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7:暗い月夜の暗い地下室

海神

 『あの様な男、死さえ生温い!魂を抜き取り壺へと封じ深海に埋めてやろうぞ!』


 *


 「使えん奴らめ」


 部下からの報告を受け、男は苦い顔つきになる。


 「しかしアクアリウス様!」

 「俺は奴を捕らえた以外の報告は受けたくないと言っただろうが」


 あの男は腐っても選定侯。一度逃せば、その立場を使いのらりくらりと逃げられる。奴が掟を破ったらそこでしっかりその細い首根っこを捕まえてやらねばやらんのだ。

 これまでもそうやって何度も逃げられてきた。だからこそここまでの苛立ちが生じる。この報告は何度目だろう。それでも部下の失態を男は強く詰らずにはいられない。


 「二度も言わせるつもりか?ならば言ってやろう!貴様らは全く使えん奴らだ!」

 「そうは言いますがアクアリウスの旦那、微妙に一回目と違いますぜ」

 「馬鹿っ!また余計なこと言いやがって!俺まで給料引かれたらどうするんだ阿呆っ!」


 使えない騎士二人の諍いに、三回目を言ってやろうかと思ったが、其程下らないこともしたくない。アクアリウスは三度目の代わりに深い深い溜息を吐く。


 「もう良い、下がれ。今日はもう帰れ。この失態はまた後日の働きで取り戻せ」

 「あっはっはっ!そいつは旦那無理ってもんだ。相手はあのフルトブラントですぜ?あの兄ちゃん波のようなお人でさぁ、尻尾握るなんて次回があってもそりゃむりだ。波に尻尾はありゃしません」

 「だからお前は黙っとけ!……ははっ!アクアリウス様!我らが王!有り難き幸せ」


 人払いの命を正しく理解したのは一人。もう片方は解った上で茶化している可能性もあるので二人とも理解はしているのかも知れない。


 「まったく……俺を何処まで侮辱すれば気が済むのだ、シエロ」


 あの部下共に自分が心から敬われないのも、歌姫シャロンが思い通りにならないのも、全ては全てはあの男!シエロ=フルトブラントの所為。

 小綺麗で男らしさに欠けるあの男に王の座など相応しくない。王とはもっと威厳のあるこの俺のような者の事を言うのだ。

 苦虫を噛み潰したよう苦い表情になるアクアリウスだが、寝所に現れる女の影に口を綻ばせる。


 「入れ」

 「失礼致します。アクアリウス様」

 「よく来てくれた、ドリュアス」


 その女は可愛気がないわけではないが、美しい歌姫達の中では霞んでしまう程度の美貌。決して醜くはないのだが、これと言って特徴もない。中の下とまでは言わないが、中の中。……そう、逆に何処かが醜ければそれはそれで人目を引くのだ。彼女にはそれがない。何処までもそこそこ可愛い程度の女。だからその身体を弄んだとしても、大抵の男は翌日には忘れてしまうだろう。彼女より美しい者、或いは醜い者を見れば記憶が勝手に上書きされてしまうはずだから。

 しかし、そういう奴らは馬鹿だとアクアリウスは思う。真に素晴らしきは彼女の歌。歌うときの彼女の笑みは極上の笑み。笑顔が女にとっての何よりの化粧だなどと臭い言葉は言いたくないが、この歌姫ドリス程その言葉に相応しい者は居ないだろう。

 唯哀れなことに、この歌姫……歌う仕事がさほど来ない。来たとしても脇役では彼女の魅力を存分に発揮させることが出来ない。主役として舞台に輝いてこそ、この平凡可愛い歌姫は、微笑みの化粧で最高の歌姫になれるのだ。


 「今日は公演があったそうだな」

 「はい」

 「俺も行きたかったのだがな。俺のような有名人が中層街など赴いては世に顔向けが出来ん」

 「いえ、そのお気持ちだけで結構です」


 俯く歌姫ドリスの肩を抱き、アクアリウスはその耳元で低く囁く。


 「だが案ずるな。直にお前は上層街の歌姫になる。俺が王にさえなれば、シャロンは引退だ。世継ぎを生ませなければならんからな……その時はお前が人魚だ、国王の妾ともなれば誰もそれに文句は言わん」


 そう囁けば彼女にも思うところがあるのか、ドリスは黙り込む。


 「さて、ドリス。戯れの前に一曲歌ってみてくれないか?」


 硬い表情の女を抱いてもつまらない。それにアクアリウスはドリスの歌を聞くのが好きで彼女を寝所に招いているところもある。

 互いに忙しい毎日だ。毎晩とはいかないが、それでも日々の苛立ちを癒してくれる、この歌姫の優しい歌をアクアリウスは好んでいた。

 高慢ちきな歌姫達とは違う、気取らない素朴な美しさが彼女の中には住んでいる。言うなれば他人を従える歌ではなく、隷属を歌う歌。それはつまりこの俺を讃える歌だと、アクアリウスは聞き入った。

 ドリスが歌うのは、今日演じたという役ではない。劇の練習中何度も耳にしたであろう、ウンディーネの歌だ。この娘は、ウンディーネになりたかったのだろう。


 「安心しろ、ドリス。俺がお前を人魚にしてやる」


 歌い終えた歌姫をそっと抱き寄せれば、一瞬強張った身体もその手を此方の背へと回すのだ。


 *


海神の娘

  『言うなれば、悪いのは私でしょう。彼には私と出会うより前に、恋人と呼べる人がいたのですから。』


 *


 「ねぇ、カロン君……」


 長い階段。帰り道。突然シエロが身を寄せて、小さく囁いて来た。

 突然背中に両肩に質量のある肉感。カロンは動揺しかけたが、続くシエロの言葉に我に返った。


(誰かに後をつけられてる)

(何だって!それって俺をシャロンだと思っているファン?)

(或いは……シャロンが生きてると知ってつけて来た、犯人への手がかりか)

(は、犯人の!?)

(しっ。気付かれないように)


 つけられてるなんて言われたら、後ろが気になって仕方がない。シャロンのファンならまだいい。その場合は俺をお忍びで変装している女と考えるはず。


(だけど……)


 不味いのは後者。もし犯人に繋がる者が追って来ているのなら、カロンがここで女の振りをすれば逆に怪しい。死んだシャロンを演じている何者かだと知らしめることになる。どちらにせよこれからそうしていくつもりなのだからそれでも良いとは思うが、もしそれがファンなら……この人気の無さ。

 シエロは言った。ファンにとって歌姫の恋人は天敵。シエロはシャロンのファンに快く思われていない。殺されても文句は言えないと、シエロは言っていた。

 それならここでカロンがシャロンと思われるようなことはしてはならない。他人の空似だと、俺は俺のまま男らしくしていれば問題はない。

 ていうか、ここでの問題は俺じゃなくてシエロだ。

 暗がりとはいえウィッグを外したシエロの髪は不思議な色合い。しかも今は女だ。今、カロン以上に正体不明の人物。追っ手にはシエロがどう見えているのだろう。女装男だと思われたらそれはそれでシエロの名誉に傷が付く。もし追っ手が殿下の騎士とかなら、殿下に付け入られる隙が出来る。シャロンのファンが追っ手なら、シエロに危害を加える可能性もある。そう思うといてもたってもいられなくなる。本当に危ないのは俺ではなくて……シエロの方だ。


(んなこと言われても)

(………わかった)

 「うわっ!」

(動揺してるのは僕の所為にして)


 不安から狼狽える俺を振り向かせ、シエロがその胸に俺を抱き寄せる。


 「カロン君……こっち」

 「は、……はい」


 豊かな胸に顔から埋めさせて貰った俺は口答えも出来ずそのままシエロに従う。不安も一気にその感触に吹き飛ばされた。

 階段の中腹。ベンチが置かれた広場がある。そこへシエロはそっと上着を脱いで、ベンチの上へと敷く。そしてそこに寝かせられてようやく俺も「え?」と思った。


 「し、シエるゥアっ!?」


 動揺のあまり、なんか巻き舌になった。シエロじゃなくて発音的にシエラになってしまった。しかしそれは好都合と、シエロが笑う。


 「うん、シエラね……酔っちゃったのかな。身体が……熱いの」


 うっすら頬を染めて視線を外し……自身の胸元をくつろげるシエロ。誰かに追われているなんてこんな状況でなければ、きっと俺の鼻からは豪快に鼻血が吹き出ていただろう。だってそんなはしたないありがとうございますな格好で俺の上に馬乗りだ。

 それが敵を煙に巻く演技だとは解る。それでもそんな女みたいな口調で話されたら、完全に何処からどう見ても女だ。


(そうか、……これがシャロンだと思わせないための策)


 もし追って来ているのがシャロンのファンなら、こんなところでこんなこと……きっとシャロンが幻滅される。だから別人だと思わせればシャロンの名誉は崩れない。幸い今はシエロが女だ。それを見せつければ誰も俺がシャロンだとは思わない。でも、誰かに見られてる。恥ずかしいはずだ。


(……こいつ、シャロンのために……そこまで)


 元は男とはいえ今は紛れもなく女の子だ。追っ手のみならず俺に見せるのだって恥ずかしいだろうに。事実さっきよりも赤面している。そんな顔を見れば俺だって否応なしに赤面する。

 それを端から見れば、確かに……シャロンとその恋人じゃない。別の男女の恋人だ。自身の羞恥心をもシエロは計算に入れたのだ。昼間触った時は布越しだったそれが、今は直に触れている。惜しむべくは俺の服。それが結局その生の感触を隔てる。

 それでも手を伸ばせば触れられる位置にその胸があるかと思うと……ごくりと咽が鳴る。


 「昼間の続き……ね?君になら……何されても、いいから」


 彼女はそう微笑んで、俺の手を取り乳房に触らせる。掌に吸い付くような柔らかさ。金の鵞鳥に触れたみたいに俺はそれから手を離せない。その言葉が嘘だと分かっていても、頭の何処かで実はひょっとして本当なんじゃないかなんて考え出した自分がいる。そんな此方の浅はかさも知らず、シエロは俺の耳元に顔を寄せる。首筋から香る香水とか耳に触れる甘い息とか、もうどうにかなってしまいそうだ。頭がくらくらする。だけどそれは俺だけで、シエロの方には考えがあるらしい。小声で、でもしっかりとした口調で囁いてくる。


(……人違いだって解れば普通は、馬に蹴られる前に退散してくれると思ったんだけどな)

(……まだ、いるのか?)

(うん、気配を感じる)


 そんな格好で感じるとか言わないでくれ。変な意味で捉えてしまいそうになる。

 まだ此方を伺っているという追跡者を探るような口調のシエロ。顔の赤みは引いていないが、その目は冷静そのもの。羞恥よりも復讐心が勝っているのだ。

 追っ手を追いかけて捕まえて吐かせればいい。俺はそう思う。けれど失敗したときのリスクが大きすぎる。今のシエロは女だし、見た感じ帯刀もしていない。何か武器は隠し持っているのだろうが、それで何とかなるとは思えない。それに俺も子供だ。この月明かりだけの道で敵を見失わずに生け捕ることは難しい。そう考えてシエロは今はそれを抑えてこの場を撒こうとしているのだ。

 今の状況を把握すれば……今目の前の人に演技とはいえ迫られてどぎまぎしている自分が急に恥ずかしくなる。何やってるんだろう、俺。シャロンの仇を取る。それは俺も異論がない。それでもその死をまだ信じられない気持ちが強くて、真実を知りたいっていう思いの方が強いのが現状なんだと知ってしまった。

 それでもシエロは違う。シエロは詳しく話してくれていないがシャロンの死を俺よりも明確に知っている。だからこうしてこんなに怒っている。復讐のためなら何をしても良い、されてもいいと思うから、こんなに無防備なんだろう。別に俺が信頼されているとか、そういうわけじゃなくて。


(呪いのことは広く知られることじゃない。これが出るのはかの血を引く男って言ったけど今は血が薄まって来ている……呪いが発現しない人も多い。あったとしても海で災いを呼ぶ方だけだね。知るのは基本は王だけで、実際呪いが発現した者と家族にだけ知らされる。呪いは王家の恥みたいなものだから……普通の人間は知らないし、これは他言無用でもある)


(つまりこんな僕を見て、それでも僕の正体に気付いたのなら……犯人に近い場所にいる人間は限られる)

(シエロ……)


 シエロに掛かっている呪いのことを知っている人間は、同じ境遇の人間かその家族だとシエロは言う。けれどそんなことを言うシエロは考えすぎではないかとカロンは思う。だって目の前の人は元が野郎だと解っていても、呪いで女になってるだけとはいえ……あんまりにも綺麗だから。


(あのさ……俺じゃなくてお前を追って来たって可能性は?)

(僕を?確かに僕が女装なんかしてるって弱みを握れば殿下当たりは喜ぶかもしれないけど彼は人魚の血が薄いからこの呪いはない。この姿を見て僕と知ることは無いはず。この暗さなら髪の色まで解らない)


 海に嫌われる呪いは全員が持つが、海水に触れて性別が変わってしまう呪いはある程度王子の血が色濃く出ていなければ駄目なのだとシエロは言う。その呪いが男に現れやすいと言うだけで、人魚と王子の子孫の男全てに降りかかるわけではないのだと言う。だけど今はそんなことを聞きたいのではない。


(そうじゃなくて……)


 この人は鏡という物を知らないのだろうか。関心全てがシャロンに向いていて、自分が他人の目にどう映るかなんて考えたこともないのだろうか?何でこんな事いちいち教えてやらなきゃならないんだ。そうカロンは呆れながらも、追っ手を撒くため此方も芝居だ、いちいち教えてやることにした。


 「お前、綺麗だし……人目を惹くよな、きっと」

 「か、カロン君!?」

 「この乳で何人の男誑かしてきたんだよ」

 「ちょ、ちょっと誤解だよ!」


 手を動かせば、シエロはくすぐったそうな声を上げるが、何も俺の勘違いではない。

 そうだ。追っ手は何も俺やシャロンのためじゃないかもしれない。偶然すれ違ったこの人に目を奪われてついてきたストーカー野郎かもしれない。そんな奴にこの人の柔肌見せてやるなんて腹立たしいとさえ思う。

 しかしシエロは俺の言葉を芝居の一環だと受け取ってくれたにも関わらず、恥じらいの表情だ。僕、と言いかけた口の形を私に戻し……


 「わ、私は……シエラは……貴方が相手じゃなければ、こんな事…………」


 嘘だって解ってる。これは追っ手を撒くための演技だ。解ってても鼓動が鳴るのを止められない。これはシャロンの物だ。解ってる。それでもまだ帰らない追っ手から見て、俺達はちゃんと恋人らしく見えていないんじゃないのか?そういう言い訳に突き動かされるように俺はある欲求に苛まれる。

 あれは事故だった。だけど今のこの人は女の子で、そこに触れたらどんな感じなのだろう。同じなんだろうか。違うんだろうか。そういう興味も言い訳だ。抱き寄せて唇を重ねてからそれが言い訳だったんだと思い知る。刹那、芽生えたのは深い後悔と罪悪感。触れた唇の感触はあの事故と同じだ。男の時のシエロと変わらず柔らかい。

 呪いだとかそんなこと、頭の何処かでちゃんと理解していなかった。唯、自分好みの綺麗なお姉さんと仲良くできて満足していた俺は馬鹿だ。こいつはシエロだ。本当に、シエロなんだ。髪の毛一本までシャロンの物なんだ。俺の物じゃない。

 多分、これさえシエロにとっては事故なんだ。別段その行動に対して照れてはない。それさえ彼女は、彼は微笑んでいる。


 「ありがとう、カロン君。今ので撒けた。人違いだって理解してくれたんだろうね」

 「それじゃあ……」

 「唯の出歯亀か変態かもしれないなー……この街って娯楽に飢えてる人も多いし、この階段を使う僕らを見て何か妖しい展開があると思ってつけて来たのかも。いるんだよね、人のを見るのが好きな人って」


 シエロは素直に一波越えたことを喜んでいる。それから我に返ったように焦り出す。申し訳なさそうだ。


 「僕なんかとあんなことさせてごめんね、気持ち悪かっただろ?」


 追っ手の気配が離れた途端、シエロの身体も俺から離れる。そそくさとはだけた服を元通りに直していく。


 「別に……俺は」

 「カロン君もなかなか役者だね。これならこれからもきっと上手くやっていける。君の協力は本当に有り難い、ありがとうカロン君」


 謝らなければならないのは俺の方だ。なのに俺から謝る機会を奪って、この後味の悪さをずっと抱え込めと言うのかこの人は。

 気持ち悪くなかった。そう思ってしまった自分が気持ち悪かった。

 目の前の綺麗な人は、口付け一つなんかで奪えない。身も心も死んでしまったシャロンの物だ。だからこそ、事故や演技であんなことをしてもされても彼が悔いることはない。全てはシャロンの仇討ちのため。そのための身の破滅は厭わない姿勢が、カロンの胸を刺す。


(馬鹿だ俺……)


 もしも最初から女のシエロに出会っていたら俺も一目惚れをしていたに違いない、だって?馬鹿は俺だ。最初に見たのは男の姿のシエロだったというのに、十分心が持って行かれてしまっている。それこそ一目惚れと呼んでも良いくらい。じゃなきゃおかしい。

 そうだ。でなければこんなに苦しい思いをするはずがない。

 この人が死んでしまったら、生きていけないなんて……そんな馬鹿なこと。思い詰めたこと。一瞬でも考えてしまったのは、俺がこの人を好きになってしまっていたからだったんだ。

 例え呪いでこの人が女になっていても、この人はシャロンの物だ。俺に振り向くことはない。多分口吻以上のことをしたってそうなんだろう。絶望的なまでにカロンは、それを確信していた。


 *


 「でも、まぁ……一時はどうなることかと思ったよ」

 「それはこっちの台詞だ!」


 やっと辿り着いた上層街の屋敷で、シエロが疲れたように息を吐く。反論はしてみたが、悪いのは自分なのだという自覚はカロンにもある。道も解らないのにシエロの手を引いた結果、あの階段へと迷い込んだ。嗚呼それならその道を使おう近道だとシエロが言った。その結果あんな事態になったのだ。


 「あの階段は今は滅多に使われない場所なんだけど……世の中には物好きな人がいるものだね」


 確かにあの階段は街灯もない。月明かりがなければ通れる物ではなかった。


 「……つまり追っ手は単にあの階段を使ってみようと思った物好きで、ついでに出歯亀だったってだけなのか?」

 「危害を加えに来なかった所を見るに、僕はそう思うけどカロン君は違うの?」

 「……シャロンのファンって女もいるのか?」

 「そりゃあシャロンほどの歌姫になれば老若男女関係無しにファンはいるよ。歌姫に憧れる女の子は沢山いるだろ?」

 「ああ、そうか。そうだよな」

 「カロン君?」

 「なら俺はあの追っ手は女だと思う」


 確信を込めてのカロンの言葉にシエロが目を瞬かせる。


 「どうしてそう思うの?」

 「シエロ、鏡見ろ。ついでにそのまま服でもはだけろ」

 「いや、こんな明るいところでそれは嫌だよ」

 「いいかシエロ、お前も男なら解れ。というか解るはずだ。追っ手が普通の男ならお前みたいな触りたくなるような胸をした綺麗なお姉さんがあんな格好したら横からかっ攫いに行くもんだ。相手が俺みたいなガキなら大した反撃出来ないままそれを見送ることになる。お前の言う見る方が好きな変態だって、こっち見てズボンとベルト落としてたとするとそんなにさっさと逃げられるとも思えない。気配が立ち去るのが早すぎた。前屈みだと考えるとそれはあり得ない」

 「カロン君……僕より年下なのになんだか例えが気持ち悪いくらい具体的だね」

 「き、気持ち悪い……」


 常識を説いたつもりだったのに、お貴族様には下町の常識が通じなかった。自分が気味悪がられたようで少し凹んだ。


 「でもそっか、女の子か。それじゃシャロンのサインが欲しかっただけかもしれないな」


 悪いことをしたななんてストーカーかもしれない奴を気遣う余裕があるとは、本格的に駄目だこの男。いや今は女だけど。平時、のほほんとし過ぎている。復讐云々言う時は本当に鋭い目付きをする癖に。こいつがこういう抜けてる奴だから俺は放っておけないんだ。


 「そうだ、カロン君。しばらくのスケジュールなんだけど、シャロンの仕事をまだ君は出来ないし証明書がないとこれまで通りの活動も出来ない。事件のことも平然とはしていられないから、事件自体はあったことにしてもいい?」

 「それでボロを出してきた奴から疑っていくってことか」

 「うん。それで暫くの仕事はキャンセル。鈍器で頭を殴られたショックで記憶喪失とかその大事を取ってしばらく休業と届けて置くけど、それでいいかな?」

 「ん、ああ」


 手帳を取り出しシエロはサラサラと予定を書き込むシエロ。覗き込むと……


 「凄ぇ……ぎっしりだ」

 「シャロンは忙しかったからねぇ……人気歌姫だから仕方ないけど」

 「お前ら会う暇あったのか?」

 「うん、毎日会ってたよ」

 「こ、このスケジュールで毎日だと!?」

 「いやほらだって同棲してたし」

 「あ、そっか。それなら会うよな毎日」

 「うん、でしょ?」

 「……」

 「……」

 「……シエロ?」

 「……何かなカロン君?」

 「兄である俺の断りもなく何勝手に俺のシャロンと同棲してんだこの野郎ぉおおおおおお!!何さらっと暴露してんだてめぇええええええ!!」

 「カロン君も男なら解るだろ?」

 「解るかボケっ!」


 思わず胸ぐら掴んで、また手が幸せになってしまった。さっきもう少し本格的に触っておけば良かった。話と考え事で手の方がお留守になっていた感が否めない。いや、ちゃんと喋りながら考えながら動かしてはいたが。感触をしっかり覚えることをしていなかった俺は馬鹿だ。


 「だって愛する人が傷つくところを普通誰だって見たくないし守りたいと思うものだろ?」

 「……は?」


 何やら同棲云々の話の方向性がおかしくないかシエロ?恋人が同棲なんて俺にはいやらしい発想しか出て来ないのに。


 「おい、何の話だ?」

 「カロン君、一人言い忘れていた人がいる」


 シエロはパンフレットを取り出して、脇役中の脇役の一人の名前を指差した。そこに記されている名前は“マイナス=ナイアード”。


 「ナイアード……?シャロンが養子に入った家だ」

 「うん、彼女はシャロンの義姉さんだ」


 メインの歌姫三人よりは大分小さな写真。映る女は美人だが気の強そうな、釣り目の女。カロンの趣味ではなかった。もしすれ違ったら挨拶程度に口説くかもしれないが、関わり合いにはなりたくないタイプの美女だ。


 「元々シャロンが僕の所に送られてきたのは仕事として。だから仕事と言う建前で僕に会いに来ても朝になれば帰る。当時のタイムスケジュールは向こうの家に握られていたから。恋人になってもシャロンは忙しい。マネージャー紛いの仕事の手伝いを僕もしてるけれどファンの手前あまり表立って付き添いは出来ない。あの頃のシャロンが帰る家は僕の所じゃなくてナイアードの家だった。……あ、何か飲む?珈琲に砂糖は?解った、入れるね」


 唯話を聞くのも退屈だろうと此方を気遣うシエロ。貴族の癖に慣れた手つきでもてなしの準備を始める。使用人はここの屋敷にも居ないのだろうか?


 「……だけどマイナスさんはシャロンに冷たく当たった。歌姫というのは目立つところに傷を付けられない仕事だろう?それを理解した上で彼女はシャロンによく暴力を振るったんだ」

 「……ゆ、許せねぇ!」

 「うん、僕も許せなかった。……よかったらどうぞ。一昨日焼いたクッキーだけど」


 珈琲と一緒に出される焼き菓子。

 焼き菓子なのは、いつ帰ってくるか解らないシャロンのために……長保ちするものを考えたのか。それにあまり甘くない。チョコレートの甘さが控えめだ。歌姫であるシャロンのためにカロリーまで考えられているようだ。それでも珈琲はほんのり甘い。良いバランス。

 こんなもてなしにまで、カロンはシャロンの影を感じる。一口目には、ここは本当は誰も踏み入れてはいけない領域で、シャロンの物で……それを自分が侵してしまっているような後味の悪さ。二口目にはそれを吹き飛ばすような美味。三口目には……一昨日というキーワードが浮かび上がる。

 一昨日、これはシャロンのために作られた。つまりその日シャロンは帰ってこなかった。シエロが下町に降りてきたのが昨日。シャロンが死んですぐにと言った。それではシャロンが死んだのは……一昨日なのだ。この冷えた焼き菓子がそれを濃厚に物語っている。

 シャロンの死が信じられない。それでもこんな手作りのお菓子一つ一つまで、シエロにはシャロンの死を囁いているのだなと思うと、一つ残らず平らげてやるしかないと思った。

 バリバリと後始末をしていくカロンの考えなど知らずに「気に入ってくれたならまた作るよ」なんてシエロはくすくす笑っている。人の気も知らないで。


 「それで?何なんだよそのマイナスって女は」

 「彼女はどうやら僕に気があるらしい」


 あまりにもしれっとシエロが言う物だから納得しかけて我に返って、飲みかけた珈琲吹き出すと同時に咳き込み鼻に入った。


 「大丈夫?カロン君」

 「お、お前なぁ……」


 俺に布巾を渡し、テキパキとテーブルの掃除を始めるシエロ。これまたやけに慣れた手つきだ。お前は本当に貴族かと、小一時間問い詰めたい。詰りたい。


 「それが原因で彼女がシャロンに辛く当たっているなら、彼女と同じ家にシャロンを置くのは好ましくない」

 「シエロ……」

 「だから僕が王になった時にナイアード家への最大限の支援の約束をし、恋人証明書を見せて当然の権利として彼女の身柄を譲り受けた。その証明書がなくなった今、マイナスがどう動いてくるかわからない」


 だから今はまずその再発行が第一だとシエロが言ったのはそのためか。


 「本当にありがとう、カロン君。君が再発行を手伝ってくれなければ僕は彼女から君をどう守ればいいのか悩んでいたんだ。お金と権力を使って家自体は大人しくさせられても、ああいう女性は止められないものだから」

 「そんなに激しい女なのかこいつ……」


 カロンは写真の女を不気味に感じた。なんだか本能的に怖い女だと思った。


 「彼女はね……うん、……僕ももうあんまり関わりたくないよ。シャロンを助けに行く時も大変だったなぁ……」


 遠い目をしてシエロが小さく息を吐く。それ以上その件について話してくれない所を見ると、話したくないことなのだろう。


 「でも君は大事なシャロンのお兄さんだ。危険なことがないよう僕が君を守るから安心して」

 「“大事なシャロン”のお兄さん……ね」


 シエロの決意の言葉。その何気ない一文が何故か勘に障る。シエロにとって自分はそういう認識なんだろう。昨日であったばかりの人間相手にそれ以上の認識なんて持てるはずがない。普通はそうだ。それでも此方はそうではないから、何だか不公平な気がした。


 「カロン君?」

 「なんでもねぇよ。それよりさっさと風呂でも入って来いよ。いつまで女のままで居る気なんだ?」

 「あ、そうだね。それじゃあお風呂沸かしてくるね」

 「お前、そんなことまで自分でやるのか?貴族なのに?」

 「え、ええと」

 「屋敷の灯りも付いてないし迎えもないし驚いた。ていうかこの屋敷……人、全然居ないな」

 「まぁ、こんな時間だしね。資金面のやりくりもあるし使用人は必要最低限の人数残して父さんの屋敷に移動させて貰ったんだ。……自分で出来ることは自分でしようと思って」


 歌姫の支援には金がかかる。勿論選定侯の家だ。金は沢山あるだろうが、だからといって無駄遣いは出来ないと自分の生活を切り詰めたのかこの男は。


 「シャロンと僕のことは僕らの問題だから、それでフルトブラントの家には迷惑かけられないからね。それに下手に深入りされてシャロンを政治の道具に使われても嫌だ」


 それもシャロンを守るための行動なのだと知って、昨日殴ったことが申し訳なくなった。この人は本当に俺の妹のことを大切に思っていてくれたんだなとカロンは思う。少し寂しいけれど、それは有り難くなるほどだ。


 「なぁ、シエロ……」

 「だから自炊は得意だよ。何か食べたい物があったら言って貰えれば僕が……」

 「シエロ、シャロンは何処でどんな風に殺されたんだ?」


 シエロの笑みが凍り付く。聞かれたくないことだってのは解る。それでもそこを教えて貰わなければ此方としてもこれから困るのだ。ずるずると先延ばしにして何か取り返しの付かない失態を生む前に、こういうことは早めに聞いておくべきだと思った。


 「……そうだね。それを一番最初に話しておくべきだったかもしれない。……でも本当に凄惨な状況だったから」


 シエロが話したがらなかったのは、カロンへの気遣いだった。それでもシャロンの死を明確に描くためにはそれを見なければ何も始まらない。


 「カロン君、君はそれを見たらショックかも知れない。それでもシャロンに会いたいかい?」


 確認をするシエロ。そこまで言うのだ。余程の物が待っているに違いない。それでも、シエロはそれを見た。見て、こんな抜け殻になって復讐を求めた。それなら俺も見なければならない。世界にたった1人の妹だ。誰よりも大事な家族だ。本当はシエロ以上に怒り狂わなければならないのは俺自身だ。中途半端なこの気持ちこそ、シャロンに対して裏切りだ。


 「会いたい」

 「解った。付いて来て」


 灯りを手に、シエロが立ち上がる。暗い廊下を抜けて階段を上り、一室の前。シエロが鍵を取り出しそれを開ければ……そこは書斎のようだった。それでも見れば生活感がある。ここはシエロの部屋なのだろう。


 「そこの暖炉の下……ここから行ける」


 シエロは暖炉の中の蓋を取り、暗がりへと続く梯子を指差した。

 下の階の分よりも下……恐らく地下まで下るとそこには部屋がある。部屋というか、浴室だ。そこへ降りてまず感じたことは肌寒さだった。


 「元々そそっかしい僕はよく女になってしまうことがあった。人目に付かないようにさっさと男に戻るには自室から身体を洗える場所に行ける必要があって、これはそのための部屋だったんだけど……」


 「シャロンはそこだよ」


 硝子の浴槽。それはまるで棺桶だ。蓋の代わりに浴槽一杯を覆うような白いシーツ。浴槽内の水は凍っていて、シャロンの時を閉じ込める。


 「これ……どうやって凍らせてるんだ?」

 「僕は先祖返りだ。面倒なことも多い分、有益なこともある。海水じゃなければ僕の言うことを聞いてくれる水は多い。面倒臭いから魔法で凍らせているっていうことにしてくれていいよ。大体間違ってない」

 「よくわかんねぇけど、わかった」


 浴槽へと近づいて……それでもシーツを取る勇気が出ない。そもそもシエロはどうしてシャロンをここへ?ちゃんと埋葬してやりたいと思うのが普通なのではないか?


(いや……)


 復讐のためと考えるなら、死体は物的証拠。それを損なわせずに残すというのは確かに間違っていることではない。精神論を優先し地中へ葬ったら分解されてみすみす証拠すら葬ることになる。

 それでもシャロンの死体を手元に置いておくと言うことは、とても危険なことだ。最悪犯人の悪意でシエロが犯人にされてしまう可能性すらある。


 「なぁ、シエロ。もしお前が人を殺したら、お前は罪に問われるのか?」

 「僕は貴族だしそこまで重い罪にはならないだろう。ただし、次期国王候補からは外される。それならまだいい……だけど僕とシャロンの間に何があったのか。暇な人々はその醜聞を騒ぎ立て捲し立てるだろう。僕が恐れることはそれだけだよ。殺されて尚、シャロンが汚されることが僕は怖い」

 「それなら、どうして?」


 復讐、犯人捜し。それは他の方法もあっただろう。わざわざ危険を冒す理由が分からない。

 そうカロンが告げればシエロは小さく呟く。


 「同じ理由さ」

 「同じ理由?」


 シエロがカロンの横を通り過ぎ、浴槽のシーツに手を掛ける。


 「ひっ!」


 その惨たらしい有様に、カロンは言葉を失った。咽からはヒューヒューと、唯息が漏れるだけ。

 シャロンは、シャロンだった物は顔の皮が剥がされている。それだけではない。脳から眼球から骨から真っ直ぐに切り落とした切断面。脳の一部と眼球の一部が切断面が此方を向いた。鼻もなければシャロンには唇すらない。顔など仮面だと言わんばかりにそいつはシャロンの顔をそぎ落としたのだ。


 “お兄ちゃん”


 いつもそう呼んでくれた彼女の小さな口が、こんな物に。俺を見る目があんな様に。

 シエロの魔法は、むごたらしい時を続かせている。いっそのこともう止めてくれ。眠らせてやれと言い放ちたい。

 それでも目を逸らしてはならない。焼き付けろ。これが俺の、俺達のシャロンがされたことなのだ。

 腹に空いた穴。何かを引きずり出されたようなその傷口。

 シャロンは真新しくそれでも血だらけの衣装を身に纏う。特に腹部の出血が酷い。白いドレスが腹から下は大部分が赤黒く変色している。引き裂かれたドレスの裾から覗く白い足にも痛々しい無数の傷。それは新しいものから古いものまであるようだ。足から視線を上げようとして、流石にスカートの中までは見られなかった。妹とはいえ女の子だ。それも死人を辱めるような真似は出来ない。目を背けたカロンに、シエロが告げる。


 「犯人の中には男もいる。それでも男だけじゃない。それが僕の今のところの見解だ」


 とても冷たい声をしたシエロの言葉。そのあまりの冷たさにカロンは、シャロンを包むこの氷はシエロそのものなのではないかとさえ思う。


 「ど、どうして……そう思うんだ?」


 なんとか振り絞った言葉にシエロは答える。


 「現場の臭い。それから証拠」

 「証拠?」

 「シャロンの子宮は燃やされていた。だからそこから証拠は得られない。それでも彼女の身体には大量に付着していたよ」

 「ふ、付着?」

 「ああ、シャロンの死体は強姦の跡があった。そこから何者かの精液も見つかっている」


 淡々と発せられる声。それでもそれは怒りに満ちている。感情を殺して説明に徹しているんだこの人は。

 正直妹が何より可愛い兄の立場からすれば、どこぞの馬の骨とこの目の前のシャロンの恋人も同じように憎いことには変わらないのだが、それでもシャロンの気持ちを考えるならやはりそれは別物だ。


 「証拠として持ち帰ってこれも凍らせているけど、今の時代の技術ではそこから犯人を導き出すのは難しい」

 「お前の魔法なら……?」


 こんな風にシャロンを凍らせられるシエロなら。そう思ったカロンだが、シエロは静かに首を振る。自身は万能などではないのだと。


 「あのねカロン君。そりゃあ海の精、川の精、そういう水の精はいるよ。そういう精霊ならこれは何処の水だと教えてはくれるだろう。だけどそれでも流石に僕も精液の精なんて名前の精霊は知らない。つまりこれが誰のかなんて誰にも解らない。最悪僕がこれを自分の中に入れて子を孕み、僕との相違点、父親との類似点を探すくらいしか方法はないかも」

 「き、気持ちの悪いこと言うなよ……そんなに思い詰めるなって」


 事態が好転しなければシエロは本当にその位やりそうで怖い。子供を産むまでずっと塩水風呂に浸かる生活を続けてでもそのくらいやりそう。これ以上追い詰められたらそんな手段を選ばない気迫がある。もしかしたら俺が協力しないと言っていたら、その方法を採っていたのかも。そんなことを思ってぞっとした。


 「少なくとも彼女に暴行した犯人は男だ。そいつが生きている彼女を犯したのか、死体になった彼女を見つけてそこから犯したのかはわからない。その時彼女に顔があったのかどうかもわからない。それでもその時にはまだ子宮があったんだろうとは解る」

 「うう……うん」

 「つまり彼女は殺される前に暴行を受けたと言うことだ。そいつがシャロンを殺したかどうかはわからないけど、その前後のシャロンについての情報は握っている」


 シエロは淡々と状況説明をするけれど、俺は吐きそうになるのを耐えるので一杯一杯だ。さっき食べたばかりだから余計に。あんなに焼き菓子食べるんじゃなかったと、今更ながらに後悔した。そんなカロンから目を逸らし、シエロは不甲斐ないと言うように床へと視線を落とす。


 「その時僕は上層街を歩いていた。丁度一昨日はシャロンが仕事が早く上がれる……夕飯の時間に帰宅すると聞いた。それが嬉しくて、僕はいつもよりご馳走を作ろうと買い物に行ったんだ。上層街にはあんまり店はない。みんな自分の屋敷が街みたいに何でもあるからね。必要な物が在ればそれを作れる人間を屋敷で雇えば良いだけなんだし。だから食材なんかは中層街まで降りなければ手に入らない。だから僕は中層街まで降りようと道を下っていた。その行き道での事だった」


 帰り道でなくて良かったよとシエロは言う。荷物が増えては運べないからと。


 「ちょうど中層街と上層街を繋ぐ道にはいくつか裏通りがある。近道も多くて、僕はそこを歩いていた。その時だ。路地から飛び出して来た奴がいた。そいつは妙に怪しい格好をしていた」

 「怪しい格好?」

 「うん。怪しいという文字が服を着て歩いているような妙な紳士。服から露出している顔から首から包帯でぐるぐる巻き。髪も帽子と包帯でまるで見えない。目だけは辛うじて出ているが、それもサングラスで色は解らない。身体の丈に合わない妙に丈の長いズボン。そいつは一度転んだ。助け起こしたら礼も言わずにそいつは走って言った。あれは今思うと背丈を誤魔化すための厚底靴でも履いていて、それを隠すためだろう。だから最低一人は子供か女が犯行に関わっている……僕はそんな風に思う」

 「そんな怪しそうな奴歩いていたら他に目撃談がありそうなものだけどな……」

 「だからこそ、参ったよ。一昨日はとんでもない催し物があったんだ」

 「催し物?」

 「仮装劇だよ。それは観客もみんな怪しい格好!中層街から溢れてくる人は吸血鬼みたいなのもいれば仮面を付けた人もいればそういうミイラ男みたいなのも大勢いたし……紛れ込まれたらわからない。今日だって君から見れば観客達は十分仮装みたいな衣装だっただろう?」

 「……ああ、確かに」

 「ああいう街だから、普段なら僕もそこまで気にはしなかったはずだ」


 着飾った人々は、たまに方向性を間違えていて仮装のような衣装で出歩く人もそれなりに見かけた。ぶっ飛んだ感性が個性だとでも思っているのだろう。


 「だけどすれ違った時、その人からは血の臭いがした。どうにも怪しいと思った僕はその人が出て来た所に向かってみた。街の安全を守るのも選定侯家の人間の役目だから」


 そこは本当に静かだった。いっそ不気味なくらい。まるで何かに誘われているようだとさえ思ったと、シエロが言った。


 「そこで見つけたのがこの手紙だ」

 「手紙?」


 これまで話に出て来なかった新たなキーワードにカロンは驚いた。


 「うわ、これは……」

 「全く悪趣味と言うしかないよ。筆跡を辿るどころの話じゃない。ここから知ることが出来るのは、これが羊皮紙だってことくらい。羊皮紙なんてどこの貴族も使うから何時誰が何処で買ったものなのかなんてわかるはずもない。悔しいけどこれだけでは手がかりにはならないものだ」


 その文字は全てが定規で線を引いたような線を組み合わせた文字だ。筆跡の癖など到底ここから読み取ることは出来ない。しかし内容自体は解る。


 “16時に上層街、いつもの場所で。

 シャロン”


 そう記されているが明らかにシャロンからではないだろう。


 「いつもの場所っていうのは上層街でよく僕らが待ち合わせに使う店のことだと思う。嫌な予感がしたけど僕は手紙の通りにその時間に余裕を持ってその店へと向かった」


 店主にはまたデートかとからかわれたが軽く流して時間を待ったとシエロは言う。気が気でなかっただろうな。


 「上層街って普段あんまり人がいないんだ。だから僕がシャロンを上手く運べたし、現場の後片付けも行えた。上層街の歌姫は下に降りて近隣諸国まで歌の仕事を請け負うことがあるから。その間屋敷の警備を任されている者はそれぞれの家にいるけれど、滅多に街まで出て来ない。上層街の貴族ははそれぞれ屋敷に籠もって遊び相手を呼ぶか中層街にでも出かけて遊んでいるかだ。ベッドタウンみたいなものかな。だから上層街にはそんなに遊ぶ場所がない。だからその悲鳴が上がった時も店内には客は僕だけ、他に悲鳴を聞いたのは馴染みの店主だけだった」

 「悲鳴?」

 「ああ。若い女の声。それは決して大きな悲鳴ではなかったけれど近場だったことと高い伸びる声だったのが印象的だ。おそらく歌姫の誰かだろう」


 それでも歌姫は星の数。上層街に仕事で来る歌姫は貴族の子飼いの歌姫?それでも昼間からは訪れない。晩餐会などにはまだ早かった。何のために上層街に来たのかわからないとシエロは目を伏せる。


 「悲鳴の聞こえた方へと走ると、近くの裏通りにシャロンの遺体があった。その悲鳴から僕がそこに駆けつけるまでほんの2,30秒。その間にシャロンがこんな風になるとは思えない。悲鳴を上げたのは別の誰かだろう。その子は目撃者だと思うんだけど……何しろ手がかりがこれくらいしかない」


 そう言ってシエロが近くの棚から取り出したのは小さなロケットペンダント。


 「僕は上着でシャロンの傷口を隠して運ぶことで、これには気付かなかった。僕より後に駆けつけた店主にはシャロンが重傷を負わされたことだけ話した。屋敷には使用人を一人しか置いていなかったのが幸いだった。僕は彼と事件の後始末を行った」

 「その人は?」

 「その内会える。今は情報収集に当たって貰ってる。信頼できる人だよ。僕にとっては本当に……昔から良くしてくれる。家族か兄弟のような大切な友人のように思ってる相手だ」


 今は彼のことは良いだろうと、シエロがこのロケットへと話を戻した。


 「後から口封じに馴染みの店に金を渡しに行った時だ。店主からこれを見つけたと渡された。僕が現場の浄化に向かった時にはもう証拠らしき物は他になかったから、駆けつけた途中で拾ったんだろう」


 開けて見て。言われるままカロンは時計の蓋を開く。するとこれは小さな懐中時計だったのか、そこには文字盤……もう一方、蓋の裏側には名前が彫られている。その名前にカロンは目を見開いた。


 “オボロス=ネレイス”


 そこには確かに、カロンの友人の名が記されている。


 「僕がもう一度下に、彼に会いに行こうと思ったのは偏にこれのためでもある」

 「何で!?これオボロスの時計なのか!?」

 「下へ降りる前に名簿を当たらせてみたんだけど、報告ではその名に該当する者はいなかった。だからこれを本人が落としたとは考えられない」

 「それじゃあ……あいつの家の者を盗んだ奴が居たとか?」

 「……あのねカロン君、歌姫も女の子だ。僕らにはよく分からないことをする生き物だ」


 お前今は女だろとツッコミを入れたくなったカロンの視線に気付いたのか、シエロは頷く。


 「僕が思うにこれはお呪いだと思うな」

 「おまじない?」

 「おそらくは意中の相手の名前を書いてそれを一定の期間、誰にも見られなければ恋が実るとかそう言った類の物だと思うよ」

 「へぇ……あいつが」


 幼なじみの顔を思い浮かべるが、誰かに想いを寄せられるような人間には見えない。これが親しみ補正という物か。しかし第三者として考えてみるなら、確かにあいつは気の良い奴だし、そういったことがあってもおかしくはないのかもしれない。


(よくよく考えればあいつも可哀相な奴だよな)


 シャロンに惚れてるからそういったことがあっても見向きもしないだろうし、そのシャロンはと言えば空でシエロの恋人になってしまったし、あまつさえ……

 ちらと視線を浴槽へ向けたカロンは、……それでもあの気の良い幼なじみよりシャロンの方がずっと可哀相だ。シャロンの時計はもう動かないのだから。


 「でも、カロン君……君のお陰でこれの持ち主は大体解った。この街で彼に関わる人間はネレイードのお嬢さん、歌姫シレナしかいない」


 パンフレットでウンディーネに扮する金髪の歌姫……シレナを指さしシエロが頷く。


 「話を上手く引き出せないのなら最悪彼女には正体を教えても良い。僕も探りは入れてみるけど、もし君が彼女と二人きりになる機会があったら様子を窺ってくれ」

 「……解った」

 「これは君に預けるよ。その方が話を引き出しやすいと思うから」


 時計を渡されて、頷いてカロンはそれをしまう。そこで部屋が静まった。シエロは知りうる情報全てを此方へ託した。それ以上今は言うことがないのだろう。何か言わなければ。そう思うのだけれど、何を言っても失態になってしまいそうな気がしてカロンは口籠もる。そんなカロンを見て、シエロはシャロンの棺にシーツを被せた。これ以上姿を晒すのは誰にとっても辛いことだと言わんばかりに。


 「シエロ……」

 「カロン……君はシャロンを見て、どう思った?」

 「お、俺は……」


 酷い、可哀相、許せない。一瞬は感じたはずだ。それでもこんな証拠を見せつけられてもどこか漠然とした思いがある。目の前にある物。あれがシャロンだって認めたくない気持ちが強い。一年以上妹とは会っていなかった。女の一年は早い。カロンの知るシャロンと目の前のそれがどうしても重ならないのだ。

 自分の知る妹は何処までも子供で、無邪気で。それがもう女で、恋人が居て……今は冷たくなっている。これはシャロンのはずなのに……俺にはシャロンに思えない。ちゃんと認められない。心が言い訳をして、今から逃げている。


 「これは、本当に……シャロンなのか?」

 「シャロンだよ。僕が保証する」


 シエロが震える声で言い放つ。彼女の恋人であるこの男は、兄であるカロンには見えていないものが見えるのだろうか。その言葉自体に信憑性などあったものではない。それでも目には見えない確かな物を語るようにシエロが強く言い切った。

 その思い切りの良さと裏腹、シエロはカロンとシャロンに背を向けて虚空を見上げる。俯いたままでは溢れてしまう物があるから。きっとそうだ。


 「……こんなシャロンが人目に触れれば、人々は心ないことを言うだろう。輝かしい歌姫。誰よりも愛された歌姫。彼女の光の陰にはどんな闇があったのか……こんな殺され方をする程の女だ。余程酷い事をしたに違いない。ろくでもない女だったに違いない。……僕は彼女がそんな好奇の目に触れさせたくなかった」


 シエロが泣いている。涙は呑み込める量を超え、両目から決壊、溢れ出す。


 「シャロンの死体が見つかれば、僕が殺人犯にされてしまうかもしれない。それ位腹立たしいことはない。それでもこんな姿のシャロンを大勢の人間の目に触れさせることが僕には耐えられなかった。心ない人々にあることないこと風評されていく、シャロンを僕が見たくなかった」


 誰よりもシャロンを想っているこの男が、犯人呼ばわりされるなんて……そんな酷いこと、俺だって嫌だ。愛する人を失って、本当は誰より辛いはずのこの人が……無実の罪で糾弾される。法がそうしなくとも、人の好奇の目にシエロまで汚されるんだ。それを理解し、カロンはシエロの気持ちを理解する。シエロはシャロンを見て、今の自分と同じ気持ちになったのだ。


(シエロ……)


 目の前のこの人を守りたい。俺の片割れを深く愛してくれた人だ。この人を心ない言葉から、好奇の目から守りたい。この人がシャロンにそうしてくれたように、俺が。


 「元々歌姫の世界では怨み妬みによる殺人事件が良くある。人魚に近づけばその的だ。選定侯の恋人という制度を作ったのもそのため。みんなが足を引っ張り過ぎては肝心の国を守れない。だからそう簡単に殺されないシステムを作った……はずだった。だからここ数代の歌姫は皆選定侯の恋人から上がっている」


 シエロはこの遺体を見て悟ったのだ。これを公にしても、きっと法では裁けない。

 犯人の一味が貴族の誰かならもみ消されてしまう。大した罪にもならない。

 シエロが王になること、シャロンが人魚になること……それを望まない権力者も多いのだ。シエロには嘆き悲しみ憤る理由はあっても、シャロンを殺す理由は無い。それでも人の悪意がシエロに罪をなすりつけることは、きっとある。


(ごめん、シャロン)


 俺は酷い兄だ。お前の死に顔を見て、それでもその仇討ちよりも……この眼の前の人が心配でならない。


(でも、シャロン……お前がこの人を愛しているのなら)


 この人が傷つき苦しめられることの方がお前はきっと辛いだろう。

 シャロンを失ったことを正しく認識できていないとはいえ、それはきっと俺自身にとっても悲しく辛いこと。だけど空にお前を送ってから、二度とは会えないと何度も聞いた。だからもう会えないのだろうと心の何処かで思っていた。会いたいと思う度におそらくもう二度と会えないのだろうとも。

 俺にとってのシャロンは、一年前に死んでいたに等しい。だから今、死に急いでいるこの人を、目の前で生きていること人を、守りたいと思うのは何も間違ったことではないだろう。それこそシャロン、お前の望みであるはずだ。


 「カロン……、まだ僕と共に復讐をしてくれると君は言ってくれるかい?」

 「……俺は信じる。お前がシャロンの恋人だって信じてやる。だから例え俺がシャロンを殺しても、お前だけはこの世界でシャロンを殺すことはあり得ない」


 誰がお前を犯人呼ばわりしても俺は信じない。この人は、被害者だ。


 「シエロ、俺はお前に付いていく。お前の復讐に付き合う。男に二言はねぇ」


 カロンは無理矢理、シエロの手を固く掴んだ。


 「まずは仕事に復帰できるように、証明書の再発行からだ。その間も情報収集は続ける。それが今出来る最善策だろ?」

 「うん、ありがとう……」


 シエロがボロボロ泣き出した。自分のポケットを探り、ハンカチを差し出す。洗濯はしたがどうしても薄汚れたような変色が目に付く。元々自分が持っていた物だからこの屋敷では空の上では霞んでしまう。だから差し出すことに躊躇いがあって、今まで出せなかったけれど、辺りを見回しても他にある布はシャロンに被せているシーツくらいしかない。それで涙をふけというのも惨い話だ。服の袖とか胸を貸してやるとか、そんな案もあるにはあったがシャロンの手前、申し訳なくてそれ以上のことは何も出来なかった。

 唯この一日で、この男は本当に涙もろくなったなぁとカロンはしみじみ思うばかりだ。

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