄でした。
忠平は道真公の左遷に反対し、太宰府に送られた後も文を交わしていたと言います。そのためか定かではありませんが、忠平は兄の時平とは対照的に長生きし、政を執り仕切る関白にまで出世しました。
新皇宣言から2ヶ月後の西暦940年2月14日、将門公は朝廷から派遣された藤原秀郷に討たれます。
俵藤太とも呼ばれる秀郷は、武勇に優れる豪傑だったと言います。龍神の依頼を受け、滋賀県の三上山に棲み着いていた大百足を退治したことでも有名です。
戦いの後、秀郷は現在の中央区にあたる場所に将門公の兜を埋め、敗者を供養しました。後世、秀郷が将門公を供養した場所は、「兜町」と呼ばれるようになったそうです。
また一説によると、東京都の青梅市は将門公に因んだ地名だと言われています。
青梅市の金剛寺には、将門公が植えたと伝えられる梅の木が残っています。
将門公はこの木を植えるにあたって、自分の願いが成就するなら育ち、駄目なら枯れるように祈ったと言います。「誓いの梅」と名付けられたこの木は立派に生長し、感激した将門公はその地に金剛寺を建立したそうです。
普通、梅の実は熟すにつれて青、黄色、赤と変化していきます。ところが誓いの梅に付いた実には、いつまで経っても青いままだと言う性質がありました。この他の土地には見られない不思議な現象が、「青梅」と言う地名を生み出したそうです。
一説には神田明神がある「神田」も、将門公に由来する地名だと言います。
死後、将門公の首は京都に運ばれ、平安京の中にあった東市に晒されました。
恐ろしいことに将門公の首は数ヶ月(3年間とも)経っても腐敗せず、毎夜不気味な光を放ったと言います。ついには「俺の胴体はどこだ!? 首を繋いでもう一戦してやる!」と宣言し、胴体が埋葬された関東に飛び去ったそうです。
将門公の首が落ちてきたと言われる場所は、関東の各地にあります。最も有名なのは、千代田区大手町に残る首塚でしょう。オフィス街の一画に佇む石碑には、現在も花を供える人が絶えません。
本当のところ将門公の首がどうなったのかは、現在も判っていません。一説には関東に戻され、供養されたと言います。実際、千代田区にある築土神社には、将門公の首を持ち帰るのに使われたと言う首桶が残っていました。しかし残念なことに、この歴史的遺物は戦災で焼失しています。
行方が判っていないのは、首を切り離され、関東に残された胴体も同じです。各地に残された伝説は、頭部を持たないまま歩き出したとも、首同様空を飛んだとも語っています。栃木県足利市にも、複数の部位に分かれた胴体が飛来したと言う伝承が残っているそうです。
勿論、埋葬されたと言う説もあります。将門公の身体を埋めたとされる場所は幾つかあり、現在の神田周辺もその一つです。
以降、将門公の胴体が埋められた土地は「からだ」と呼ばれるようになりました。この「からだ」と言う言葉が歳月と共に変化し、「神田」になったそうです。
五回に渡ってお送りした今回の箸休め、お楽しみ頂けたでしょうか。
今回紹介したように我々が普段何気なく使っている言葉にも、人知れず神々が潜んでいます。八百万の神と言うのも、強ち大袈裟ではないのかも知れません。
(参考文献:週刊 日本の100人 №62 平将門
(株)デアゴスティーニ・ジャパン)




