②SASUKE
「う、うめ……!」
「は、春ちゃん!」
クラス中に片想いの相手を暴露される!
直感しただろう佳世は絶叫し、小春のシャウトを掻き消す。矢継ぎ早に佳世のビンタが小春の口を塞ぎ、ストーブに湿度を持って行かれていた空気が甲高い炸裂音を奏でた。
「ひ、ひぃたひ……」
息も絶え絶えに呻いた小春は、通学用のリュックから手鏡を出し、唇の容態を確かめてみる。
鼻と顎の間に、博多直送の明太子がくっついていた。
「ごめん、ごめんね、でも声が大きい」
下敷きで小春の唇を扇ぎながら、佳世はしーっと人差し指を立てる。
お達し通り唇を結んだ小春は、すーっと窓辺に目を滑らせた。
目的地に近付くだけ、汚物と対峙しなければならない不快感が視界を潰していく。
程なく小春の視線を汚染したのは、日の差した壁に寄り掛かる梅宮改だった。
すらっとした手が青いスマホの上を跳ね回る度に、手首の数珠が瞬いている。群青色のラピスラズリの中で、粒状の黄鉄鉱が煌めく様子は、夏の空に浮かぶ天の川を彷彿とさせた。
奴の制服に対するスタンスは、ある意味、佳世にそっくりだ。
佳世が生徒手帳の模範例を体現しているなら、奴は悪い例を完コピしている。
黒いブレザーは椅子の背もたれに置き去りで、ネクタイの緩め方と言ったら二次会のサラリーマンそのもの。第二ボタンまで開いた胸元からは、帰宅部の割に引き締まった胸板が覗いている。
背の高さはクラスでも一二を争うほどで、バスケ部のグループと比べても遜色ない。猫背でスマホを覗き込んでいても、目の位置が女子の上にある。
「……なんで梅宮なの」
低く潰れた声は、問い掛けと言うよりも罪を追求しているかのようだった。
口の中に硬い音が響いていると思えば、無意識に親指の爪を噛んでいる。
質問された佳世は恥ずかしそうに下を向き、指を揉み始める。
「あのね、この間、春ちゃん、学校休んだでしょ?」
「おじさんとぶつかった日?」
膝の絆創膏を軽く撫でると、僅かに残ったかさぶたが乾いた音を漏らす。
途端に剥げた塗装が記憶から甦り、小春のピュアなハートを痛ませた。
その日――。
寝坊した小春は食パンを囓りながら、通学路を疾走していた。
遅刻! 遅刻する!
脳内に喧しく響く警報に追い立てられ、曲がり角をドリフトした――直後、小春は気に食わないのになぜか気になるア・イ・ツ……ではなく、軽トラと衝突した。
刹那、世界は地獄車を喰らったように大回転し、小春をハイジ的なお花畑にワープさせた。
この世のものとは思えない清流の向こう岸では、おんじ――もとい、六歳の時に他界したじいさまが手を振っている。執拗に勧誘してきたところを見ると、盆栽に火を点けたことをよほど根に持っているらしい。
老人介護に興味のない小春は、何とかジジィを振り切り、あっちの世界から舞い戻る。
ワープした先は電信柱の根元で、逆さになった小春はしまぱんを丸出しにしていた。集団登校中の小学生にケツをガン見されたのが、今も忘れられない。
法的にはこの一件を、「人身事故」と呼ぶのだろう。
だが小春の見解は違う。
そして恐らく、一億三千万人の日本国民もまた、事故と言う結論に異議を唱えることだろう。
なぜなら正面衝突の相手である軽トラは、路肩に停車しているところだったのだから。
簡潔に言うなら、小春はクリープ現象一つ起こしていない車に、自分から突っ込んだ。クソ真面目な道交法が何と言おうが、世間一般的価値観に則るなら明らかな「自爆」だ。
停まっている車にぶつかっただけなので、ケガも膝のすり傷だけ。
唾付けとけば治る――。
動揺する運転手に告げ、小春は早々にその場を立ち去ろうとした。
だが運転手はしつこく小春の袖に縋り付き、必死に訴えかける。
事故は事故だ――。
女の子の身体に傷を残したら、死んでも死にきれない――。
早く現場を離れないと、素性がバレるだろうが!
お前には衆目にしまぱん晒したオ・ト・メの気分が判らねぇのか!
車に傷を付けた分際で睨み付けてみれば、ドカジャン着て、赤ペン耳に挟んだオジサマが、三歳児のように瞳を潤ませている。無下に振り払うには、不精ヒゲの生えた頬を伝う涙はあまりにも透明だった。
ピンと伸ばそうにも力が入らないのか、実況検分する警官のメジャーは、心なし蛇行していた。
しかも悪いことに、救急車が出払っていたせいで、はしご車が駆け付けてしまう始末。何事かと身構えたご近所さんたちが、通帳や土地の権利書片手に集結してしまった。
「……あの時は、意識不明になってたらよかったのにって思った」
全方向から白い目、
輪唱する舌打、
軽蔑を込めた溜息――。
真実が知れ渡った瞬間を思い出した小春は、PTSDっぽい眩暈に襲われ、机に突っ伏す。
「しかも調書だー、検査だーって時間取られて、学校休む羽目になっちゃったんだ」
期待していたわけではないが、おじさんが同じクラスに転校してくる、と言うお約束も起きなかった。まあ、お詫びとして特大サイズの一本をもらえたので、悪いことばかりでもなかったが。
「あの日はね、自分でご飯買いに行ったの」
「買えなかったでしょ?」
小春に訊かれた佳世は力なく顎を引き、そのまま項垂れる。
お食事時、片故辺学園の学食は「109」の初売りレベルの修羅場と化す。
福袋もといお目当ての兵糧を手にするためには、男子に見せてはいけない一面を解放する必要がある。
中でも月に一度の限定品、ホイップメロンパンが並ぶ日は別格だ。初等部から高等部まで、学園中の猛者が牛追い祭りばりの剣幕で廊下を駆け抜けていく。
佳世は机を動かすだけで、う~んと息む。五〇㍍走もクラスで一番遅い。
殺意の波動に染まった女子たちを、ちぎっては投げ、ちぎっては投げる? 福男争奪戦状態のレースを勝ち抜く? 常人に当てはめるなら、SASUKEだ。
「私、売店の前で身動き取れなくなっちゃったの」
「あ、売店には辿り着けたんだ」
予想外の奮闘を耳にした小春は、驚きと感心のあまり長い溜息を吐く。
人類にとってはちっぽけだが、佳世にとっては偉大な飛躍だ。
「うん、でも何も出来なかった。サンドイッチ欲しかったんだけど、眺めてただけ」
情けなさそうに漏らし、佳世は唇を噛み締める。
落ち込む姿を見かねた小春は、威勢よく宣言し、胸を叩いてみせる。
「佳世は食料の調達なんか出来なくていいの! 私に任せておきなさい!」
「春ちゃん……」
佳世はほっとしたように息を吐き、僅かに歯を見せた。
「……自宅にセットなんか組まなくていいの。あれが人生を狂わす第一歩なんだから」
ボソっと漏らした小春は、背もたれに寄り掛かり、頭の後ろに両手を当てる。
「で、そっからどーなったの? まさか昼休みの間中、人の波に揉まれてたとか?」
「ううん。誰かが私の手を握って、人混みの外に出してくれたの」
控え目に声を弾ませた佳世は、梅宮改をチラ見し、とろんと瞳を潤ませる。
下品に赤らんだ頬、
媚びた感じのする照れ笑い、
やけに鼻に付く甘い香り――。
何もかも、電話中の母親に瓜二つだ。
酷い胸焼けに襲われた小春は牛乳をガブ飲みし、じゅくじゅくと熱を帯びた胃を冷やす。
「その誰かがあの優男だったってわけか。レスキューされただけで好きになるなんて、佳世って随分惚れっぽいんだね」
「そ、それだけじゃないよ!」
慌ただしく異議を唱え、佳世は弁解を始める。
「梅宮くん、渡してくれたの。私がずっと見てたハムサンドだった」
きゃー!
唐突に奇っ怪な高音を発した佳世は、張り手っぽく顔を覆い、表情を隠す。セーターの袖からちょびっとだけ出たその指は、くすぐったそうに悶えていた。
「梅宮くん、『お召し上がり下さい、お姫さま』って……」
お姫さまだァ!?
小春は速攻でポーチに手を伸ばし、ムヒをふん捕まえる。襟から裾からがさつに手を突っ込み、念入りに軟膏をすり込む。知らなかった。ロマンティックって漆みたい。