52:夜明けの番人
「おら、もっと早く走れよ王子様!」
「くっ……何故俺がこんな目に」
「こんな目?あんたは私に借りがあるはずだよな?」
マイナスが箱船へ戻ったのは、とうに裁判の終わった後。連れは文句を言っていたがこればかりはどうしようもない。
「し、しかし……悪魔だなんだ、そんなモノを信じろと言うのか?」
「海神だの呪いだのが現に存在する場所で、変なことを言う殿下だなぁ」
「そ、それはそうだが……」
「大体モリア様がいなけりゃ、あんた今頃死んでたんだぜ?」
こっちはもっと感謝されても良いくらいだ。なんたって大事な主を危険な目に遭わせてしまったのだ。
(モリア様……)
他の悪魔の定めた掟に背いたあの人は、消えてしまった。勿論あの方が死んだなんて私は信じない。なぜならまだ、あの人との契約が……私には残っている。私の歌声は……綺麗なままだ。
最初は殿下を担いで上を目指していたが、彼が目覚めてからは彼に走らせることにした。ここまで助けてやったのに、何をぶつくさ言っているのだろう。器の小さい男め。
「歌姫マイナス」
「なんだよ」
「歌は不得手だと聞いていたが」
「なんだい、私の歌に聴き惚れたって?」
何気なく、口ずさむのはあの方に力を送る音の歌。それは何にもならないかもしれないが、何もしないまま時を待つことは出来なかった。
「シエロは、無事……なんだろうな?」
「何だい、心配だって?」
「そ、それは……」
殿下はシエロとは子供の頃からの付き合いだ。敵視し意識する余り、その執着はある意味半端ねぇもんだったんだろう。シャロンやドリスが欲しかったんじゃねぇよなこの人。それで自分という物を見返して、思い知らせてやりたかった。あのお綺麗なフルトブラントに。
(まぁ、要するに好きってことだな)
どこまで理解しているかは解らないが、この男のシエロに対する気持ちは、私と似通っている。だからモリア様は、最後の手駒に殿下を落とした。この舞台から自分自身が消えてしまうことになっても。
(……モリア様)
あの方は悪魔だというのに。何の得になろうか。私を従えさせるようで、最後まで私のために尽くして下さった。
(私は……)
愛とは虐げること、奪うこと、傷付けて刻むこと。貴方も私もそう思っていたはずなのに……そうではないと教えられたような気がする。
私はどうして、あの男が好きになったのだっけ?それは今も忘れない。決して折れないあの男……あの目が私を射抜いたのだ。シャロンのためにあんなにも頑なだったシエロは……誰よりも、綺麗な愛を知っている。男の性に逆らって、たった一人を永遠に愛したいという愚かな男。その信念をぶちこわしてでも振り向かせたい。その崇高な思いで私を見つめて欲しいと……思ったのだ。
(でも、シエロは……)
シエロはシャロンを捨てた。捨てた……と言うのだろうか?それは他の男のように?そうじゃない。シエロが次に傍に置いたのは、シャロンの双子の兄。シャロンを愛するあまり、その幻影に取り憑かれたのだろうか?全てを知る人間は皆そう思う。私もぶっちゃけそう思う。
だけど、そこまで愛したシャロンが生きていた。そこでシエロが選んだのはシャロンじゃなかった。ものの数日でそこまでシエロを骨抜きにする魅力が、あのガキにあったのか。私にはわからねぇ。皆目見当もつかねぇ。まだ知り合って長い分、私の方が有利なくらい。
(そう、例えばの話)
カロンというガキが、シャロンと違う顔をしていたら?シエロはきっとそいつを好きにはならなかっただろう。美醜とかそういう話ではない。要は、きっかけなのだ。
シエロが愛したのはウンディーネ。シャロンというウンディーネ。
誰よりウンディーネに似ていたシャロン。シャロンへの愛を越えるには……人魚にならなければいけねぇ。そう例えば……丁度いい逆境がある。とんでもないピンチだ。終焉を感じさせるようなこの……大荒れの天気。海神の咆吼が、私の身体さえ震わせる。いいや、それは殿下もだ。
(この男は、モリア様が選んだ捨て駒だ)
私がここを乗り切るに、必要だと残された。ならばきっとそうなのだろう。私の歌が、この男の震える足を動かすように、海神を恐れ……一人では空に帰ることなんて出来ない、情けねぇ私。そんな私でも……モリア様と出会い、学んだことがある。
「おい、殿下」
「何だ!?」
「私は結構寛容だ」
「……は?」
「惨めな負け犬同士、仲良く行こうぜ」
「傷をなめ合う趣味などないっ!」
「そう言うなよ、私はこの上なく惨めで情けねぇあんたになら……私のシエロ、くれてやっても構わないんだぜ?」
「……マイナス?」
ツッコミ所が多い発言だった自覚はあるが、私は軽く笑ってやった。
「殿下、私は人魚になるぜ。ああ、なってやるとも!」
嗚呼、まだ諦められない。身を焦がす想いがある。だけど私には義務がある。それは、シエロを射止めろと……消えてしまったモリア様の狙いとは違うかもしれない。だけど私はウンディーネになる。あの方の口に入るであろう魂を、価値ある物と育てよう。
(私、人魚になりたい!)
*
罪の悪魔
「へぇ……あのティモが、ねぇ。あんな風に人を誰かを変えるだなんて。何でだろうな……
なんだかちょっと、懐かしい。なんて微笑ましくなってる場合じゃなかった!!
なんでこんなことに……!!もう、お終いだぁあああ!!」
*
「おい、ちょっと!どういうことだよ」
カロンは目を瞬いた。アルバは俺の傍に居る。それなのに何故、もう一つ……彼の声が聞こえるんだ?恐る恐る振り返る。そこに彼の姿はない。立っていたのは一人の男。確かに見覚えのあるその男の名は……
「な、ナルキス!?」
なんて奴だ。こんな所まで俺達を、ベルタを追ってくるなんて!!
(あれ?)
何かがおかしい。絶対におかしい。ベルタとナルキス。何それ……あり得るはずがない。いや、そんな馬鹿な。俺は何を、そんな当たり前のことをおかしく思っているんだ?ベルタはシエロだ。シエロをナルキスが追うのは別に、おかしくもなんとも……
「混乱しているようだな」
「……あんた、一体」
「だが、そんな様子では俺が諦める必要もなかったらしい」
「な、なんだと!俺はっ……」
「姿を現せ、悪魔。このナルキス=アルセイドが……いいや、第八領主イペルファギア様がお相手だ!」
「第八領主?」
なんだその悪魔は。魔王は七人しかいないのではなかったのか?大体ナルキス、あんたいつの間に悪魔と契約を!?
混乱するカロンを余所に、話は勝手に進んで行った。煽り耐性が低いのだろうか?どういうわけかは知らないが、挑発に悪魔は姿を現す。
「ふっ、随分と笑わせてくれるな人間共。姿も形もないそれが、私を負かす悪魔だと?」
「え」
しかし、登場した悪魔を前にカロンは目を瞬いた。向こうは此方を知っている様子だが、此方はまったく記憶にない相手。辛うじてその目の色と、浮かぶ悪意に見覚えがある程度。あれがイストリアだというのか?だが、あれは女ではない。あれは、双子の悪魔より少しばかり年上の少年だ。
「悪魔達は元々両性だ。第七領主にも二つの姿がある……と俺の悪魔が言っている。というか向こうで一度見たのでは無かったか?それもまだ忘れているか」
これまで悪魔なんて無関係だったはずのナルキスが、自分よりこの状況を理解していることに驚きを隠せない。此方の疑問に彼は気付いたのだろうか?軽く前髪を掻き上げながら優雅に笑う。
「説明さえあれば、長年の疑問も解けると言うことだ。シエロのことは時間的には俺が一番よく知っている。だが距離としては……誰よりも俺の悪魔が」
「むっ……」
「シャロンは深度、お前は密度と言うことだろう」
「説明になってない!大体なんかその、凄そうな悪魔とどうしてナルキス!!お前が契約できたんだよ!?他の連中、お前の魂そこまで褒めてなかったぞ!」
「ふむ、契約には相性や波長という物も在る。シエロに袖にされた俺だからこそ、契約できたのだろう」
「さてカロンに悪魔、この俺の夜明けの歌でも一曲どうだ?そう、長い永い……別れの歌を」
そうは言うけれど、この男一向に歌い始めない。気まぐれに手にした弦楽器をジャカジャカ奏でるばかり。
「って、アルバ?アルバはどうしたんだ?」
ナルキスに意識が向いていた所為だ。先程までここに居たあの男の姿が見えない。どこへ消えてしまったのだろう。俺が呼んでも返事がしない。
「答えは俺より誰より、少年。お前が知っているはずだ」
さぁ、よく思い出せ。此方を探る眼差しで、青年貴族は弦を弾いた。
耳を澄ませば風の音。誰も何も歌わない。だけどその理由を俺はこの男から、聞かされなかったか?
「……司るは、静寂!!」
「魔女に悪魔、お前達は見かけより冴えているようだ。何も喋らないのがその証拠。そうだ、記憶力が良いとでも言うのか?此方に魔力を流さないようにしているのだな」
静寂を司るという悪魔を従えているナルキスは、ぺらぺらと喋り続ける。だけど悪魔もベルタも喋らない。カロンは自分はどうするべきなのかわからなくなり、唯狼狽える。
「静寂を司るなら、無音が魔力となる。しかし契約者であるこの俺が黙らない。ならば騒音が、全ての音を魔力と変える……何とも悪魔らしい悪魔じゃないか。名に反したこの悪趣味さ!第八領主が俺と契約したもう一つの理由は、俺が黙らない男だからだろう」
よく分からないがよく分かった。カロンは深く頷いた。それでもこの状況は解らない。聞きたいことは沢山あるのに、聞いて良いのか駄目なのかも解らないのだ。
(嗚呼、訳がわからねぇ)
何故悪魔が現れた?ナルキスは何を企んでいる?俺に何をさせたいんだ?
「一人の男が居た。己では光になれぬことを知り、影となって主に仕えた。夜に魅入られた主を救うべく、影は自ら夜に囚われた。己の形が消えたとしても、男は唯ひたすらに朝を願った。あいつのために命さえ差し出したその男は、こうして生きている俺よりよほど美しいかもしれない」
長い長い前奏を終え、ようやく彼は歌い出す。今日は服を脱ぎ出すような悪趣味さもない。哀愁漂う不思議な音色で奴は歌った。だけど、強く……此方を追い立てるような激しさで。
《 微睡みから身を起こして 古い夢から、さぁお帰り!
目覚めよ!別れが近付いても 目覚めよ!さぁ、今目覚めなさい
夜が影を引き連れて 足音は地より谺する
振り返れば二人は知る 我らにはもう影などない
偽りに目を見開いて まやかしの夢から、お帰り!
目覚めよ!その手だけ離さずに 叫び歌え|夜明けの番人(guaita=albada)》
*
境界の悪魔
「なるほど、これはこれは。いやはや鼻が高いものだね私も。
数世紀後には自慢できるだろうか?いやその頃まで私は生きているのか解らないがね、こんな状況だ。
それでも誇って良いだろう?
未来に名高くなるかもしれない第八領主と、この私はかつて契約していたのだとね。」
*
無音を司るだけあって、その悪魔……確かに何も話さない。話さないのではなく、話せない。まず口が全て縫われていて開かない。また、徒の男には声帯がないのだ。主の声を守れなかった生前の後悔が形となって現れたのか。生じたばかりの悪魔は幼い姿のはずなのに、生前より少し若い程度。よほど強い想いを残したのだろう。それはその男は、シエロと出会った頃の年齢。これには私も驚いた……とは言えだ。それ以上に驚いたことがある。
(人間が、新たな魔王になる……!?)
私はその光景に言葉を失っていた。
確かにそういう例はある。それでも、それほどの才があの男にあったとは思えない。あの腐れ第一領主さえ、殺した物は数知れず。それこそ悪魔の所行と言われるような業績を詰んでいる。アルバーダというあの男、エフィアルの使役を失敗するような男だ。大したことは無い。罪業だって他の連中に比べればないに等しい。そんな奴が我々の眷属になるとは……通常では考えがたい。つまりこれは、不測の事態だ。冷静に考えれば答えは解る。
私達魔王七人が揃って一冊の本に囚われた。脚本能力の支配下である本の中へと招かれた。
今脚本能力を持つのは歌姫ベルタ。彼女の意識にあの男が影響を与えた。恐怖から想像を創造させたのだ。私達七人を上回る力を持つ悪魔?そんなのまやかし。嘘っぱち。
ベルタを殺せば消えてなくなる幻想だ。だけどこの女は死に損ない。殺しても殺せないから始末が悪い。私が本気になれば始末は出来るが、仲間割れをしている場合ではない。
(万が一と言うこともある。この女は必要だ)
つまり相手はこのイストリア様の土俵に上がり込んで、何でもありの勝負を……第七魔力の勝負を持ちかけた。そういうことだ。
「ふっふふふ!ははははは!!」
そうだ、大したことではない。喜劇の中に現れた闖入者。それは私のシナリオ演出ではないが、この程度の問題は問題にならない。口から漏れるこの笑い。それは決して、苦し紛れの物ではない。私の勝利を確信してのこと。
(今更何が出来るというのか、少年歌姫!!)
歌姫シャロンは流転を拒否し、アムニシアは契約者を失った!この世界を操れるのは、今となってはこのイストリア様だけ。
(そして私は、シエロ=フルトブラントを生き返らせる気なんて更々ない)
そう。これが勝利でなくて何だというのだ。奴らはもう、どう足掻いても幸せに何てなれないのだ。
罠に掛けられた私が口を開いたことで、奴の魔力が膨れあがった。脚本のページは
「無様だな、人間。それに……第八領主様?とやらも結構なことで」
この人間達はあちら側で何が起きているかさえわからない。
「目覚めたいというのなら、好きにしろ。それで本当に後悔しないのならな」
「イストリア様っ!?」
口を開いた私を制止するようベルタが吠える。少々苛ついたが私は彼女を軽くあしらう。
「ベルタ、脚本は何度でも好きなページを開ける。別に困ることじゃない。思い知らせてやると良い」
「で、でも!」
「第一そちらが魔力を貯め込んだ所で何になるのだ。外で私が定めたルールは絶対だ。脚本に背けばどうなるか。他の領主共のようにすぐに力を失うぞ?」
話の半分も理解していないだろう、間抜けな少年歌姫。彼は心細そうに、異形と化した男を見上げる。
「アルバ……俺、どうしたらいい?」
当然、男は答えない。答えられない。唯じっと沈黙を守り、カロンを見つめ返すだけ。そしてカロンの襟を指差す。指差された少年は、そこを触り……あることを思い出してしまう。そこにあった物。それをこの使用人の助言で彼は隠した。ポケットから取り出されたブローチに刻まれていた名前。
「フルト……ブラント」
その名を口にしても、まだはっきりとは思い出せないカロンに向かい、八番目の悪魔が歌う。縫われた口を無理矢理こじ開け、血を流しながら歌う歌。それは先程ナルキスが歌った物と同じ旋律だが、歌詞がない。無音の悪魔が沈黙を破る。空気を揺さぶり、耳から脳へと囁きかける不気味なメロディー。伝わってくる緊迫感。目覚めなきゃ……帰らなきゃ、そんな風に思わせる。
けれどこの男がここまで必死になり、何かを伝えようとする。その理由は?誰のため……?この男が影のように付き従った相手は誰?考えるまでもない。
未完成の脚本の中、無理な設定をしたベルタにボロが出た。この女、役に徹しきれず自分を出した。その所為で、カロンは疑問を覚えてしまう。何故、愛しい人の呼び名を変えてしまったのかと。
「シエロ……」
その名は簡単に、違う名前に出来るだろうか?できるわけがない。
カロンの名が刻まれたブローチ。それを手渡した者は誰か。古と同じ言葉で共にあることを願った人は誰か。その名を聞いて彼が思い出すのは、空の色。長くて綺麗な空色の髪。振り返るその人の顔は……彼女じゃない!
「カロン君……どうして、どうして私じゃ駄目なの?」
未完成の脚本が崩れ去り、ベルタは城の一室で啜り泣く。傍にはもうあの少年の姿はない。元のページに戻されたのだ。
「泣くな歌姫、いや、泣けば良い。好きにしろ。どうあろうとも、私とお前の勝利は揺るぎない」
「イストリア様……」
「歌姫シャロンがやってくれたぞ。お前の憎んだ女がここでお前の味方になろうとは、誰が思っただろう?」
私の言葉に、連れ戻された舞台の上……惨めな女が立ち上がり、ちっぽけで下らない世界を見下ろした。人々の悲鳴と、終末を思わせる海の怒り。
「海神の娘は死んだ。愛しい者を道連れに、永遠を作り上げた。あの少年の入り込む余地はない。アムニシアはその永遠を塗り替える気がないようだ。意味が分かるか?ならばもう一度言おう」
絨毯の上、膝をついていた娘の手を取り立ち上がらせ、私は小さく微笑んだ。この女さえ上手く使えば、上手く行く。あの悪魔を始末することさえ容易いのだ。
「喜べドリス。祝おうぞ!この脚本、この舞台!私と、お前の勝ちだ」
*
???
「目を覚さなきゃ、覚さなきゃ。 帰らなきゃ、でもどこへ?」
*
カロンが重い瞼を開ける。しかし何も見えない。そこは何も見えないまっくら闇だ。
「やっと起きた」
傍から聞こえる声は女の声。次第に闇になれていく目が映した姿は黒髪の……
「え、えええええええエコー!!!」
「そんなに驚かなくても。私は貴方には何の気も起きないから安心なさい」
壁際まで後ずさるカロンを横目に、彼女は呆れて鼻で笑った。
(それは、そうだろうけど……)
一応和解したつもりでも、彼女を恐れる気持ちは拭えない。けれどエコー自身あんな目にあったというのに平然としている。それどころか……以前より少し、印象が和らいだ?
(どういうことだ?)
歌姫エコーが、抱えているのは彼女の兄の……頭だ。頭だけという物騒な意味ではなくて、眠ったまま目覚めないナルキスに彼女は膝を貸している。以前のこの二人では、考えられない姿にカロンは面食らう。
最初思ったような真っ暗闇というのも間違いで、室内には小さな蝋燭の明かりが灯っている。暗闇だと思ったのは黒髪の彼女に覗き込まれていたから。自分も膝を貸されていたのだと知り更に驚いた。
「ここって、アルセイドの家だよな?やけに暗いけどどうしたんだ?」
「避難させたのよ。私の力を使ってね」
「エコーの……?」
「私があんな悪魔にただでやらせるとでも思ったの?私そこまで馬鹿じゃないわ」
エコーの魂は初代フルトブラント。アクアリウトの家の黒魔術趣味は、彼の血だ。かつてウンディーネを甦らせようと、悪魔や黒魔術について調べ上げた張本人。彼女はエペンヴァと、あの土壇場で契約をしたのだという。
「契約って、キスじゃなかったのか?」
「それ以上なら、もっと悪魔を酷使できる。そうは思わない?こっちはそれだけの精神的肉体的苦痛という対価を支払ったのだもの」
「ええと、つまり……あいつは消えた。だけどエコーはあいつとの契約で、あいつの使ってた魔法が使えるようになったってこと?」
「そういうことね。それに私はあの変態みたいに簡単に消えたりしないわよ」
平然と彼女は言うが、これはとんでもないことだ。まだ夢を見ているのでは無いか、そんな風にさえ思う。解らないことがあまりにも多すぎる。
「貴方、どんなふざけた場所に攫われたのかなんて解らないけど……本当のことは思い出せた?でなければ兄様も……浮かばれないわ」
「う、浮かばれない!?まさかナルキス……」
「兄様は、無理をしたの。だから……疲れたのね」
「……無理?」
「この人に、あんな悪魔と契約できる力があるとでも?己の身の丈に合わない無茶よ。兄様は悪魔に魂を貸したのよ。契約なんかじゃ足りない。その口の中に、胃の中まで呑み込ませた。消化されたらお終いよ。そんな無理までして……兄様は貴方を助けに行った」
「そんな……」
色々変な奴だったけど、基本的には良い奴だった。こうして動かなくなった彼を見ると、常日頃彼が言っていたように、いい男だったと認めてやるしかない。
「ナルキス……」
思わず目を伏せるカロンを前に、呆れた様子でエコーが答える。
「別に、まだ死んでないわよ」
「紛らわしい良い方するなよ!!」
「貴方がぐずぐずしてたら本当に死んでしまうけど。死んだのは、兄様じゃないわ」
「……あ」
直接それを言うのを憚っているようなエコーの言葉。彼女にしては本当に珍しい。此方に気を使っているような気さえする。
どういうことだ?夢の中で、ナルキスは何か言ってなかったか?無理をしてまで俺を……呼びに来た。
「アルバ……!!」
そうだ。あの歌の最後で、彼が呼んだのはあの男の名だ。そしてその後……自分が見たのは。
「なかなか出来ることじゃないわ。悪魔になるなんて」
契約により、第六領主の知りうる情報全てを共有した?だからエコーは此方の事情を知っているのか。驚くでもなく淡々と、けれども少し感心する風彼女は言った。
「でも……それも一つの永遠ね。生まれ変わることも、他の何かになることも手放して、永遠に救われない存在になる。そこまでして今の自分を、心を守りたい。馬鹿な男ね……救われないわ。昔の私以上に……だけど、必死に……そこまで」
「いや、その……なろうと思ってなれるものなのか?」
「まず無理ね。人間からなるには途方もない道よ。今回は状況が状況。奇跡みたいな物」
言われてみればそうだ。確か何通りか方法があると聞いた気がする。
「裁判は、どうなったんだ?アルバはどうして……死んだんだ?」
「彼はドリスに嵌められて、王殺しの犯人にされた。だけど彼はただでは死なず、彼女に呪いを掛けた。脚本能力を持つ彼女に影響したことで、彼は悪魔として甦った。裁判は……すべてシャロンが引っ繰り返した。それで今はこんなことになっているわ」
エコーが指し示す窓の外。何だか騒がしい。みんな何処かへ逃げていく。その理由を見つけようと観察すれば、下層街が水に浸かっている。空の下も随分と海面が高い。
「海神の仕業よ。ゲートから海水を吹き上げさせたの。今晩中に、街は海に沈むわ」
「箱船が落ちるって、それじゃあ下町だって……!」
「ええ。高波で隣国へも逃げられない。空にも上れない。私達も彼らもどこにも逃げ場はない」
「この国の人間、みんな殺す気なのか……海神は」
「あの男が……シャロンとの永遠を破ったから。……私と同じ罪を犯した彼を、海神は絶対に許さない。フルトブラントは二度も……彼女の魂を傷付けた」
「そんな……俺だって……俺だって、ウンディーネだ!それなのに、全部シエロが悪いっていうのか!?」
「海神は、貴方を知らない。だから彼を、この国を許さない。シエロは神殿で生け贄になる。彼の心が揺るがないなら、それしか道はない。それで海神の怒りが解けるなら……街は助かるわ」
「何言ってるんだよ」
たった一人の犠牲で全てが救われるなら?この国はそれを受け入れるのか?
あいつは今までずっと、自分を殺して生きてきたのに。この国の罪を、あいつ一人に押しつけて、そこまでして助かりたいのかこの国の人々は。
(それが、海神の狙いか?)
シエロは最後の瞬間まで、人々の怒声と怨みの声を聞きながら死ぬ。自分の心変わりが招いた現実を突きつけられながら絶望の中死ぬんだ。俺なんかと出会ったせいで、惨めに不幸に苦しめられた己を嗤いながら。
「それなら……俺が直接海神と話す!話せるんだろ!?シャロンが海神を呼びだしたってんなら!!エコー!お前も行くんだろ?シャロンを守るんだろ!!」
そんなことは我慢ならない。神殿に向かおうとするカロンは、当然エコーも来るものだとして声を掛けるが、彼女はその場から動かずに、目覚めぬ兄の頬を撫でている。
「私……兄様と一度も、兄妹らしいことしたことなかったの」
「エコー……?」
「ごめんなさい。フルトブラントとしてではなくて、エコーとして。今日ですべての幕が下りるのなら……私はアルセイドの娘として、ここにいたいの」
「シャロンが、好きだったんじゃ……ないのか?」
どうして諦めると訴えれば、穏やかだったエコーの顔が険しくなった。
「好きよ!大好き!愛しているわっ!!!だけど……!!解らないの!?貴方馬鹿!?勝てるはずがないの!我が身省みずあの男をあの使用人は愛したわ!!だけどそれに応えずあの男はシャロンを選んだ!!だからシャロンもあの男を愛したのよ!!そんな相手から、シャロンを引きはがせると思う!?私には無理っ!!勝てるわけがないじゃない!!
「そこまでシャロンがあいつを好きなら……私は、シャロンのしたいようにさせてあげる!私は私の思いにけりをつけるわ!!それが私からの、シャロンへの最後の愛よ!!最後くらい……私をエコーで居させてよ!フルトブラントじゃなくて、私を、エコーに……!!」
自分が何か。悩んできたのはシエロだけではない。誰もがそんな心に振り回されてきた。自分とは何か。そんなもの、まだわからないのかもしれない。どこからどこまでが自分かなんて。それでもエコーはアルセイドとしての自分を見つめた。シャロンへの思いは本当は、まだ諦められない。けれどナルキスをはじめて省みた。
あの男がああして倒れているのは、俺やシエロのためじゃない。王になろうと言った彼は、この国のため……妹の未来のために駆けつけてくれたのだろう。ウンディーネとして俺とシエロがこの国を救うと信じてくれたのだ。そんな男を前に、昔の自分をエコーは恥じた。そして今生での自分も恥じた。馬鹿な子孫と思っていた兄を、彼女ははじめて肉親として愛したのだ。
涙さえ流しそう答えるエコーを前に、今度はカロンの顔が歪んだ。エコーの言うことは、嫌に説得力がある。此方まで不安な気持ちにさせる。
アルバは一度だってシエロに愛を打ち明けなかった。それでも悪魔になってまでシエロを助けたいという気持ち、思いの強さ。それに勝るシャロンへの愛情。それに自分が勝てているのか……自信はとうに消え失せた。信じていないわけじゃない。カロンが立ち上がったのは、二つの約束を思い出してのこと。
「……あんたはいいな」
「何よ」
「アルセイドって言う……良い家があって」
別に嫌味じゃない。エコーにはあるのだ。シャロンを諦めても……自分が、帰る場所が。だけど俺はそうじゃない。俺はシエロをなくしたら、他には何も残らない。シャロンと決別すると言うことは、そういうことだ。家族さえも、捨てると言うこと。
「俺にはもう、家族は居ない。カロン=ナイアスはもう死んだ。父も母も妹も。ここに居る俺は……カロン=フルトブラント」
シエロが俺の家なのだ。傍に居たいと思うのも、帰りたいと思うのも仕方ない。この名を貰ったときに、俺はその権利を得たのだ。
「勝てなくても……俺は、シエロの傍に居たい。勝てるまで、ずっと隣に居たい。俺がずっとシャロンに勝てなくても……それだって、永遠じゃないか」
何度殺されても、何度引き裂かれても、俺はずっとあの人を好きで居たいんだ。悪魔の脚本に踊らされるなんて真似、もうしない。
(俺は、カロン=フルトブラントだ!!)
風呂敷をまとめるの大変。でも頑張らないと……
歌詞打ってたら短い曲 http://piapro.jp/t/y7Gn まで出来ていました。
海神の娘達の物語と並行して、物語の悪魔としても大事な局面、シナリオです。
しっかり終わらせたいな。