57:箱の中
地震により頭を打って気を失っていた少年。彼を起こしたのは誰だろう。
気を失いながら、その唇で歌わせたのは誰だろう。神殿を包む冷気は、人間の歌では無い。死んだ人魚を傍らに、眠り歌っていた少年。その名を叫ぶ声がある。
「カロン!!」
呼んだのは、瓦礫の向こうから叫んだ少年。だが内面から呼び起こしたのは別の者。海神は、娘の影をそこに見る。
「オボロス……?お前……無事だったのか?」
まずは生きていた友の存在。そして呪いで女になっていても、それが自分だと気付かれたことに続いて彼は驚く。
「そんなことよりカロン!これを使え!くそっ……」
瓦礫と氷の隙間は、少年でも無理には通れない。瓦礫を崩せばそのまま自分は押しつぶされる。そして、儀式の間に歌姫は取り残され逃げることも出来なくなる。
だから彼は手を伸ばし、それを手渡すのが限界だった。自分より小柄な友の、帰り道を残すために、彼は無理には通らなかった。
「ちゃんと歌うには、それが要るって聞いたんだ」
「……お前、本当良い奴だよな」
「な、何だよいきなり」
「ありがとな!俺、絶対なんとかするから」
「カロン?」
「お前下町に戻ったら、俺の船……預かってくれないか?」
「おい、お前まさか!!」
「カロン=ナイアスは船頭だけど、俺は歌姫だからさ。もう、親父の船は使わない」
崩れた道から離れ、歌姫は儀式の間のへと戻る。それを追いかけようとする少年の、足を引きずる男女が二人。
「危ねーだろガキ!!」
「止めろ!無理に潜れば彼の逃げ場が無くなるだろう!?」
「でもっ!!あいつ死ぬ気だ!!」
あってはならない歌姫が歌う。その歌姫に、力を貸そうと奔走する人間がいる。今ウンディーネが歌う歌は、海神……儂を呼び出す歌ではなかった。
(この国はいつもそうだ)
誰か一人に全てを押しつけ、今を守ろうとする。その犠牲が儂の娘であることが何度もあった。その度に儂は怒り狂った。それならばと別の犠牲を求めても、結果は何も変わらなかった。
そして今回も……何も変わらないのか?
*
海神の娘
「《 海の底に囚われた悲しい歌
恋をしてここまで来たけれど
帰る場所がないのならそうずっと
ここにいて良いんだと言ってくれた優しい貴方
寂れた屋敷に私一人きり、でも
待っているの辛くないわ貴方を、フルトブラント 》」
*
(シエロ……)
お前が死んだこと、まだ知らない人は大勢居る。みんなお前を待っている。
酷いよな、俺もそう思った。お前に全部責任押しつけて、辛いこと苦しいことばかり。心ない言葉でお前を傷付ける奴らだって大勢居る。だけど、こうも思わないか?みんな、お前なら何とかしてくれるって信じてるんだ。
お前がシャロンと一緒に頑張ってきたこと!ちゃんとみんな見てたんだよ。シャロンは人魚になれなかったけど、みんながお前が次の王だって思ってたんだ。お前は自分には何もないと思っているみたいだけど、そんなことはない。
ウンディーネが教えてくれた歌は、お前も歌っていた歌。歌自体が魔法で、ウンディーネの協力もあってか、俺はその歌を歌えている。凄い効果もある。
だけど制御が出来ない。この冷気の歌を歌い続ければ、津波の被害も食い止められる可能性はある。しかし、普通の人間である俺は最後まで歌えず、凍え死んでしまう。
こうやって俺の命を危険に晒して、お前は来てくれるだろうか?解らない。だけどこれしか無かった。
だから俺は歌うよ。嘘の歌を歌おう!歌姫にはなれない歌姫だけど、人々に俺の歌を届けるんだ。
お前は今戦っている。頑張っているんだ。だけど誰もお前の味方をしてくれない。お前はどんなに心細い、苦しいだろう。
シエロを救うには、俺達がもっとあいつを信じてやらなきゃ。そうだろう!?お前が俺達を救いたいと思ってくれないならそれでいい。俺達がお前を助けたいと思えるようになれば良い。
俺はお前が死んでいるってことを隠して歌う。俺一人の歌じゃお前まで届かないかもしれない。届いても敵わないかも知れない。だけど死のうとしている俺を死なせたくないって言ってくれる人が居る。その人をそう思う人だって居る。それが繋ぎ繋がり国がある。世界がある。
守るってそういうことなんじゃないか?なぁシエロ。難しく考えなくて良いんだ。ただ、耳だけ澄ましてくれ。俺の声を聞いてくれ。お前はシャロン一人だけの物じゃない。
(なぁ、本当に良いのか?)
今壊れようとしている。お前がアルバと暮らした屋敷も、お前がシャロンと歩いた町並みも!少しだったけど……俺と駆け抜けた場所がなくなってしまうんだ。もしお前が……俺だけ守ってくれたとしても、俺はどうしたら良い?
お前に縋る物が何もなくなる。お前を恋しがり、懐かしみ……辿る道も消え失せる。そんなの夢見たいじゃ無いか。本当にお前は居たのか?俺が愛した人は、本当に存在していたのか?箱船も下町も全部流されなくなったら。
(俺は、寂しいよ)
お前との出会いから別れまで、俺の目に焼き付いて離れないのに、お前も居なくて、その景色も無いなら。
もし生き延びられたら。そうもう一度よく考えた。そうしたら、俺が海神に話したこと、間違ってたよ。永遠って、俺だけじゃだめだ。俺以外に誰か、それを覚えていてくれるものがなけりゃ成り立たない。せめて俺が死ぬまで、お前と過ごした場所がそのまま残って居てくれなきゃ……それは俺の永遠じゃ無い。お前の気配を、お前の呼吸を……お前のことを感じ取れる何かがなきゃ、俺はきっと耐えられない。
これは俺のエゴだし、ウンディーネはこんな気持ちで人々を守ったんじゃ無いだろう。だけど俺は彼女と違って、母親じゃ無い。そんな風に土地や組織を愛せない。
お前がお前を俺にくれないなら、せめて。この風景だけは俺から奪わないでくれ。俺を僅かでも哀れむなら、可哀想にと……愛していると思ってくれるなら。
(昔の俺にだって、縋れる物はあったんだ)
親父もお袋も……シャロンもいない、下町で。俺はどうやって生きていた?親父とシャロンと暮らした家があった。親父の船もあった。思い出を共有してくれる、オボロスもいた。だから俺は、親父のこともシャロンのことも忘れずに居られたよ。寂しいこととかはそりゃああったさ。それでも一人だって辛くは無かった。
だからシエロ。俺を愛してくれないなら、せめて……俺がお前を思える場所を、残させてくれ。お前がいない、誰もいない屋敷でも……俺はずっとそこにいたいよ。お前がもう二度と、お帰りなんて言ってくれなくても……俺は何度だってそこに帰りたい。
「……しつこいお兄ちゃん」
「シャロン……」
「何しに来たの?」
夢だろうか、幻覚だろうか。ドリスが傍に居ないのに、俺は先程シエロと対峙した場所まで戻って来ていた。
(俺は、凍死しかけているのかもしれないな)
オボロス達が目覚めたからか、その場所はがらんと広くなっている。氷の破片が床には残っておらず、ただ一枚……分厚い壁が残されているだけ。
「どんな歌を歌ったって、シエロはお兄ちゃんには靡かない。彼は私の永遠なんだから!」
「シエロ。もしシャロンがお前以外に……お前よりもずっと愛する奴がいたらどうする?」
シャロンを無視し、俺は瓶の中の彼だけに語りかける。これは仮定の話。でも違う。シャロンはお前を愛していない。これはいつかきっと、訪れること。
「お前はきっと、シャロンを追わないよな」
「違う!私のシエロはっ、僕を見捨てないでって私に縋り付いてくれるわ!!」
「それでシャロンが幸せなら。そう言ってお前は笑うはずだ。その後シャロンを見送った後、一人でボロボロ大泣きするんだ。お前はそう言う奴だ」
「っ……!」
シャロンの妄想を俺の言葉が塗り替える。そして感じ取っている。シエロはシャロンを愛してる。愛されている。だけどシャロンがそれを、はじめて認めてしまった途端、違う物が見えてくる。
愛する人の愛を認めた瞬間、思い知る。自分の中が空っぽなんだ。欠けていたのはシエロではなく、シャロン。
「でも、シャロンは違う。シエロの心変わりを許さない。どんな手を使っても、自分に縛り付けようとする。……俺も、そうかもしれない。気持ちだけなら」
お前を諦めたくない。お前が俺にくれた言葉すべてが同情だったと、思いたくない。だけどそれが真実ならば……
「だけどシャロン、俺はお前のほしがった永遠を手に入れた。シエロに振られることで……俺は永遠を手に入れたんだ」
届かない思い。叶わない片思い。この痛みが、苦しみが生涯癒えず、胸にくすぶり続けるなら……それこそが永遠の愛だ。
「永遠を手放したのは、シャロン……お前なんだ。シエロはお前の望みを叶えるために、お前を裏切ったのに」
「なに……そんな、そんなっ!!そんな永遠!私の欲しかった幸せじゃ無いっ!!」
「お前は狡いんだよシャロン!いつだって、自分は傷つかずに、痛みも知らないまま何もかも手に入れようとする!お前が何を犠牲にしたか!?お前はいつも誰かを犠牲に自分を守ってきた!お前が愛してるのはお前自身なんだよっ!!シエロはいつだって、お前のために傷ついてきたのに、お前はっ……死んだのだってお前のためだろ!?俺はお前と違うっ!俺は永遠なんか要らなかった!シエロと今を、積み重ねたかった!!」
時間が心を変えてしまっても、それを恨んだりはしない。生き続ける限り、どんなことでも起こりえるから。
「誰だって、本当はそうだ!お前は人魚になれない!俺だって……!シエロが欲しいと思ってしまった、手を伸ばした俺なんか!!きっと何にも救えない!!」
人々の、今を守る役目が人魚。他人を犠牲にしてまで生き延びた、俺やシャロンに資格は無いんだ。だからウンディーネが力を貸してくれたって、俺には何も出来ないだろう。
それならもう、諦める?死んだって彼を取り戻せないけど死んでしまおうか?いや、そんなことは出来ない。身体がどんどん冷たくなっていくのが解るけど、俺の身体は歌うことを忘れない。
「シエロが……そこから出てくれないなら、それでも良い。どっちにしろ俺は歌うよ」
シエロを好きになって色々あったけどさ、その全部が俺の人生だったって訳じゃない。どんなに大切でも、お前を失って抜け殻になった俺を呼び起こしてくれたのは……それはウンディーネだけではない。
「あいつは、俺のことを心配してこんな空まで来てくれた。その所為で辛い思いもしただろうし、俺と喧嘩だってした。それでもまだ、俺を助けようとしてくれる」
昔の俺の気持ちが、解ったよ、今となってはベルタのことも、憎めない。愛に囚われたのは俺もシャロンと同じだ。人生ってそれだけではない。シレナを失っても、追いかけてくれたオボロスは、友達として俺やシャロンを大切に思ってくれたからなんだ。
だけど俺はいつもあいつを適当にあしらって、良いように使い……友達として親身になってやったこともない。自分のことを思い返してみれば、本当に酷い奴だった。心残りはそれなんだ。
「あいつ、本当に良い奴なんだ。あいつのシレナへの思いが永遠になるか、今になるかは解らないけど……あいつ、こんなところで死んだら可哀想すぎるだろ?」
届かない思いに、同情している?わからない。だけど彼女と彼を思うと、俺も辛いのだ。心だけでも彼女が人魚になれたなら、彼女はきっと思うはず。誰より彼の、幸せを。そんな願いを、そんな思いを祈った悲劇の歌姫。彼女が想い続けたオボロスが……俺の所為で空に来て、巻き込まれて死んでしまう、それだけはごめんだ。
俺が生き延びられないなら、思い出も街も要らない。ウンディーネじゃない、カロンとして得た友人を、俺は死なせたくない。それは愛とは違うけど、死ぬに生きるに値する。それを俺は知っていたはずじゃないか!
「シャロン、お前はシレナを助けることが出来たのに、彼女を犠牲に生き延びた。そんなの、友達じゃない!」
「あ、あんな女!信じられない!私を好きだったオボロスの心を奪ったわ!?始末して正解よ!!シエロだって狙われたかもしれないじゃない!!昔から何も変わっていない、最低の女よっ!!」
「それはシレナの罪じゃない!彼女がお前をウンディーネとして、一度でも責めたことがあったのか!?」
「………っ、う」
「最低は……俺と、お前だ。そうだろ、シャロン?」
返す言葉もないのだろう。シエロに縋り付くよう小瓶を抱きながら、シャロンはその場で嗚咽を漏らす。昔の記憶に振り回された、シャロンの辛さは俺には解らない。
愛に生き、愛に死ぬ?それが美しい行いで、人間としての正しい在り方だとでも?愛は人の側面だ。それだけ追いかけるのは、人間以下の存在だ。愛を失い、俺もようやく気がついた。
シャロンがシャロンとして心を許し、築けた人間関係は……恐らくシエロ一人。多くに愛される歌姫を演じる内に自身とウンディーネの心がかけ離れていることに気がついた。シャロンがシエロを信じられなかったのは、シエロのウンディーネありきの愛情。自分がそうでなければ愛して貰えなかっただろうという引け目。試してみたかったのは、自信のなさ。シエロを手に入れたシャロンが幸せそうに見えないのは、シャロン自身の問題が何一つ解決していないから。踏み出すこと、変わることを恐れた永遠は、停滞と同じだ。
(俺も、同じか)
俺は悪魔にはなれず、永遠に同じ気持ちを抱えられない。シャロンへの殺意も、ベルタへの憎しみも……こうして薄れてしまうのだから。そう言う意味では、シャロンは凄い。俺では勝てない物を彼女は確かに持っている。だけど彼女が求める物は、空中に築いた城であり……永遠を求め続ける限りシャロンは幸せにはなれない。
(それじゃあ、俺は?)
(シャロン……)
お前に利用されていたことも知らず、生きていた俺は、満たされない物を抱えてはいたけれど……本当にお前のことが大事だったよ。俺がいけないって知っているけど、どうしてこんなことになっちまったんだろうな。
俺がカロンの気持ちを守り続けていたならば。いつまでもお前にとって良い兄であったなら、お前も変わってくれただろうか?お前の心の中でどんなに馬鹿にされようと、お前を信じ愛して慈しんでやれたなら……お前は人を信じられる人間に、なれたのだろうか?
(ああ、そうか)
俺は、歌ってはならなかった。手紙を書いた頃のシャロンの気持ち、あれが本当なら……シャロンは俺を信じようとしてくれた。不信の箱船世界の中からお前が俺に送った……助けてと、いう合図だったのに。
それなのに俺はシエロばかりに夢中になって、お前を救うことなど考えなかった。お前が生きていたことを喜びもせず、疎ましく思った。シャロンを、こんな場所に突き落としたのは……俺なのだ。
(悪い、お兄ちゃんで……ごめん)
俺達は、互いに劣等感を植え付け合って、傷付け合って生きていた。シエロは俺の身代わりになっていた。本来、シャロンに傷付けられるべきは、俺だった。全ては、オボロスのよう空まで彼女を追いかけず、日常を送り続けた俺への罰か。
「シャロン……これは、俺が俺のためにやってることだ。お前の責任を俺が取るわけじゃない」
でも、仕方ない。どんなに忌み嫌っても、憎んでも……シャロンは俺の妹だ。それも人間として生まれた俺が、得た物だから。
「シレナには、いつかお前が謝れよ?」
壁へと向かい、手を伸ばす。触れられるはずのない、妹の頭を……最後に一度撫でてやりたかった。壁は壊れていないのに、俺は彼女に触れられる。
(ああ、そうか)
歌はもう、終わってしまっていたのか。
*
???
「人間なんか、大嫌い。だけど、死んだら愛してあげる。あげられる。
歴史書の人間だって、生きてた時はどうせろくでもない唯の人間。
だけど本になったなら、不思議ね、私は嫌いじゃ無くなるわ。例えそれが嘘であろうと……」
*
(悔しい……)
思った通りに口に出せない。反論の言葉を私は持たない。震える手で、書き殴ることしか……。
嫌いよ、嫌い。大嫌い。人間の笑い声が、私は一番大嫌い。奴らは何かを嗤い、虐げなければ生きられない、残酷な生き物。私が目を付けられたというだけのこと。だけどそんな風に、私は諦められない。
(本は、素晴らしいわ)
ここから私を連れ出してくれる。最低な現実から私を攫い、一時の夢を見せてくれる。
知識の宝庫の前で、人は平等な存在になる。記された時代の所為で、差別的な話なんていくらでもあるけど、それを読んでいるのが女でも男でも、その文章は一文字たりとも変わらない。同じ言葉で伝えられている言葉。つまり本の前で、人は誰でもあって、誰でもなくなる。男だ女だ、そんなちっぽけな尺度は消えてなくなる。私は私としてここに向き直っているわけだ。その感覚が、私はとても好き。
でもその内気付くわ。幸せな、物語なんて……読んだところで悲しいだけよ。そんな空想、夢物語。それで得るものなど何もない。彼らが幸せになったって、私はずっと不幸なまま。
それなら私は何を読む?古今東西、ありとあらゆる悲劇に喜劇?復讐劇?嗚呼、そんなものも悪くない。人死に、復讐!殺伐、血みどろ!!すかっと爽快!最高じゃない!でもそれも読み飽きた!もうどこにも私を満足させる本が無い。嗚呼、それならば。私が書けばいいじゃない。憂さ晴らし上等!幸せな奴らをとことん苦しめ、虐げてあげる!
何も出来ない私でも、文字を書くことくらいは出来る。紙の上は、自由な世界。私を咎めるものなどいないのだ。何をしようが、誰を殺そうが、それは私の自由。
そうやって、嫌いな奴を何人始末しただろう?
私の日常は何も変わらないけれど、そのモデルとなった奴らの顔を見るだけで自然と笑えて来るものだ。お前はいずれ惨めに無残に死ぬのだと、そう思えば吹き出しそうにもなる。
人間なんか、誰も永遠を生きられない。いつか死ぬんだ。苦しんで息絶えるんだ。私が手を汚すまでも無い。
「おい……見ろよこれ」
「なんだ、これは」
(ひ、人の荷物を勝手に見るなんて!!最低っ!!)
「人殺し!!お前があいつを殺したのか!?」
(そんなわけ、ないじゃない!!)
そんなことで人が死ぬはずがない。あんた達何?何馬鹿なことを言っているの?
思うだけで、願うだけで思い通りになるならば!私は今頃、もっともっと幸せなはずでしょう!?
「腕を折れ!この魔女が何も書けないようにしてしまえ!!くそっ、暴れるな!!」
「よくも、よくもあの人をっ!!!」
思いきり突き飛ばされた。それからの浮遊感。そして続いた落下感。嗚呼、落ちていく、落ちていく。落とされている。私はこのまま死んでしまう。殺されるのだ、あいつらに!!
私が何をしたって言うの?生きていてはいけないの?それさえあんた達は目障りだって言うつもり!?
死人に口なし。生き残った奴らの口で、歴史は語られる。真実なんて簡単に屠られて。奴らこそが人殺し!なのに何も咎められずのうのうと生き延びる。私に汚名を着せて、私の生も死も冒涜するのでしょう。
(許せない……)
涙と一緒に私は笑う。無理にでも口角を釣り上げて、笑みの形を作らなければ。だって悔しいじゃない。最後くらいあいつらを、私が嗤ってやりたいじゃない。そうだ、お前達は死ぬんだ。私が手を汚してやる!
死ぬなら死ぬで、死んでやるわ!私の命と引き替えに、私はお前達人間を呪ってやるんだ。
地面に落ちて息絶えて、それでも私は落ちていく。ずっとずっと深いところに。私の魂は引き込まれていく。暗い暗い、闇の中。私は静かに目を開く。
そして最初に聞いたのは、なんとも深いな嘲笑だ。嗚呼、それが人間の物でなくとも私を不機嫌にさせるには十分すぎる。
「まぁ!古株の腐れ魔王が、まさか人間上がりだったなんて」
(あんたの慕うその腐れ兄貴も人間上がりなんだけど)
悪夢の中に現れた、腐れ同僚兄妹。今の悪夢はエフィアルの力だろう。しぶといあの男だ、やはり死んではいなかった。
文句を言ってやりたいが、弱体化しすぎて今の私は言葉を発することも出来ない。
「アムニシア!しかしイストリアはそうではない。司る歴史と物語そのものであり、人間の歴史……その中で非業の死を遂げた魂の集合体だ。その中の魂一つが表面に出た者は同僚の中にも居るが、これほど素晴らしい存在は他には無い!やはりこれこそ我の伴侶に相応しい!!」
「お兄様!!まだそんな世迷い言を!!大体これは今男悪魔なのですよ!?」
「む……?」
(こっち見るな変態)
アムニシアに言われ、私が男型になっていることにようやく気付いた腐れエフィアル。
「案ずるな……」
(何よ)
「その姿でも、我はお前を愛している!!」
(は……!?)
何本に感化されてんの!?変なこと言わないで!!人が弱ってて動けないのを良いことに、何連れて行こうとしてんのよ!どこ行くつもりだどこにっ!!
「お兄様……」
「あ、アムニシア」
「お兄様……」
「我にはやはり、出来ん!こんなに弱っているイストリアを更に苦しめるなど我にはっ!これは我が娶り監視し、管理する!それで悪さはさせぬ!これで全ては丸く収まるだろう!?」
「夢現司りし第三領主が命ず……」
どさくさに紛れて何言ってんだ。そうつっこむ気力も無い。だってエフィアル……あんただって解ってるはず。アムニシアを怒らせたらどうなるか。万全の私なら兎も角、あんたとこんな私が組んだって勝てないって、誰でも解る。それが解らないあんたじゃないでしょ?それでもそう言うってことは……余計にアムニシアを怒らせる理由になる。
「駄目です、お兄様」
「アムニシア!!貴様が我を本当に愛しているのなら、……おまえこそが、我の幸せを誰より願ってくれても良いだろう!?」
「駄目ですわ」
「ならば……覚悟は良いか?」
「だってお兄様?少なくともイストリアに、その気は無さそうですもの」
「何を馬鹿な!今の満更でも無さそうな反応を見ただろう!頬を赤らめたのを我は確かに見たぞ!!」
「気持ち悪いっ!汚い手で私に触れるなっ!!!」
「え」
私に突き飛ばされ、エフィアルは惚けて尻餅。見上げた先で怒り狂う私の姿を見、奴は妹に掴みかかった。
「アムニシア!!貴様何をしたっ!!」
「なんかよく分からないけど、喋れるくらいには回復したわ!」
「回復ではなく、更に弱体化したのですけど」
姿を維持する魔力が消えて、それが声に変わった。アムニシアの言うよう私が女型に戻ったのは、弱体化が原因だったよう。確かに身体は重く、自力で動くことは出来ないばかりか、エフィアルを攻撃した直後から、ずしりとした重みを感じ……いよいよその場に倒れ込む。今のが最後の私の魔力だったのか。私は再び声を失う。
「アムニシアっ!!」
「封印を致しましたの。私の第三魔力で……彼女の記憶の一部を」
「お兄様との、楽しい思い出、好意的な記憶は全て封印しました。今あれに残っているのはお兄様への憎しみと、嫌悪感だけですわ」
「き、貴様ぁあああああっっ!!!」
「それでもまた何億何兆年かけて、この女を口説きますのお兄様?それとも……もっと手っ取り早く本当に囀るだけの、無力な籠の鳥にでも?」
アムニシアの囁きに、エフィアルは顔を歪めた。そしてゆっくり私に近付き、跪く。
「……許せ、イストリア。せめて憎しみでも。誰より我を思ってくれ」
何をするつもりだろう。戸惑う私を抱き締めながら、奴はもう一方の手で私の角へと触れる。慈しむようそれを撫でた後、一瞬気を失うような激痛!角を、折られたのだ。
「~~~~~~~~~~~~~っ!!!!」
身体は動かない。それでも痙攣はする。痛みで呼吸も乱れ、涙と涎が奴の服へと染みこむが、あいつは嫌がりもせずそれを受け止める。そしてもう一本の角へと再び手を伸ばす。
何とか身を捩り、逃げようとしてみるも、そんな力は残っていない。
私はあんたを気持ち悪いと思っているけど、少なからずあんたは私に気があるはずなのに、どうしてこんなことするの?泣き落としなんて嫌な手を、使いたくない。それでも縋れる物があるなら縋りたかった。本当に私を愛しているっていうのなら、私を助けてくれるはず。そうじゃないのと問いかける。
「 」
両の角を失った。私の口からは咆吼のような悲鳴が上がる。息だけで大気を振るわせ、怒りを怨みを歌う歌。そこに歌詞なんてない。あるのは……憎悪。それだけだ。
(ゆる、さない……エフィアルティスっ!私は絶対に、あんたなんかにはっ!!)
角は大人の悪魔の証だ。長く立派な角ほど生きてきた時間の長さを表す。それを壊され、子供悪魔の様な翼だけの姿にされた!!こんな屈辱を、このイストリア様に!!
「兄様、角だけでは駄目ですわ。髪にも魔力が貯まっています」
掴まれた髪、あいつは名残惜しむように指に絡めて……強く引く。しっかり伸ばした髪を携えた剣で迷わず切って……私を惨めな姿に変えた。長かった私の髪は、もう肩ほどまでの長さしか残っていない。
「惨めね」
「……っ!!」
「契約者にまで裏切られ!兄様にさえ見放されっ!貴女らしい似合いの姿よイストリア」
(アムニシア……!!)
身体は重いし頭も痛む。顔を持ち上げて頬に触れる髪も短い。あれは確かにあったこと。そして連れ戻されたこの場所は、ベルタの仕掛けた檻の中。
身動きの取れなくなった私を嘲笑うため?再び夢現の魔女は現れた。いや、彼女だけじゃない。この本が封じたはずの他の同僚達、全員の姿が見える。
私は夢から目覚めたはずが、ここも変わらぬ悪夢のようだ。本の中には来ていないはずのカタストロフの姿まで、こんなにしっかり見えている。この脚本は、奴の夢に浸食されてしまった。
「ごめんね、イスト。でも……最近の貴女は度が過ぎまず」
「悪いなトリア。こっちも命が掛かってるんでな、それにエングリマだけ良い思いはさせられねぇ」
「そういうことだね」
私は私の意思で、この本を手に取った。私の思惑で筆を動かした。だけど再び物語は、私の手を離れる。神なんかより遙かに全知全能、その私をこうして檻に閉じ込めるのが、人間だって?
(お前は……誰だ、だと?)
この牢獄さえ破れば、こいつらの半数は道連れに出来るかも。カタストロフは無理でもエフィアルくらいは殺してやりたい。
(私は……)
もう喉元まで来ている真実がある。それを受け入れ、私が私の名前を取り戻したら、こんな屈辱的な物語!何もかも書き換えられる!!
(私は……私)
私は魔王イストリア。歴史と物語の悪魔。それ以外の私なんて、あるはずがない!ここにいる私こそが全て!思い出したくないことなんて、どうして思い出さなきゃいけないの?
「境界司りし第六領主の名において。その魔は境界を歪め」
「罰司る第五領主の名により。自由な精神を束縛し」
「罪を司る第四領主が名をもって。身体をも拘束し」
「久遠司る、第一領主が命じる。これらの悪夢は、永遠に終わらない」
同僚達の言葉によって、身体がどんどん重くなる。力が奪われていくだけじゃない。それは私の治める領地への影響力もなくなるということ。今この瞬間にも、私の眷属がこいつらの眷属によって侵されていくっ!!
「貴女が大がかりな脚本を書こうとする。つまり我々の存在を脅かすようなことがあれば、貴女の人格は不安定なものとなる」
「俺の呪いはあれだな、心が自由にならねぇ。つまり、俺らの長である第一公以外にな、勝手に誰かに心奪われるような事があれば消滅するってわけだ」
「僕のは……イスト、貴女は第七領地の屋敷から外へは出られない。こうして本の中に入ることだってまず不可能。無理矢理入れば命に関わります」
「おおー!すげー!!領地が広がるだけで、前よりずっと力が湧いてくるぜ!!」
「エング君は本当に領地は要らないのかい?レディティモに殺されるのでは?」
「僕はその分、イストの魔力を多く吸わせて貰います」
「ちっ、こすい手使いやがって」
「まぁ、君の封印が地味に一番えげつないからねぇ」
(人が苦しんでるのに何普通に日常会話してやがるこの腐れ同僚共!!っていうか、なんであんたらがここにいるわけ!?)
いつか絶対殺してやる。殺意の籠もった目で睨むも、それを遮るよう立つ女の影。言わずもがなアムニシア。彼女は勝ち誇った笑みを浮かべているが、エフィアルに抱えられている私を射殺さんばかりの殺意を向けていた。
「どうしてって顔ねイストリア。夢渡りの力が無い彼らがここにいることが、そんなにおかしい?」
私の失策だ。はなからあの男が来るはずが無いと決めつけていた。あの男さえいなければ、ここまで私が追い詰められることは無かった。こんな小娘に!エフィアルみたいな若造からこんな屈辱を受けることも無かった。
(カタストロフ……っ!!)
どうしてあんたがここへ来たの?あんたには関係ないことじゃない。地位にも権力にもお互い興味が無いのは解ってたでしょ!?私がお遊びで、あの双子を本当に殺すと思ったの?
(……違う)
あんたは招かれたんだ。他の同僚達と同様に、この世界に招かれた。私がそう仕組んだわけじゃない。この感覚は……以前もあった。脚本が私の手を離れていく。実質もっとも恐ろしいあんたでさえ、魔王でさえ抗えない何かは……確かに存在しているのだ。
それなら私は、何の脅威にもならない。こんな風に封印される謂われだってないはずなのに。どうしてあんたがこれに協力するの?賛同するの!?
一言文句を言ってやろう。そう思っても声が出ない。例え出たって、きっと私は震えて何も言えない。
(どうして……)
起きているこの男を見るのは、本当にどのくらいぶりだろう。この場の誰より重厚なプレッシャー。私やアムニシアなんてものじゃない。私が書き綴ってきたこの世界、今この瞬間にも粉々にしてしまうんじゃないか。そんな無慈悲な恐怖を奴は植え付ける。
「第二領主が眠らせる。忘却の果てに、帰る場所は無い」
だけどそれはやる気が無い?間の抜けた……優しいとさえ思える声だ。他の領主達のような呪いめいた言葉とは違う。しかし何より恐ろしい。思い出したくないことを、気付かせるような知らしめるような脅迫だ。
あんたは私の何を知ってるっていうの。睨み付けるも、緊張感の無い無感動な男は……私はおろか自分自身のことさえ何も知らないような空虚な瞳。
「イストリア……領主が定める制約を破れば、お前は完全に消滅する。大人しくあの屋敷で暮らすが良い。もう落ち着いても良い年頃だろう。悪さと悪戯は死なない程度にしなさい」
終末の悪魔がそう語る。綴った本には穴が空き、見慣れた屋敷がそこから覗く。あれだけ盛り上がった宴も終わり……客も眷属も誰も居ない、静かな私の、小さな領地。食べられてしまったのか、殺されてしまったのか。取り込まれたのかも知れない。同僚共の魔力と化して。
ただ一人……いや、一匹。残された者がいる。それを見て、私は腐れエフィアルを突き飛ばし、それの方へと駆け寄った。
(使い魔!!)
床に倒れ込み、気を失っている小さな蝙蝠。人型を保つ魔力も無くなる程に弱体化したそれを見下ろし、魔力の増えたエペンヴァがこの上なく胡散臭い笑みを浮かべた。
「嫌、すまないねぇイストリア嬢。この使い魔は計画の邪魔をするといけないなぁと、私が動力を切っていたんだよ。信じる、信じないは貴女の自由だけどね」
同僚にも、契約した歌姫にも裏切られた。誰も信用できない。そんな私の心を見透かした、エペンヴァは使い魔を指でつまみ上げ……にたりと大口を開けて笑うのだ。
「嗚呼、勿論疑われても仕方ない。貴女がこんな者もう傍には置けないと言うのなら……ここで私が食べてしまって魔力の足しに」
「そいつは私の使い魔だ!!」
咄嗟にそんな言葉が出てしまった。本の外に出て、蔵書分の魔力は戻った。私は喋れる。だけど……角も折られ髪も切られた。こんな姿では子供の悪魔以下。あの双子を打ち負かすのだって危うい。エペンヴァにだって……この使い魔が相手に付けば、私は。
「こ、この馬鹿は……イストリア様の魅力に骨抜きなのよ!この馬鹿が……使い魔ふぜいが私を裏切るなんて、そんな頭あるわけないっ!」
変態の手から小さな蝙蝠を奪い返し、なけなしの第七魔力を注いでやって、ようやく使い魔が目を覚ます。私の行動を面白がるようくくくと笑いエペンヴァは……
「ふぅむ……それでは本人から聞いてみようか?使い魔、お前の主は誰だ?」
「……俺は、もうここには」
「使い魔……っ!」
ここにはいられない。自ら裏切りを認めようとする使い魔の、言葉を私は遮った。
お前を信じたわけじゃ無い。だけど、私の眷属はここには誰も居なくなった。領地としては最低な、小さな屋敷。だけど一人で暮らすには、ここはあまりに大きな牢獄。
「……イストリア、様」
「こいつら全員帰らせなさい使い魔っ!!狭かろうがここが私の領地!!勝手に上がり込まれる謂われは無いわ!!祭りは終わりっ!!さっさとここから出て行きなさいっ!」
あとはエピローグでやっと終わらせられます。
推理小説のはずが、恋愛色強くなりましたね、反省。
書いていてとても難しい物語でした。いつか書き直してみたいです。