②阿久津佳世について
結局、小春は奴が〈詐術〉を使える理由も説明してもらっていない。
一七年間、およそ六〇〇〇日生きてきた小春だが、奴の他に変身する人間を見たことはない。自分には「ピカッ!」が通用しないと言っていたから、目撃した記憶を消されたわけでもないはずだ。
となれば、〈詐術〉は道端でほいほい出くわす代物ではない。それはつまり、使用者が限られていると言う意味だ。実際、人間には使えないと梅宮改は言い切っていた。
〈詐術〉を使うには、何か厳しい条件がある。
女との会話では二枚舌の回転数を三倍にする男が、ヒントも出さなかったことを踏まえると、明るい背景があるとは考えにくい。人間を奴自身とは別の生き物のように語る口振りも、小春の推察が的外れでないことを示唆している。
一緒にいたくないのに、一緒にいるしかない――。
梅宮改とミケランジェロさんの関係を指し、佳世が発した一言。
耳にした時は恋する乙女の負け惜しみと笑い飛ばしたその言葉が、理由も定かでないまま信憑性を帯びてくる。
なぜ怪人と戦うのか、小春は自発性のある仮説ばかり篩に掛けていた。だが〈詐術〉を使うための条件と佳世の至言が結び付くと、谷底のような闇が、落ちる以外の選択を許さない強制力が見え隠れし始める。
〈詐術〉を使えるようになった人間は、他に居場所がない。
日々殺し合い、血を流す他に生きる道がないのではないか。
酒池肉林を体現した奴の生き様とは、最も掛け離れた答えだ。重荷を背負いながらヘラヘラしていられる精神力が、あの優男にあるわけもない。だが感覚の声に耳を傾けるなら、理屈っぽい頭には一笑されたその見解こそが、何より真実に近い気がする。
「え~っと」
中年男性特有のだみ声を伸ばしながら、黒板と向き合っていた熊谷先生が振り返る。瞬間、緊急事態を悟った教え子たちが、忍者より機敏に下を向く。自然と熊谷先生の目は、独りだけもたもたしていた佳世へ行く。
「阿久津、五二ページを読んでみろ」
「は、はい」
どもり気味に答えると、佳世は慌ただしく立ち上がり、音読を始める。
「……つ・れ・づれ・なるま・まに」
いつも通り佳世の朗読は傷付いたCDのように切れ切れで、声も小さい。所々、居眠りの寝息に掻き消されている。
佳世は兼好の乱文を読み解くのに、充分な学力を有している。欠けているのは、人前で声を出す勇気だ。小春との会話に同姓のクラスメイトが加わってきただけで、口を閉じてしまう。
「ああ、もういい、もういい」
呆れるあまり額を押さえながら、熊谷先生が音読を遮る。
「……はい」とか細く答えると、佳世は沈むように席へ着いた。
自分が離れれば、佳世は何も出来ない――。
項垂れる佳世を目の当たりにした瞬間、小春の脳裏にカラオケで叩き付けられた言葉が響き渡る。呼応して、スマホとにらめっこする梅宮改が冷笑した――ように小春には見えた。
佳世を管理している?
お得意の思い付きだ――。
梅宮改ごときの薄っぺらい指摘に、何を思い悩んでいる――。
頻りに奴の顔色を窺うのが面白くないのか、発破を掛けるにしては苛烈な叫び声が、小春の脳裏に木霊する。奴に浴びせられた言葉よりも、むしろ女々しく思い悩む自分自身に苛立っているようだ。
佳世を見極めた采配で、痛みから守って来た――。
小春は信じていた。
ただ冷静になってみると、少し行き過ぎた部分があったかも知れない。
都立高を志望していた佳世を、私立の片故辺に進学させたのは、誰でもない小春だ。
受験に失敗するのを心配したわけではない。
第一に問題だったのは、偏差値ではなく交通手段。志望校がJR、大江戸線と乗り継いだ場所にあると聞いた瞬間、小春は確信した。無理だ。
佳世は高校生になった今でも、乗り換えが出来ない。と言うか、一つの駅に二つの路線が混在しているだけでお手上げだ。駅員さんや通行人に質問する意気地もない。
内回りと外回りだけなら、ぎりぎり目的地に着ける。それだけでも大変な進歩だ。友達になったばかりの頃は、上りと下りの区別も付かなかった。
佳世の電車通学を阻む要素はまだある。
例えば、混雑だ。
かき入れ時の食堂で身動きが取れなくなってしまったことからも判る通り、佳世は人混みを歩けない。通行人を避けるのに腐心するあまり、その場で反復横跳びを繰り返す。
それに満員電車は痴漢のメッカだ。大人しい佳世は尻だの胸だの、巣鴨名物「洗い観音」ばりに撫で回される。完全にPTSDだ。もう一生、電車に乗れなくなってしまう。
懸念は交通手段以外にもあった。
大体、電車が無理なら、阿久津家の資産にものをいわせて、送迎車でも用意すればいい。学校の近くに引っ越すと言う荒技もある。
小春が本当に心配だったのは、新天地での孤立だ。
自分としか会話の出来ない佳世に、新しい友達が作れるはずもないのは目に見えている。見ず知らずの教室に独りぼっちで座っている姿がまざまざと思い描けるのに、別の高校で笑っていることなんて出来なかった。
佳世の意思を尊重するなら、小春が志望校に付き合うのがベストだったのだろう。
だが非情にも、佳世が選んだのは都内有数の進学校だった。体育以外に「4」のない落ちこぼれでは、入試までの一年間、ユンケルに依存したとしても勝ち目がない。だからと言って、頭のいい佳世を名前が書ければ合格出来るような高校に付き合わせるのは、流石に申しわけない。
悩んだ末に小春が目を付けたのが、他でもない片故辺学園だった。
片故辺は平均より少し上に位置付けられている高校で、阿久津家から徒歩八分の近さにある。何より数学が「2」の小春でも、一年間冷えピタの援護を受ければサクラが咲きそうだった。
片故辺なら一緒に通えるよ――。
小春が名案を披露した時、佳世の反応は鈍かった。
確かに、私立の片故辺は都立よりお金が掛かる。とは言え、窓際係長の醒ヶ井父にも支払える額を、資産家の阿久津家に用意出来ないはずもない。預金残高の桁を減らすこともないだろう。
小春は東京の鉄道網の複雑さや、友達を作ることの難しさも交えて、佳世の説得を試みた。恥も外聞もなく唾をまき散らす駄々っ子に根負けしたのか、佳世は辿々しく真意を明かす。行きたい大学がある。合格率が高いのはどこの高校か調べてみたら、第一志望の都立高だった。
佳世の語る展望に、小春は圧倒される他なかった。浅はかな誰かはそれまで疑いもしなかったのだ。偏差値に見合う高校を、適当に選んだだけなのだろうと。
今思えば、馬鹿にするにも限度がある。佳世の瞳にはきちんと未来への道筋が映っていた。侮られるべきは、近さだけで片故辺を選んだ誰かのほうだ。
理路整然とした決意を、独力で覆すのは無理だ――。
そう確信した卑怯者は、阿久津のおばさんに泣き付く。
大学どころじゃない。高校生活に疲弊して、登校拒否になってしまう――。
涙を溜め、身振り手振りを交えて直訴する小春にまんまと胸を打たれたおばさんは、渋る娘を説得する。進学に必要な勉強は家でも出来る。小春ちゃんと一緒のほうが安心よ。
佳世は父親のお葬式で一生分母親の涙を見た。だからもう二度と見ないと心に誓っている。逆らったり口答えしたりと、少しでも母親の表情を曇らせる真似は絶対にしない。あの時も顎の代わりに瞼を下げ、のそのそと第一志望の欄を書き換えた。




