4:オペラ座の歌姫
※GL注意報
海神の娘の姉B
『嗚呼。可愛らしいウンディーネ。愛しい私のウンディーネ。
お前は私の傍にこそ相応しい。
お前の可憐さ美しさ、その歌を理解できるのは世界に私唯一人!
どうしてお前は解らない?どうしてお前は気付かない?
何故だ愛しいウンディーネ!
あんな汚らわしい人間に、どうしてお前は恋をした?』
*
台本にはでかでかとその名が刻まれている。エコー=アルセイド……
その名はこの界隈では余りに有名。今日の看板、主役はその人。二人のヒロインですらない。
低音高音使い分け、年齢様々な少年少女役を演じる傍ら……青年、時には悪女さえも美麗にこなす。涼しげな表情でも、その声量は遺憾なく発揮される。歌姫シャロンに次ぎ、人魚に近いと謳われる歌姫。それが私の名前。
今日の劇は『波の娘』。この国が興るより前から伝えられて来た悲恋の話。それを知っていたからこそ、この国の伝説にある王子はウンディーネを裏切りはしたが……罵ることをしなかった。海に帰りさえしなければ、それは裏切りにカウントされないとでも考えたのだろう。これだから男は。
裏切りは身体の関係を意味するとでも思っているのだろうか。エコーは台本を置き、溜息。裏切りは心から。他の相手を一度でも思ってしまったのなら、それは裏切りだ。だから今日与えられた騎士の役は、どうしても気が乗らない。
それでも引き受けたのは……半年前と同じ劇だったからと言うしかない。
あの時は浮気相手の女……つまりもう一人のヒロインベルタルダ役にエコー。ウンディーネ役にシャロンが決まった。しかし今度はその二人のヒロインを行き来する騎士フルトブラント役でオファーが来た。
前回の公演でシャロンはウンディーネの再来とまで謳われ、ウンディーネの代名詞と言わんばかりにあちこちでウンディーネ役を任せられた。だからこそ、シャロンがこの劇も受けるに違いない。そう思ったからこそエコーはこの気に入らない騎士の役を引き受けた。
物語は悲恋。伝説とは違って二人は引き裂かれる。最後はウンディーネとの口付けによって騎士は死ぬ。
(……シャロン)
全てが上手く行っていれば、半年前見せつけられたあのシーン。他の公演では唇の横……頬にだとか寸止めとか……そんなやった振りをするだけだという、恋人一途な歌姫シャロンが唯一、本当にやったキスシーン。それを私がなぞる。
親友の私となら嫌がらない。無理矢理こっちが動けば持ち込める。言い訳なら完璧。日々の多忙な仕事の疲れ。言い訳できる仕事量が私にはある。
(そう、疲れて足がふらついた。それで私はバランスを崩すの)
それで会場に来るであろうあの男に見せつけてやる。お前の大事な歌姫が、裏切りを犯すところを。優しいシャロンの事だもの。事故で私を怨んだり嫌うことはない。
それであの男と不和になったあの子を、私が優しく慰めてあげるわ。私だって……私にだって人魚の血は流れてる。
「楽しみに、してたのよ……シャロン」
また一緒に同じ舞台に。そう言ってくれたじゃない。
だけど貴女は私を裏切った。
*
「準備は出来たか?」
「ええ。お兄様」
「エコーよ。俺を兄とは呼ぶな」
「俺には俺に相応しき美しい名がある。名は体を表す。この俺の美しさを的確に表現するにはその名が必要だ。故に俺はナルキスと呼べ。だが世界一素敵で美しいお兄様なら可」
エコーは呆れて溜息も吐けない。
いつもこうだ。これが十数年続けばそうもなるだろう。私の人生最大の不幸は、この男の妹として生まれてきたこと……ではない。もっとろくでもないことは多々ある。だからこの程度の不幸は全く大したことがないのだ。
「しかしお前のコンサートのチケットが完売だと?見る目がないな。明らかに俺の方が美しいというのに」
兄はナルシストだ。生まれた時からそうらしい。これは死んでも治らないと医者に匙を投げられた。兄はその匙に映った自分に惚れ惚れしていた。死んでも治らないなら死ねばいいのに。
チケットの販売前には「お前程度の女の歌に人が集まるか!俺のサインと裸のブロマイドをつけてやる」などと迷惑この上ないことを言っていた。そんな猥褻汚物付きのチケット、私は金を積まれても要らない。
「兄様は愚かね。世の中の人が皆同性愛者だとでも思っているの?男は男である以上、一定数の馬鹿はああやって女に現を抜かす生き物なのよ。気持ち悪い」
「つまり女に現を抜かさない、俺様が格好いい。そう……遠回しに褒めたのだな?まったく回りくどい妹だ」
十分貴方も気持ち悪いですと言ってやりたいが、他の男共よりはまだマシな気もするから困る。
「そう、流石兄様は聡明ね」
面倒なので適当に持ち上げて同意しておいた。
「ははは!そうだろう、そうだろう!どれ、では俺はこれからコンサートを控えたお前のために何か飲み物でも買ってきてやろう」
気をよくした兄は控え室から出て行った。そんな優しい俺格好いいって奴ですねわかります。煩わしい男。男ってどうしてああなのかしら。
異性愛者でも同性愛者でも自己愛者でも私は苛立ち、嫌悪する。あれは私達とは相容れない別の生き物なのかしら?
ああ。気持ち悪い。後で塩でもまいておこう。いや、扉の向こう前に鏡でも捨てておこう。
今日は楽しいコンサート。私の私のコンサート。この天空都市箱船の中では、小さめのオペラ座。それでも今回はとびっきりのコンサート。
だって今回は女性限定ライブなの。汚らわしい野郎一杯のホールでのコンサートは拷問よ。あいつら汚らわしい目で私を見るもの。
選定侯家の歌姫だとか。家が裕福だから、裏の仕事をせずに歌姫をやっている処女歌姫だとか。そんなステータスで私を見る。私の歌なんか、きっとどうでも良いの。あいつら私を汚すことしか興味ないんだもの。本当、死ねばいいのに。もしも私が神様だったらまず就任1日目に男という男を全部火にくべ殺しているわ。エコーは深々と溜息を吐く。
「嗚呼……シャロン」
このオペラ座に来ると思い出すことがある。
それは1年前の今日この日。それから半年前のあの日のこと。
1年前……歌姫エコーはこのオペラ座で、彼女と……歌姫シャロンと競演した。シャロンは歌劇はあれがデビュー作。
歌劇はストーリーと曲もさることながら、歌と歌のバトル。如何に演じきり、尚かつ客に自分を印象づけるか。そしてそのためにどれだけ良い役を貰えるか。それが大事。
だと言うのにあの娘は小さな脇役。それでもそれを見事に演じきり……客の心を鷲掴みにした。誰もが違和感を感じなかった。まるでその役は、彼女のために予め作られていたみたい。そんな風にさえ思った。
経歴を洗えば生まれはあのゴミ溜めのような下町。歌の勉強も独学。私は初めて自分以外の天才を見た。それまでの私は、天才という生き物は血筋により何代にも重ね合わせて作り出される一種の血統書のような物だと捉えていた。けれど天才は身分に関係なく生まれるのだと、あの日私は認めざるを得なかった。歌姫シャロンは誰とも戦わず、誰もを打ち負かす不思議な歌姫。
その半年後、エコーはこのオペラ座で……同じ劇をシャロンと演った。二人ともメインになる役だった。
その頃のシャロンは台頭して来ていて、人気も付けて来ていた。それでもまだ、エコーには及ばなかった。誰もがそんな二人の勝負に期待していた。当然舞台は大盛況!シャロンがエコーと同じ土俵まで登ったのはあの日のこと。誰もが引き分けだったと思っただろう。それでも真相は違う。劇を終え……エコーは自分が負けたことに気がついた。
「“ありがとう……楽しかった”」
そう残したシャロンに、負けた。勝ち負けとか、そんな概念で歌を測っていたこと自体が彼女に劣っていた。如何に観客を楽しませられるか。その奉仕の心。それがエコーには欠けていた。今だって欠けている。
「“また一緒に、歌おうね”」
エコーの呟き……その後間をおかず、扉の前から戸惑う付き人の声。そしてノック音。
「きゃあっ……!あ……アルセイド様、そろそろ準備お願いします!」
「はい、解りました」
エコーはこれでもかというくらい扉を思い切り開ける。
案の定扉の前で鏡に惚れ惚れしていた兄と、さっと後ろに下がった付き人。
「傷つく俺もまた……絵になる。そう思わないかエコー?」
そのまま絵になって遺影になればいいとエコーは思った。割と本気で。
その時は歌姫としての人気を下げることになろうとも、その葬式でいえーいとか寒いギャグを言ってやってもいい。だから兄様絵になれば?
*
「今日はよろしく」
「べ、別によ、よよよよよろしくしてやらないこともないわよ!」
シャロンの代役。シャロンが蹴って代わりに収まったのがこの女。シレナ=ネレイード。シャロンは愛称でシレネと呼んでいた。
社交辞令の言葉に挙動が怪しくなっている。こんな情緒不安定な女に歌姫が務まるとは思えない。何を勘違いしたのかエコーに向かって握手まで求めてくる。それには応えずエコーは心の底から溜息を吐く。
「本番では噛まないで欲しいものね。シャロンならそんなことは絶対にしない」
「……っ!」
「私は才能のない凡人の貴女には全く期待していないの。だから勘違いしないで?貴女は台本通り、書いてあることだけをやってくれればそれでいいの。それさえ出来ないようなら貴女、この仕事向いてないわよ」
「エーコっ……あんたっ!!」
「気安く私を呼ばないで。それはシャロンが私にくれた愛称なの。私はあの子の友達だけど、ネレイードさん?私、貴女と友達になったつもりはないわ」
「っ……何よ。なんでそんなこと言うのよ!私があんたに何をしたって……」
「化粧の崩れたその顔で舞台に立つつもり?早く直したら如何?」
これ以上相手にするのも無駄。エコーは足早に廊下を立ち去る。あの成金歌姫は歌姫としての才能がないどころか礼儀常識すら弁えていない。生まれが貧しい人間はシャロンのような例外を除いて概してああね。金で品性は買えないというのが哀れだけれどこればかりは仕方のないこと。品性は身分じゃない。これもきっと才能。あの子にはその才能すらないのね。
(それにあの性格。私が親だったら精神病院にでも叩き込むか、いっそのこと楽に死なせてあげてるわ。家の恥だものあんなの)
もっとも家の恥という点ではエコーも兄も怪しい所ではあるが、自覚しているエコーはそれを改める気すらない。人が人である以上、何らかの欠点はあって然るべき。極力それが少ない、或いは表面上そう見える人間が讃えられる。だから私はそう。唯それだけ。
「“何をした”……ですって?」
才能もない癖に努力で何とかなるとでも思っているのが気に入らない。そんな空回りで心優しいシャロンの気を惹くのが気に入らない。あんな能無し、哀れんでやる必要ないのに優しいシャロンは舞台を譲った。あんな性悪女のために……中の下レベルの歌姫、あの女がギリギリ来ることが許されるこの中層街での公演のヒロインを!!
また一緒に歌おうという約束を破らせた。シャロンに私を裏切らせたのは貴女じゃないの。なのに何?あの被害者面は。
あの女を殺して、それでシャロンがこの役に戻るなら……私はこの手を汚したかも解らない。だけどあんな女でも、優しいシャロンは友達で居てあげている。シャロンは優しいからあんなゴミのような友達のためにも悲しむし怒る。親友の私と天秤に掛けたら私の方が重いはずなのに、そんな私に向かっても怒るんだもの。本当にシャロンは優しい子。
貴女に出会ってのこの一年。とても短いはずなのに。何度一生を終えたか解らないほど私の中では濃密な時間だった。それは多分、永遠と呼んでも良いほどの密度。だっていつも貴女のことを考えていた。最初は敵愾心。それが興味に代わり……別の物へと昇格した。自分の心が貴女の手に転がされているようで気に入らなかったのも最初だけ。次はどんな気持ちを私の教えてくれるのだろう。貴女の隣にいるだけで、いつも心が躍ったわ。
でも、それももう終わり。
愛は愛のままで留めるべき。完成されるべきなの。だからそれはとても悲しいことだけど、仕方ないことだと思って諦めるわ。残りの人生ずっと貴女を想い続ける。この苦しみが愛という物。私が証明してあげる。あの男は男よ。絶対貴女を裏切るわ。
(それでも私は違うわシャロン)
私は貴女を愛してる。
私だけは絶対に、貴女を裏切らない。
ヒロインシャロンにメロメロの親友歌姫。もうお前殺ったんちゃうの?
歌姫エコーさん、ガチ過ぎ。シャロンとキスしたいがために騎士役引き受けるとか下心爆発してますね。
男を毛嫌いしつつ、シャロンには男性が歌姫の自分に抱いてるような劣情抱えてるってのが彼女の矛盾。