②移民の歌
「あ~、まだ諦めてなかったんだ。学校出てから、ず~っと尾行されちゃってんですよね」
血走った目を見る限り、ラブレターを渡す機会を窺っているようには思えない。と言うか、包丁を振り回す直前の木下さんにそっくりだ。くっ、背中の古傷が痛むぜ……。
「誰だったりしちゃうかな~? ユイちゃんでもないし~、ミキちゃんでもないし~」
「三週間前、マンションの屋上から飛び降りるとか騒いでた女じゃねぇの?」
「ガチで判らないんですか!? 小春ちゃんですよ、醒ヶ井小春ちゃん、同じクラスの!」
とぼけていると思って付き合っていた改は、本気だったと知って声を裏返す。
「同じクラス……? いたか? あんなチンチクリン♪」
「相変わらず他人に興味を持っちゃいませんねえ……」
「ガキどもの顔なんざいちいち憶えてられっか♪ こちとら中山や船橋で頭が一杯なんだよ♪」
って言うか、記憶に関わる脳細胞を、アルコールにやられてるだけだろう。
「にしても、女子は頑張っちゃいますよねえ。このシロクマさんも凍える季節に、あんな短いスカート、しかも生足ですよ、生足!」
左右の手でフレームを作った改は、枠内に収めた小春をねっとりと観察する。
垂直な胸にしろ、直線的な尻にしろ、高校生にしてはボリューム不足だ。
反面、ハーフパンツから伸びる足は、陸上選手のように引き締まっている。健康的に張ったふくらはぎを見る限り、彼女の肉体が活力に満たされているのは間違いない。
興奮するあまり大きく吊り上がったツリ目は、まるでからかわれた仔猫。本人的には不本意だろう愛くるしさが、改の自制心と欲望をせめぎ合わせる。ああ、抱き締めたい。
「ああいう健気なトコ見ちゃうと、暖めてあげたくなっちゃうんです、主に人肌で」
キャーッ!
自らの過激な発言に悲鳴を上げた改は、腰をくねらせながら自分の肩を抱き締める。ミケランジェロさんは粛々《しゅくしゅく》と改の前髪を掴み、テーブルに顔面を叩き付ける。マンモスが暴れたように天井が揺れ、シーリングファンの回転がピヨる。
「調子に乗り過ぎちゃいましたか?」
軽い脳震盪に陥った改は、テーブルに接吻したまま伺う。
「悪かったな♪ タイツで♪ 背中にカイロまで貼ってて♪」
斜め上の回答を口にした彼女は、テーブルの上からビール瓶を引ったくる。続けざま豪快なラッパ飲みを披露すると、彼女はモンダミンっぽくお口くちゅくちゅを始めた。
「オラ、お望みの温もりだぜ♪」
実に楽しげな声が響き、インリン様も懐妊せんばかりの毒霧が、改の後頭部に吹き付ける。わあ、本当にあったかいや。人肌になってる。
「誰もアンタをディスってなんかねーよ!」
不当な制裁に抗議し、改は顔を跳ね上げる。びしょ濡れになった前髪を掻き上げると、フケのようにアーモンドの欠片が飛び散った。たぶん、彼女の歯に挟まっていたものだ。
「ケツが冷えるんだよ♪」
何だか切ない告白をし、ミケランジェロさんはテーブルに散乱していたバタピーを掻き集める。無差別な節分が火蓋を切ると、乱射事件としか言いようのない音が店内を震った。
改の全身を豆だらけにしても、怒りは治まらない。
殻ごとピスタチオを噛み砕いた彼女は、椅子を転がしながら猛然と立ち上がる。歌舞伎町を血に染めた夜と同じ笑みは、窓の外の小春に向けられていた。
あちらからは中が見えないのだろう。
小春は逃げ出すでも、機動隊を要請するでもなく、頬をガラスにくっつけている。改には判らない。なぜもっと命を大切にしないのか。
「恋なんておままごとにうつつを抜かす小娘には、拳骨をくれてやる♪」
高らかに言い放った彼女は、拳骨どころかビール瓶を握り締める。
否応なく小春の最期を予見した改は、急いでミケランジェロさんの腰にしがみついた。何としてでも、惨劇を未然に防がなければいけない。
馬力では相手が圧倒的に上だ。何しろ彼女は、団体二位の怪力を有している。なまじ歳取ってる分、青春や恋への憎しみも並ではない。先日もテラスハウスを襲撃する計画を練っていた。
改にとって、唯一の希望は中條だ。
いかにミケランジェロさんと言えども、監視対象が動いたなら任務を優先せざるを得ない……はずだ。「フィレンツェのガラガラヘビ」の異名を欲しいままにする彼女でも、個人的感情を優先するほど無法者ではない。そう信じたい。
動いてくれ! 君の行動が一人の少女の未来を守るのだ!
カウンターの中條を見つめながら、改は一心に念じる。
計算機に過ぎないカミサマが、実は願いを聞き入れる慈悲深さを持っていたのだろうか。
いや、ひょっとしたら、梅宮改がユンゲラー的なパワーに目覚めたのかも知れない。
熱い視線の先で、中條がグラスを置き、席を立つ。
「ミ、ミケランジェロさん、ターゲットが!」
改が必死に訴えかけると、彼女の視線がカウンターに向く。
――が、透き通ったエメラルドが中條を写し取っていたのは、ほんの一瞬に過ぎなかった。
彼女はすぐさま小春に視線を戻し、ブルーザー・ブロディwithチェーンのようにビール瓶を振り回す。ダメだ。奴は本物の無法者だった。
彼女の良心に期待出来ない以上、改が手を打つ以外に小春を救う方法はない。
後頭部に一撃喰らわせ、ミケランジェロさんを気絶させる?
そんなことをしたら、封印が解けた瞬間、無制限∞本反則なしの一戦を強要されてしまう。
ああもうなんで、友軍にここまで悩まされなければいけないのか? ミケランジェロさんは飛影か? 改はだんだんわけが判らなくなってきた。たぶん、これがミケランジェロさんの見ている世界だ。
こうなったら、狂犬の予想を超える荒行しかない。
あるかも知れないが、それしかない。
腹を括った改は、ミケランジェロさんからビール瓶を掠め取る。ヤー! と掛け声を発し、棍棒まがいの鈍器を脳天に叩き付ける。目の前にペルセウス座っぽい流星群が散り、飴色の欠片が乱舞する。
「お前、何やってんだ?」
ミケランジェロさんはまんまと足を止め、一年に一回あるかないかの真顔で訊く。脈絡のない奇行に若干引いているのか、一切まばたきがない。
「これで勘弁しちゃって下さい」
一体、何を勘弁してもらうのか? 自分でも判らないまま詫びを入れ、改は深々と頭を下げる。途端に前髪から床へ赤い水滴が落ち、無数の血痕を刻んでいった。
ビール瓶を叩き付けて以来、頭蓋骨の中ではゴ~ンと気の早い除夜の鐘が鳴り響いている。耳の中が何だか生温いのは、脳が漏れているせいか。
「しょ、しょうがねぇな♪」
つっかえ気味に言うと、ミケランジェロさんはそそくさと改から目を逸らす。心底気の毒そうな眼差しは、病人でも前にしたかのようだ。
辛くも破壊神を鎮めた改は、急いで中條に視線を戻す。
所在なさげに股間を押さえた彼は、トイレの方向に進んでいた。通路の混雑ぶりが幸いし、一歩進むのにも手間取っている。
すかさず改は通路に飛び出し、ミケランジェロさんと言うモーゼの杖を突き出す。すし詰めだったはずの人波が真っ二つに割れ、サイも楽々通れる道を作った。
開通したての道を急ぎ足で進み、改は男子トイレに先回りする。
橙の照明が、三つの便器と二つの個室を照らしている。
酒を出す店にしては清潔で、吐瀉物は勿論、便器からはみ出た大や小も見当たらない。森林の香りを漂わせる消臭剤と言い、アルコールと化粧の臭いが蔓延する店内より遥かに爽快だ。
不審な点はないか、改は中條が来る前に一通り確かめておく。
個室は無人。用具入れもモップとバケツしか使っていない。ゴミ箱にも不審物はなかった。注射器やサガミ的な物体も、こういう店なら常識の範囲内だ。
窓はA4程度の大きさで、内側から鍵が掛かっている。しかも奥に押すタイプで、手の厚み程度しか開かない。これでは大人はおろか、赤ちゃんも入り込めないだろう。
「消臭剤は、っと」
スマホを出した改は、成分調査用のアプリを起動する。
消臭剤の中身を画面に垂らすと同時にウィンドウが出現し、分析の結果を表示していく。
アミノ酸系消臭剤、香料、界面活性剤に色素と、特に異常な成分は含まれていない。
本当に大丈夫なのか?
念のため、改はミケランジェロさんにスマホを近付けてみる。
途端に鳴り始めたのは、ピー! ピー! ピー! とヒナがエサをねだるような警告音。
画面を見てみれば、アルコールの濃度が致死量を超えている。
よし、スマホは正常だ。
最低限の下調べを終えた矢先、ドアの窓に中條が映る。
改は素早く手を洗い、手前の個室に身を隠した。