①笑っていいとも!
好きな人が出来た。
お食事時の告白は、咀嚼中の焼きそばパンを気管に直行させた。
「す、すすす……!?」
狼狽するあまり言葉になり損ねた言葉を連射し、醒ヶ井小春は激しく咳き込む。青のりや紅生姜の食べかすが乱舞し、向かいの机を派手に汚した。
「春ちゃん、落ち着いて」
対面に座る阿久津佳世は、僅かに腰を浮かせ、小春の背中をさすった。
小春の気管に詰まっていたパンくずが食道にルート変更し、多少咳が治まる。すかさず小春は机に手を突き、ぐいっ! と身体を押し出した。びっくり箱のように小春の顔面が飛び出し、鼻先に肉薄された佳世が大きく仰け反る。
「す、好きな人って、男!?」
「……うん」
頬を桃色に染め、佳世はもじもじ俯く。
「佳世が、男子を好きになる……」
「そーなんだ」とはとても言えない。
むしろ耳のカスタマーセンターに電話を掛け、修理方法を聞きたい気分だ。
服装を一瞥しただけでも、佳世と色恋の親和性は明らかだ。
肩の部分が余ったブレザーに、野暮ったく膝を隠すスカート。丁寧に結んだタイは、絞殺せんばかりに首を締め上げている。こまめに洗っている上履きは純白に輝いていて、かかとの部分にも踏んだ跡一つない。
二年五組の教室を見回してみても、佳世ほど生徒手帳の模範例を再現したJKはいない。
佐伯さんは大胆に胸元を開けているし、嶺さんのスカートはチアリーダーのように短い。
西さんはかかとの潰れた上履きをずるずると引きずっているし、久野さんは長く伸ばした爪をけばけばしくデコっている。
「やっぱりヘンかな。私なんかが恋愛なんて……」
佳世は卑下するように問い掛け、ちらちらと窓に映った自分を窺う。
当人は自信なさげだが、小春の目に映るそれは平均以上に整っている。育ちのよさから来る上品な雰囲気は、下町育ちの小春には一生無縁の代物だ。
一方で、自信のなさをアピールするように丸めた背中に、覇気や活力と言った単語は感じられない。常に他人の顔色を探っているような目付きも、頼りないと言うか、何となく卑屈だ。
茶色っぽい髪は、小学生の頃から三つ編み一筋。他の髪型に浮気したことは、一度としてない。おどおどと寄せているのが基本型の眉もまた、ランドセルを背負っていた頃からずっと、切り揃えた前髪の裏に隠されている。
かれこれ一〇年近い付き合いになる小春だが、佳世のおでこを目撃したことは数回しかない。相手が同姓の小春でも、見られるのが恥ずかしいらしい。
尤も、鉄棒ではしゃいでいた頃から変化がないのは、小春も一緒だ。
髪型と言えば前髪をゴムで束ねたショートカットで、服装はパーカー+ジャージ素材のハーフパンツ。卒アルの写真にブレザーとスカートを足しただけで、まんま現在の姿になる。
そう、我が身を鑑みてみれば、佳世はまだ変化のあるほうだ。少なくとも身長は一六〇㌢近くまで伸びたし、ぺたんこだった胸は肉まんほどのサイズまで膨らんだ。
対して友人の誰かと言えば、高二にもなって一五〇㌢にも届かない始末。縦方向への発育以上に怠慢だったのが、女性ホルモンだ。どら焼き以上になだらかな胸は、タンクトップを着ただけで性別不詳になる。
リコーダーの似合う小春が見た目でとやかく言うなど、「人の振り見て我が振り直せ」なのかも知れない。
それでも佳世の興味が男に向くなんて、小春には信じられない。
だって、佳世の頭は「りぼん」を読ませただけで湯気を噴いた。テレビがキスシーンでも流そうものなら、あたふたチャンネルを変えるのがデフォだ。濡れ場? タブー的なBGMが流れた途端、佳世は別の部屋に駆け込んでしまう。
佳世が「好きになられた」ことなら、今までにも何回かあった。
ホワイトデーには三倍返し、クリスマスにはホテルでディナーと、キャバ嬢的恋愛ルールに翻弄される昨今の男子たち――。
交際とは名ばかりの搾取に疲弊した彼等には、接吻ごときで真っ赤になる佳世が、荒廃した現代に舞い降りた女神に見えるらしい。
当然、告白されたことも一度や二度ではない。
でも佳世の返答は、常に「ごめんなさい」だった。
しかも、それすら小春に代弁させる。
佳世自身の口を使うと、勇気を必要とするお断りはおろか、おはようの一言すら交わすことが出来ない。それどころか、異性に話し掛けられた瞬間に下を向いてしまう。一週間前にナンパされた時も、ずっと小春の後ろに隠れていた。
「何でいるんだ、コイツ」な顔をした男子の前で、何度メモ用紙を代読させられたことだろう。ちょいワルな男子に呼び出された時なんか、あろうことか現場に来やがらなかった。
好きでもない男子と、体育館の裏で二人っきり――。
思い出すだけで、小春の胃には締め付けられたような痛みが走る。
何より辛かったのが、相手の男子に「タイマンか?」と嫌疑を掛けられたことだ。あの日は五年ぶりに、キティちゃんのぬいぐるみを抱いて寝た。
佳世にとって男子はヒグマと同じだ。
自分から近付く?
あり得ない。
好き?
二〇〇㌫カン違いだ。
大方、吊り橋でも渡っている時に相手とすれ違って、恐怖から来るドキドキを胸の高鳴りと誤認したのだろう。都内に「ドキドキ」するレベルの吊り橋があるかは微妙だが。
何にしろ、頭ごなしに否定するのは危険だ。無用な反発を招くおそれがある。恋だ、好きだと反論を繰り返している内に、佳世自身を催眠術に掛けてしまうとも限らない。
ここはひとまず、想いを寄せる相手を確かめてみるとしよう。
「……で、誰なの?」
佳世に顔を寄せた小春は、口を覆い、ひそひそと尋ねる。
心臓の音が普段より大きいのは気のせいだろうか?
恋バナに興奮している?
まさか。
男の絡む話題に胸を弾ませるほど、醒ヶ井小春は下品な女じゃない。
「えっとね……」と呟きながら佳世はハンカチを出し、牛乳で濡れた唇を拭く。
正確には、拭く「フリ」だ。
ハンカチで顔を隠しながら、どこかを盗み見ている。
小春はきよし師匠ばりに目を見開き、佳世の視線を追った。
精度を高めようとするほど、小春の顔は佳世の鼻先に迫っていく。小春の四肢はぐぐっ……! と前進し、対面の机の上にまで身を乗り出していく。
窓に映った小春はほぼ腹這いで、伏臥上体反らしのように顎を上げている。そう言えば、最近、タモリのイグアナを見ない。
視線の先は……。
視線の先は……!
視線の先は!
真実を見て取った瞬間、驚愕が口を全開にし、喉が発声用の空気をイッキする。