条件その② 死の瞬間に笑っていること
何やら、常人では考えられない経験をしているチャラ男。
奴が何者は、『亡霊葬稿シュネヴィ』に詳しいです。
作中でもほぼ答えを言っていますが。
なぜ命を懸けて戦うのか?
改めて訊かれると、即答出来ない質問だ。
だが同じ疑問を自分に投げ掛けると、改の視線は独りでに手首へ向かう。
疎むように歪んでいった目は、いつしかラピスラズリの数珠を映していた。一面の群青に金色の黄鉄鉱がちりばめられた様子は、牽牛と織女を隔てる大河に瓜二つだ。
思えば、始めて人を殺した日に仰いだ空にも、こんな光景が広がっていた。
蒸し暑い夜だった。
春よりも風通しの悪くなった天球に、べとついた空気が充填されている。息を吸うだけで体内から焼かれるような状況に参ってしまったのか、灯りを落とした家々は、室外機から苦しげに唸り声を上げていた。
じっと座り込み、受動的に殴られているだけで、際限なく汗が湧き出てくる。
サンドバッグにされる痛みよりも、口の中の血や鼻水の生温さのほうが顔を歪ませる始末。ささやかな涼を求めて、ひんやりしているはずの舗道に倒れ込んでも、岩盤浴が始まるだけ。日中に熱を蓄えたそれは、ぽかぽかとした感触で頭をのぼせさせていくばかりだった。
あの夜から、何十回もカレンダーを捲った。
目の下のクマはもうない。
小五から悩まされていたニキビも、保湿クリーム産のつやつやに上塗りされてしまった。
にもかかわらず、病院の屋上から眺めた天の川は、触れられないのが不思議なほどの実体感を堅持している。
絶対忘れない――。
その直感は正しかった。
今も現実を踏む足から少し意識を遠ざけただけで、人生最大級の歓喜が、満月を天使の輪に見立てさせたほどの狂喜が、現在進行形のどの感情より強く胸を打つ。小春の目がなければ、高笑いと共に両手を突き上げていただろう。
人間なら難儀するだろう死体の処理も、化け物にとっては肉料理の延長だった。
習った通り関節に角を差し込み、胴体から手足や頭を切り離していく。五つに分解した人体を更に細かく切り刻むと、予想に反してゴミ袋一枚に纏まった。
嬉しかった。
ゴミ袋に収まる程度のサイズなら、隣から消えても大した穴は空かない。
自分が死んでも彼女の笑みを曇らせないと、この目で確かめられたから。
感傷もそこそこに近所の土手へ向かった化け物は、肉片の収まったゴミ袋に入れられるだけの石を同梱する。少し腰に来るようになったそれを川へ投げ捨てると、低く広い水柱が濁った音を鳴らした。力ない波紋が向こう岸へと渡り、穏やかだった川面をしわくちゃにしていく。
ゴミ袋の中身が完成するまでには、二〇年以上の歳月が費やされている。
なのに、三つとも川底に消える時には一分と掛からない。
その代わりペットボトルを沈めた時のような気泡が、しつこく川面をざわめかせた。袋の口を閉じる時に空気が入ってしまったのだろう。
自分の時も、あんな風に痕跡が残るのか――。
未練がましい気泡を自分の最期に重ねた瞬間、引き金を引いて以来――そう、死体を解体する時でさえ事務的だった呼吸が、にわかに乱れだす。
嫌だ。何も遺したくない。いや骨の欠片一つ遺さない――。
一秒でも早く、あいつの前から消えてみせる――。
固く誓っても胸騒ぎは消せなくて、終いにはカミサマに願掛けする有様。そう、既にいないと知っていたカミサマに。
川岸に跪いた化け物は、眉間が痛むほどの力で瞼を閉じる。顔の前で血塗れの手を合わせると、臓物の残り香が鼻を突いた。
なぜ戦うのか?
小春の質問に対して、梅宮改はあの天の川を回顧した。
もしや自分の現状を、「贖罪」とでも思っているのだろうか。
馬鹿げている。
償うも何も、「許す」や「許さない」と口に出来るのは生きた人間だけだ。死者は言葉を発しない。あの人たちは赦免を言い渡すどころか、理不尽に命を奪った自分に罵声をぶつけることすらもう出来ない。
観音様に叱られたか?
閻魔様の面前に引っ立てられたか?
罵倒するように自分を捲し立てた改は、小春の目を引かないように首筋へ手を運んでいく。さりげなく延髄を撫で下ろすと、ケロイド状に盛り上がった傷口が指の前に立ちはだかった。
手ずから刻んだそれを足掛かりにし、改は最期の瞬間を思い返してみる。
今際の際が克明になっていくに従い、手の先が細かく震えだす。死人が口を利くことを期待している誰かは、現実を突き付けられるのが恐ろしくて堪らないのだろう。
膿と吐瀉物で顔をグシャグシャにした自分が、みっともなく鳴る歯で銃口を噛み締める。
引き金を引いた瞬間、舌の上で起こる爆発。
目の玉の中で火球が弾け、銃口から噴き出た熱い突風が、延髄に開通したばかりの穴へ抜けていく。続けざま血で溶かれ、ペースト状になった肉片が鼻の穴にまで逆流し、口中に麻婆豆腐のような食感が広がる。
ふっと背筋を吊っていた何かが切れ、荒く乱れていた呼吸音が呆気なく途絶える。同時に頭蓋骨の内側としか呼べない場所にノイズが走り、意識の連続が終わる。
そこで打ち切りだ。
心音が聞こえなくなった後に広がるのは、三途の川でもお花畑でもない。
開いた瞳孔が捉えるのは、闇と認識することも出来ない闇。
本当の無だ。
天国も地獄も見なかった――他の化け物たちも証言している以上、死後の世界や霊は絶対に存在しない。我が身も顧みず人々の盾になっていれば、いつかは夢枕から許しの言葉がもたらされる? 夢想だ。気でも触れない限り、あの人たちの声を聞くことは二度とない。
「やっぱあの子のため? 学食で一緒だった白髪の外人さん」
長々と押し黙っていた改を覗き込み、小春はハイネのように胸を引っ込める。
「ハイネ・ローゼンクロイツねえ……」
何気なく名前を口ずさむと、枯れ枝の臭いを届けるだけだった鼻が、麗らかな甘さを拾う。
記憶から漏れ出た薔薇の芳香だ。
ふと春を先取りしたような風が吹き、凍て付いていた胸に仄かな温もりが咲く。
「うわ~、うれピ~!」
コギャル(死語)のように歓声を上げながら、改はキャピキャピと肩を振りまくる。
「小春ちゃんには、俺が女子のために命懸けちゃう漢に見えちゃうんだ~」
そう、改が引き金を引くのはハイネのためでも、ましてや世界のためでもない。
必死に肩を揺すっても、声を嗄らして呼び掛けても、化け物に命を奪われた人々は答えてくれなかった。だから思い知った。殺人の理由に誰かを使ってはならない。
ただ、狂った殺人鬼が命を絶ったあの夜――。
彼女は赤く腫れた瞳から、ひたすら涙を溢れさせた。
「てにをは」も文脈も無茶苦茶な泣き声は、まるで母親を捜す迷子。垂れ流しになった涎と鼻水は、結構広めの水溜まりを作っている。
凛々しいとは言いがたいお姿を思い出す度、改の口からは脱力した笑みが漏れる。そしてそれ以上に、端整な顔をグシャグシャにしてしまったことへの申し訳なさが、全身に苦さを広げていく。
改はきっと、あの顔を二度と見たくない。
引き金に彼女が関わっているとすれば、それで全部だ。




