表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/60

50:問うべきは、愛とは何ぞ

 違和感が解けていく。時間がそれを埋もれさせる。俺はもう、何がおかしかったのか、間違っていたのかも分からずに踊らされていく。それは、自分の内側から自分の目を通した劇を見せられているかのようで。劇の内容すら忘れて役者の役割をこなし続ける。その一瞬一瞬に感じる心に、妙な懐かしさを覚えながら……それに浸っていられるだけでも、十分俺は幸せだった。


 *


 少年歌姫

  「幸せだ。夢みたいだ。

  でも、目を開けているのか閉じているのかわからない。

  でも何度瞬けば、俺は確信を得られるのかな。

  抓ってもダメだ。どのくらい痛ければ、俺は現実と夢の違いがわかるんだろう?」


 *


 「あの女が脚本使いだと言うことは皆様よくご存知のことかと思います」


 第三領主アムニシアはそんな風に言葉を続ける。しかし実際、その力を目の当たりにしたものは少ない。第七領主は我々悪魔をどうこうするより人間達をせせら笑う方がお好きなようだから。


(しかし、どうしたものかね)


 エペンヴァは小さく唸る。漁夫の利狙いで彼女と親しくするようになった自分だが、今回ばかりは彼女の分が悪い。彼女の肩を持てば、私の立場も危うくなる。今はまだ、その時ではない。


(悪いねイストリア嬢、だがまぁ……裏切りも我々悪魔の本分だろう?)


 この場の空気を読むならそうだ。まだ、その時ではない。第一領主に成り上がるには、第三領主の存在が大きすぎる。彼女に楯突くにはまだ私は実力不足。勝ち目などありはしない。

 この中で彼女に勝てるのはそう……第二領主カタストロフ。彼ぐらいなものだ。彼がその気になればこの場に居る魔王全員でかかっても、正直勝てるかどうか怪しい。

 その第二領主さえ、第七領主の行動は目に余ると思っているようなのだから、この場はそれに従うまでだ。


 「とまぁ、このようにあの腐れイストリアは、自らの執筆した本の中に他者を閉じ込め、配役として踊らせることが出来る。それは我々悪魔ですら例外でありません」

 「……」

 「現にお兄様が過去にあの女の脚本に惑わされたことがありました」


 べったりとアムニシアに抱きつかれ鳥肌で青ざめ目をそらしている第一領主。そのまま卒倒して死んでしまって私に領主の地位を譲ってくれないものだろうかね。


 「真に恐るるべきは……第七領主風情に過ぎないイストリアが、こうも軽々しく夢の領域に至れるという事実。あの者が本気で戦えば……お兄様は愚か、カタストロフ様だって危うい」

 「おい、アムニシア。お前とトリアがやりあえば良くて相打ち、悪くて百兆年戦争じゃなかったのかよ」

 「それに他の領主が味方につけば勝てるという話でしたよね?」


 第一領主たる彼女の兄が、最も恐ろしい相手として挙げるのがアムニシア。その辺の話はデリケートなものだから仕方が無いが、第二公を凌駕する可能性を持つ第七公。その第七公の術を破った第一公。その第一公が何より恐れる第三公。

 ここから推測するに、第一公はまだ先がある男。イストリアを破った力は感情によるものだろう。感情で力が何倍にも膨れあがる彼が、そのコントロールが可能になれば名実共に真の第一領主となるだろう。


 「しかしだね、如何に我々魔王が結束しようとも、それは決定だとなり得るのだろうか?」


 私の言葉にアムニシアはにたりと勝ち誇った笑み。


 「なりますわ。私があの女に負けているのは年季の差。魔力の絶対値。本の中という限られたこの檻に、彼女を閉じ込めている今この瞬間が、何兆年とない好機なのです」

 「つまりなんだ、アムニシア。あんたはこの本から出るだけじゃなく、トリアを何とかしてぇわけか?」

 「確かにイストの力は危険だけど、一定の節度は守っているし……そもそも本気の彼女を僕らでどうこできる話では」


 若さ、幼さ。未熟さはある種の勇気か。彼女の恐ろしさを知ってもこうして駄々をこねられる。渋る第四第五領主。エング君は反吐が出るほど甘い子で、レディティモはイストリアと仲が良い。それでも彼らもこの企てからは逃れられない。

 万が一片割れのどちらかがイストリアの力を継いだのならば、この双子の均衡は崩れる。互いに自らと自らの眷属、領地を守るためにはアムニシアの要求をのまざるを得ないのだ。


(まったく、怖い女だよ彼女は。本当に、敵にはしたくないが……いずれそんな日も来るのだろう)


 他人の心配をしているどころではないな。私の危機もあと何千年か何万年後かに迫っているのだから。

 私には、あの双子にある怖い保護者などいないのでね。自分でやりきらなければならないのだ。そういう意味ではこの本はなかなかの食卓だった。あとはこれからどう転ぶかだね。


 「つまり、彼女がこうして暴走する度に領主達の手に負えず、私が起こされる。間接的にティモリアとエングリマが危険な目に遭うと。アムニシア嬢は私を脅している訳か」

 「そうとっていただいても構いませんわ」

 「ならばこの場で私が貴女を排除する方が容易いとは考えないか?」

 「思いませんわ。如何に第二領主様であろうとも、私と兄様のタッグには敵いません」

 「やってみようか?」

 「お望みならば」


 割り込むことも出来ないような緊迫した空気。もの凄い殺気だ。この場から逃げることすら、一歩たりとも動けない。

 夢と現を裏返すアムニシア。その全てを片っ端から破壊し尽くすカタストロフ。何億年の間も続くであろう恐ろしくも果てしない戦いの幕開けか。


 「冗談だ。私の心は決まったと言っただろう」

 「あら、耄碌して忘れられたのかと思いましたわ」


 アムニシアの嫌味も軽く流して男は笑う。


 「……しかしそれは、この本の行く末を見守ったあとでも遅くはないのでは?」


 あの怠惰な悪魔が、この世界に興味を持った。つまらない、寝る、帰る。ではなく……見守りたいと口にした。あの魂、正真正銘の逸品だ。早くこの口でたっぷり味わいたいものだ。もうこの舌先まで来ている。第三公のお預けや待ったもほどほどにして貰いたい。

 冷たく深い地の底に、今変革が起ろうとしているのだから。


(だがねぇ……)


 夢鏡に映された、本の世界を眺めつつ……エペンヴァは小さくため息。人間達はあんなにも脆く弱い。愚かで短命。しかしながら、常に我々に問いかける哲学的存在だ。

 我々悪魔としても、難しい話だよ。主義主張の異なる兄妹。それぞれが問う愛か。


 悪魔としては歌姫シャロンの考えに大半が同意するだろう。経路違いの第四領主くらいがあの少年の味方になるか。

 愛とは何か。彼らは我らに問いかける。

 種族や性別さえも越え……他者を一人の人間として捉え、尊重し向き合うことが愛か。はたまた、他者を支配し奪い付くしむさぼる事こそ至上の愛か。なるほど、どちらも愛には相違ない。食事と同じさ。好き嫌いがあるかないか。それだけのこと。


(それだけのことでこんなに大騒ぎするのだから、人間というものもちっぽけで愛らしい物だなぁ。はっはっは!)


 たかが食料。そう思ってきた連中に対する認識を、改めなければならないだろう。ある種の畏怖さえ覚えるが、無限を生きる者としてそんな刺激も時には喜ばしいものだ。

 他者など食料。覇権の糧。同族とて違わない。食らえる者は食らえ。そういう世界に生きていて、愛とは何かだと?本当に彼らは笑わせる。愛に生き、愛に死ぬなど宣う彼らはこの上なく愚かだ。しかし賢い私は思う。愛を知らず愚かになれない自分は、酷く空虚な生き物だろうと。


(愛とは何ぞ……か)


 それはイストリア嬢自身が問いかけている。我々領主一同に、そして彼女自身に。

 しかしここに彼女の愛はない。問いかけられた我々は、彼女を封印しようとしているのだ。悪魔の世とは、食うか食われるかの世界。彼女もそれを知っていて、それでも我らに問いかけた。愚かとしか言いようが無い。


(哀れな娘よ)


 地獄のサタンエクスマキナ……第七領主といえど、所詮は人間上がりということか。


 *


 使い魔

  「愛とは何か。愛とは何か。おかしな話です。

  悪徳の全てを知り尽くした我々に、そんな小さな疑問を投げかける。

  でももっとおかしいのは……我らが領主様方誰一人として、その正解を確信を得ていないこと。

  笑われるべきは、時に我々なのでしょう」



 *


 シナリオは順調に進んでいる。これまで起きたことをそっくりそのままなぞっている。


 《ならば何を不安がる?》


 悪魔がベルタに問いかけた。ああそうよ、不安がる事なんて何も無い。シエロという配役を得た私ベルタは、愛しの彼の愛をこの手に勝ち取った。

 脚本通り、男になったり女になったり忙しい。果てには私は声まで失ったけど、カロン君からは求婚されるしもう最高!

 ドリスという惨めな女の役には、あのシエロそっくりの者を用意させた。それでも外見は華の無い女という設定だから、彼はあいつに見向きもしない。これまでの自分を全否定されても、だまし取るのが惨めでも、今ある幸せと……この爽快感には敵わない。

 脚本の先の頁は私が作る。自由に決めて良いんだ。何もかもが思い通り。


 「怖いか、シエロ?」

(ううん、全然)


 復讐を諦め別の国で暮らそう。シャロンなんかもうどうでも良い。下町に下った二人はもう空に戻らず、国の行く末も見捨てて国外逃亡。そこで慎ましくも幸せな日々を過ごしている。


 「こんな知らない奴らばかりのところ、やっぱり不安だよな」

(そんなことないよ、カロン君さえいれば)


 ああ、でも一つ不満があるとすればその名前。もう止めて欲しい。そうだわ、設定を変えましょう。


 「ああ、確かに偽名は必要だよな。うん、じゃあシエロは今日からベル!ベルタって名乗ると良いよ。貴婦人っぽくて良い名前だろ?え、俺?俺はどうしよう、そのまんまで良いか」


 頭の中で思った通りに彼が私の呼び名を変えてくれる。嗚呼、これでもう何の不満も無いわ。


(ウンディーネ……)


 夢にまでも見た風景がここにある。二人で逃げてきたのは、貴方と初めてであったあの場所よ。古い伝説のせいで買い手のいない廃墟を買ってね、手入れをして暮らせるようにして……あの頃とは違う、私を愛してくれる貴方と一緒に幸せになれるの。


 「何泣いてるんだよ、ベル」


 ふふふ、何でだろうね。嬉しいのに、変だな私。幸せすぎて実感がないや。本当、夢みたいなんだよ、ウンディーネ。


 「安心しろよ、そんなこともあろうかと思って……身の回りの世話のためにアルバも連れてきたから」

(うん!……は?)


 私の肩を抱き、元気よく彼はそう言った。ちょっとまって!何であの男が来るの!?二人っきりの生活の邪魔でしかないわ!私の脚本であの男はいらない人間なのに!


(どういうことですか、イストリア様っ!!)

 「お遊びが過ぎるぞ、魔女が!」


 悪魔からの返事が無い。代わりに聞こえたのは青年の声。二つ重なり合うような、低く暗い声。地の底から這い上がってくるような亡者の薄ら寒さをその男は纏っていた。


 *


 少年歌姫

  「……え?」



 *


 迫り来る津波の轟音。いつもの津波とは違う。それを察し、箱船へ駆け込む人々。それを止めようとする空の人間。人間共の醜い争い。こんな者達を私は救おうとしたのか。かつての自分自身がシャロンは滑稽で堪らない。


(逃げだって無駄)


 どうせ何度も繰り返される。今助かっても次はダメ。今はダメでもいつかは大丈夫。けれど彼らは今が今だけなのだと思っているから、あんな醜く愚かな争いを続ける。

 いや、戦う力があるだけマシか。裁判に集まった人間は、戦うことを兵士に任せた。海神が現れるまでの時を、人々は恐れ……そのほとんどが城に立て籠もった。神殿まで現れたのは物好きな人間くらいだろう。その人間達さえ、生け贄を直視し続ける力が無く、儀式の間から退いた。

 そう、その生け贄というのが問題だ。

 神殿の中、岩に鎖で縛られた人がいる。縛られた罪人の姿は、わずかに彼に似ている。

 だからということもないが、何故だろう?目の前の光景が、遙か過去と重なった。シャロンは一度目を伏せそれを見る。


(シエロ……)


 なんと美しい罪人だろうか。衣装を着たままのその人。

 空の人間は海を知らない。今どのくらいの脅威に襲われているのかを知らない。それを知るために作ったのがここだ。

 シャロンとして来たのは初めて。それでも私は覚えている。簡易的に神の怒りを、海の水位を表した儀式の間。人魚はここで信託を受けるのだ。嗚呼、良く覚えている。だってこれはウンディーネだったころの私が作らせた物なんだから。

 この部屋にも一つゲートがあることを、知っている者は少ない。空を支える一番太い柱……その中に深海のもう一つの神殿への入り口は隠されている。そんなことも彼は……彼女は知らない。シエロはあの人では無いから。


(でも、それでいいの)


 昔もこれからも何も分からない。見えない物に怯える貴方は何時だって可愛いわ。本当に、心が、胸の奥が……私の魂が震えるほどに、私は貴方が愛おしい。


(ねぇ、シエロ)


 水位の増していくその部屋で、彼女の腹まで海水は上ってきている。水気を吸って身体のラインが強調された扇情的なその女。誰よりも人魚の血を色濃く残したその娘。裏切りの罪を犯した彼は……彼女は、それでもなおも美しい。女の自分であっても今の彼の姿には獣めいた欲を感じてしまうほど。

 こんなにも私は貴方を求めているのに、それなのに分かってくれないなんて。一度は通い合った心がもはや通じ合わないこと。それが悲しみ以外のなんと形容すれば良い?怒り?絶望?ああ、そのどれでもあって、どれかではない。彼は私を過去と呼び、私は彼を今と呼ぶ。唯、それだけのすれ違い。それでもまだ、シャロンはそう思うのだ。


(あの時とは違う)


 貴方は決して私を罵らない。私を遠ざけない。私が殺されたと知って、狂わんばかりの貴方の様子。とても心が躍ったわ。本当に嬉しかった。シレナに扮して貴方に会って、悲しみに染まった貴方の目を見た私の気持ちが分かる?分からないでしょうね。

 本当にね、本当に……嬉しかったのよ?演技も忘れて貴方に抱きついてキスをしたかった。きっと泣いてしまったと思う。一日じゅう貴方の腕の中で泣いてしまったことでしょうね。嬉しくて、堪らなくて……私はきっと幸せになれていた。

 貴方は一度私のために死んで私を捨てたと言うけれど、私は違う。死の淵から舞い戻った私は、生き返った私はもう一度貴方に恋をした。私のために嘆き悲しみ、憤り慟哭する貴方の魂の叫びとその色に、私は今度こそ貴方という人間に惚れ込んだ。


(シエロは、あの人とは違う)


 貴方に愛されているという実感を得て、私がどんなに嬉しかったか、貴方には分からない。少しでも長くその愛を感じていたいと思った私を貴方は我が儘だと思う?

 人間に裏切られたウンディーネ。その記憶を持つ私が人を信じて、一対一で愛せるようになるまでの過程がどんなに困難か。全部忘れているお兄ちゃんとは違う。私は違う。私の苦しみを、お兄ちゃんは理解できない。私の悲しみだってわからない。

 私がお兄ちゃんを利用し苦しめてきたのは、……そういう理由なのかもしれない。私と同じなのに私と違う。何も分かっていないあの人がきっと心のどこかで憎かった。

 私の持つ記憶。それがこの国のためだと思わなければやりきれなかった。そのために残されたものなのだと言い聞かせ、歌姫を使命と志した。

 だけど、本当は怖かった。一年前の私は今よりもっと子供で。頭で理解していることも心では理解できなかった。ウンディーネがそれを知っていても、それが永遠ではないと彼女から教えられてきた。お父さんと、あの女からだって。

 もしも恋をするならば、私はその人を永遠に愛そう。その人だけを愛そう。私を裏切らず、私だけを永遠に愛してくれると信じられたその人を、私は生涯愛し続けよう。

 でなければ私の心は、魂は耐えられない。誰も傷つくために、苦しむために生まれるのではないのだ。救われなかったウンディーネが再びこうして生まれたのは、幸せになりたかったから。


 「お父様は言ってたわ。人間は哀れだ、愚かだと」


 シャロンは遠い記憶を遡り、過去の記憶を紐解いた。懐かしい父の声をそこに思い出す。


 「転生なんて、そんな永遠なんて牢獄よ。苦しむために繰り返される悲鳴のオルゴール。人の世なんて地獄か煉獄。いいえ或いはもっと醜い世界」


 人がどうして生まれ変わるのか。

 本当に救われた人間は生まれ変わらない。ずっと天上で幸せに暮らす。この世界がこんなにも悲しいのは、ここが罪であり罰だから。生まれることは罪と誰かが言うけれど、生まれることが罰なんだ。罪を抱いたまま天上に昇れない魂。まだ救われない魂が、今度こそ救われるために再び落とされる煉獄。現世なんてその程度の場所だろう。

 だけど何も知らない人間達は、今日も愚かに生きていて、他者を見下し蹴落として……生と死の煉獄から永遠に逃げ出すことが出来ない。


 「永い時を生きる水妖は、人より長く生きるけど二度と生まれ変われない。私達海神の娘はそれを嘆いた。お父様のような永遠を持たないことを、神の娘でありながら……神にはなれなかった我が身を嘆いた」


 後悔して死んだ人間は、煉獄へ落ちる。人は自分に見合った煉獄へと落ちる。煉獄で罪を浄化し天上へ至れる魂は幸いだ。悪魔に食われる魂もまだマシだ。だけど現世という煉獄に再び落とされた魂の、なんと哀れなことだろう。

 この世界が最低なのは、天上から見捨てられた連中の魂の掃きだめだから。彼らを救わなければ私は救われないと信じたこともあったけど……私が生まれたのはそうじゃない。私はもう精霊ではなく人間なんだ。私の幸福のために、胸を張って生きてやりきったと誇って死ねるよな愛を知るために生きなければならないんだ。


 「私とアムニシアは似ていたの。私も彼女も、永遠が欲しかった」


 私は私。ウンディーネじゃない。私が好きなのはあの人の魂を持つエコーではなく貴方なのだわ。


 「シエロ、私はこれから貴方を何度でも苦しめるわ。だって貴方を助けたいから。私を選べば貴方は悪魔に魂を取られない。アムニシアが守ってくれる」

 「……」

 「分かったでしょ、私の愛は!愛の強さも深さも、貴方は痛いほど!!それを今だって感じているのに。私は貴方を裏切らない。でもお兄ちゃんは分からない。どうしてお兄ちゃんを信じられるの、シエロ……?」

(……シャロン)


 歌えない彼の心の声が聞こえる。アムニシアの力だ。夢の侵食が進めばそんなことも容易い。


 「お兄ちゃんは……私とは違う。愛されなかったから愛されたかった私とは違う。あの人は……愛されなかったから愛したいだけなのよ」


 それは自己満足。水妖の不気味な真似事。あの人は、思いが届かなかったとしてもそれはそれで諦められた。私が生きていたなら身を引いていただろう。悔しくても悲しくても、歯を食いしばって笑っただろう。あの人は、そういう気持ち悪い人なんだ。


 「私が貴方を傷つける前に姿を現していれば。貴方が裏切りを犯す前に夢を反転させれば……シエロ、貴方はすぐに私の心へ帰ってくるのよ?」


 だって私を見限る理由がない。お兄ちゃんを選ぶ理由もない。

 アムニシアに頼んで、そうしてもらってもいいの。あの時に戻れば貴方の愛は揺るぎない。

 でもそうしないのは……悔しいからよ。そんな奥の手。敗北を認めるような物。今は勝てないから勝てるところまで戻る。そんな馬鹿なことがある?

 私は貴方を懲らしめるためなら何度だって夢と現を入れ替えるけど、逃げるためにそうするつもりは微塵も無いのだ。

 私は今だってお兄ちゃんに負けているとは思わない。貴方が貴方を信じられなくなっている今だって、私は貴方の愛を信じている。私達のはぐくんだ物が、こんな僅かな時間であんな男に引き裂かれるはずがないでしょう?嫌よ、嫌。そんなの嘘うそ!


 「貴方がお兄ちゃんに抱いているのは、哀れみと同情。エーコにいじめられたお兄ちゃんを慰めたかっただけ。死んだ私の方を見ていることが申し訳なかった。貴方はあの人を愛してあげたいだけで、愛しては居ないんだわ。だってその全てが私ありきの話じゃない」


 彼へ近づくため私も水の祭壇へと降りる。それに伴い近づく声に、誰を重ね見たのか戸惑う素振りが愛らしい。


 「貴方は意地になっている。私よりも貴方を愛してくれている(と貴方が思っている)お兄ちゃんを、私より愛していない事実から目を背けたくて私を拒絶している。だって申し訳ないから。傷つけずに大切に愛してくれている人より、傷つけて奪っていく私の方が貴方は好きなんだから、悪いと思って当然よ」


 私とお兄ちゃんは愛の形も方向性も違う。だから後者の愛が正しく大きな物だと貴方は錯覚していた。だけど私の狂気めいた思いに触れて、何が正しいことなのか分からなくなっているのでしょう?そう、元々空っぽだった貴方。正解なんてどこにもないのだ。どこまでも受け身な貴方。可哀想で、可愛い人。


 「断言してあげるわシエロ。貴方が好きなのはこの私」


 でもお兄ちゃんと同じ方法で私は貴方を愛せない。貴方だってそんなの、絶対あの人と私を比べる。そして私を選ばない。だから私は貴方をもっと傷つけて苦しませなければならないわ。


 「ねぇシエロ。試してみたくない?お兄ちゃんが死んだら、その時貴方が何を思うか、知りたくない?」

 「!?」

 「私を失ったとき程の衝撃を、怒りを悲しみを、果たして貴方は受ける?いいえ!断じてあり得ない!!貴方は今のように、悲しそうに目を伏せるだけよ!それで涙を流すだけ!本当は分かってるんでしょ……?貴方はまだ、私の物なんだってこと」


 見開かれたシエロの目、とても怯えている。私の言葉を否定できないのだ。本当にその通りだから。


 「分かったでしょシエロ。お兄ちゃんを不幸にしてるのは、私よりも……ずっとずっと、シエロなんだよ?」

 「……っ」


 私の言葉に耐えかねて、情けなくもボロボロ泣き出すシエロ。嗚呼、そんな顔も私は大好き。


 「貴方は言ったね。一回お兄ちゃんのために死ぬって。じゃないと自分の心が分からないって」

 「……」

 「私は貴方が好きだから、一度だけその通りにさせてあげる。嬉しい?ふふふ、それは良かった!喜んでもらえて私も嬉しいよ」


 私が笑うと同時に、せり上がる水位。それは私の背丈も軽く超え、シエロの口まで届く。自由に泳げる私は良いけれど、縛られた貴方は呼吸するのもままならない。

 瞬間的に限界水位を超えた。これは地上の写しではなく、海神降臨の合図。特別なゲートから深海の水が溢れ込んでくる。そこから身体の一部を、分身を送り込んだ方がいるのだ。ゲートから現れたのは、ゆうに2メートルを越える大柄の男。これでも十分小さな姿になっているのだ。大海の化身である海神の身体はとてつもなく大きい。とてもじゃないが本体がここへ来ることなど出来ない。そんなことにもなれば、箱船が沈んでしまう。


 「お父様!」

 《我が娘……待ち侘びたぞウンディーネ!》

久々の海神。

この作品は恥ずかしながら愛という物について考えてみた作品です。

設定がカオスだったり愛が錯綜倒錯しているので色々思われているかもしれませんが、根っこの部分は哲学なのかもしれません。


歌姫達も主人公達も、男達も悪魔達もみんな愛についていろいろ考え、主張しぶつかり合わせました。

主人公が絶対正しいわけはないし、他の誰かの方がもしかしたら正しいのかも。答えなんて存在しない問いなのだと思います。


それでも物語としては幕を下ろさなければなりません。ラストスパート…駆け抜けたいと思いますので、もうしばしおつきあいいただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ